No count!

 買い物を終えた沖矢昴は、居候している工藤邸に向かっていた。日差しが強い。もうすぐ夏になる。とある事情で首元を隠さなければならない沖矢にとって、それはあまり好ましい季節ではない。
 工藤邸はこの地区でも珍しいほどの立派な屋敷だ。庭も広く、敷地を囲む塀が少々威圧的にそびえ立っている。
 沖矢は普段通り、その塀沿いを歩いていた。すると、季節外れの冷たい風が沖矢の頬を掠めた。そのときは、特に何も思わなかったのだ。そんな風が吹くこともあるのだろうと。涼しくて気持ち良いとさえ思った。
 しかし、沖矢は次第に不信感を強くした。屋敷の入り口に向かうにつれ、肌寒くなってきたのだ。雲一つない空を見上げると、太陽がじりじりと輝いている。風が特別強いというわけでもなかった。暑いわけでもないのに、背中に嫌な汗を感じる。普通ではないと思った。だが、それは立ち止まる理由にはならない。沖矢は警戒しつつ、足を進めた。
 沖矢が最後の角を曲がり終えると、ちょうど門の前に一人の少女が佇んでいるのが目に入った。白いノースリーブのワンピースを身に着けた少女は、顔を俯かせている。表情を窺うことはできない。しかし、血が通っているのか疑わしいほどの青白い腕が、沖矢の不信感を助長させた。沖矢の体はより一層の冷気に包まれてゆく。
「大丈夫ですか?」
少女を無視することはできなかった。せめてもう少し遠くに彼女が居たのであれば、そうしたかもしれない。だが、彼女は門のすぐ隣に立っていたのだ。――いや、立っていたという表現は間違いだった。沖矢は軽い眩暈を覚える。彼女の足は、地面から少しだけ離れていた。
「わ、わたしのこと見えるの?」
少女は勢いよく顔を上げて、沖矢のことを赤い潤んだ目で見つめた。
 沖矢は少女に返事をせずに門に手を掛けた。見間違いだと思いたかったのである。たとえ見間違いではなかったとしても、これ以上関わりたくないと思った。しかし、少女は沖矢の正面に回り込んで、鼻先がぶつかってしまいそうなほど距離を詰めてきた。彼女の足は、先ほどよりも地面から離れている。沖矢は無意識に後ずさりをしてしまった。それは、沖矢に少女が見えているという、何よりの証明であった。
 沖矢は観念して、少女に頷いて見せた。半ば自棄になっていたのかもしれない。少女はそんな沖矢を見て、ぎこちない笑顔を作った。
「……あなたは?」
「え、えっと……よくわかんなくて……」
「お名前は?」
「んー……忘れちゃった」
少女は沖矢の周りをふよふよと飛んで回った。落ち着かないのでやめてほしいと思ったが、あまりにも嬉しそうな少女を見ると、口に出すのを躊躇してしまう。しかし、一体どうすればいいというのか。数多くの危機を乗り越えた男でも、こんな状態になってしまっては打つ手がない。
「……そろそろ家に入ってもいいでしょうか?」
「えっ」
少女はわかりやすく肩を落とした。何となく不憫に思って彼女に手を伸ばす。だが、それは間違いだったかもしれない。沖矢の手は、彼女に触れることなく宙を切った。断言できる。彼女は普通ではない。

 少女の言葉から察するに、他の人に彼女の姿は見えていないのだろう。このままでは独り言を続ける不審人物として通報されかねない。沖矢は不本意ながらも少女を工藤邸に招き入れることにした。
 玄関の前で、少女はぴたりと動きを止めた。どうしたのかと問うと、彼女は寂しそうに首を傾けた。
「おうちは……入れないみたいなの」
「……そうでしたか」
なぜ普通に会話を続けているのか。どうして彼女の言葉をすんなりと信じ込んでいるのか。どう考えても異常だと言える目の前の事実に、考えても無駄だと悟ったのかもしれない。沖矢は家に入ることなく、庭の木の幹に腰を下ろした。
「あなたは幽霊なんですか?」
こんな言葉を口にするなど夢にも思わなかった。少なくとも、数分前までは。だが、目の前に居る少女はどう見ても……むしろ幽霊だと言われるのが一番自然だとさえ思う。
「わたし、死んじゃったの?」
「それは……僕には判りかねますが……」
少女は気付いたら工藤邸の前に居たそうだ。その直前まで何をしていたのか、自分が何処に住んでいたのか。何も思い出すことができないという。そして、通りすがりの人に話しかけても反応はない上に、遠くに行くこともできないそうだ。沖矢は再び眩暈がした。彼女が幽霊だったとして――この仮定ですら沖矢は頭痛を得るのだが、それは置いておく。彼女は工藤邸の周辺に留まり続けるのだろう。冷気を周囲に振りまいて。彼女が成仏するまでの間、ずっとだ。
「あまり長くここに留まるのは良くないんじゃないですか?」
早く成仏しないと地縛霊になってしまう。そんな話をどこかで聞いたことがあった。もちろん信じているわけではないのだが、とにかく彼女にはこの場を離れてもらいたいと思っている。
「どうしたらいいの?」
「さあ……何か未練があるとか、そういった話は耳にしたことがありますが……」
「未練?」
「何かやりたいことや、気になっていること、でしょうか……」
「えー……? 何かあるかなあ?」
彼女は考えているようだった。いい加減、家の中に入りたい。沖矢は立ち上がろうとしたが、少女が泣きそうな顔をするので、叶わなかった。
 もしも赤井秀一だったらどうしていただろう。沖矢昴の仮面さえ被っていなければ、こんなところに長居する羽目にはならなかったかもしれない。完璧に沖矢昴を演じていたからこそ、彼女の声に耳を 傾けてしまったのだろう。自分を納得させるように、沖矢は頭の中で呟いた。
「お名前は?」
彼女は自分の未練について考えていたのではなかったのか。沖矢は頭を抱えたくなったが、どうにか堪えた。世話になっている少年の友人らに接するように、優しい口調を心がける。
「沖矢昴、ですよ」
「沖矢昴さん……」
名前を教えるのもあまりよくないことなのかもしれないと思ったが、これは偽名なので大丈夫だろう。少女は沖矢の名を繰り返し口ずさんで、嬉しそうに足をパタパタと動かした。だがすぐに、大きな瞳を揺らして、沖矢の瞳を見上げてきた。
「どうしました?」
「わたしの名前、何ていうのかなーって……」
「……思い出せるといいですね」
「……うん」
少女は沖矢に身を寄せた。しかし、彼らが触れ合うことはできなかった。

 沖矢と少女が話しているうちに、日はすっかり落ちてしまった。ぎらぎらと輝いていた太陽もオレンジ色に染まり、徐々に辺りは薄暗くなってゆく。
 沖矢はどうしたものかと悩んでいた。ずっとここで少女と話しているわけにもいかない。だが、家に戻ろうとすると、彼女は寂しがってしまうだろう。彼女の気持ちなど気にすることはないのかもしれない。だが、彼女の放つ冷気は放っておけるものでもなかった。尤も、沖矢が彼女の相手をしたからといって、それが改善される保証などどこにもないといえば、そうなのだが。しかし、これは慣れなのだろうか。彼女と出会った数時間前よりも、不自然な寒気は幾分か和らいでいるように感じられた。
「あ、あの……昴さん」
「はい」
「わたし、昴さんに……さわりたい、な……」
彼女は沖矢の返事も待たずに、手を重ねてきた。しかし、沖矢の手はひやりとした空気を感じるだけで、そこに人の感触はなかった。
「昴さん、目を瞑ってもらってもいい?」
好きにさせてやろうと、沖矢は言われた通りに目を閉じた。もしこれで、彼女が満足して成仏してしまえば御の字だと思ったのである。
 彼女に絶対に目を開かないようにと念を押された。沖矢が軽く頷いた、そのとき。
 沖矢の唇を、冷たい風が撫でる。嫌な感触ではなかった。そしてそれ以降、周りの空気が動く気配はない。沖矢が目を開くと、少女はいなくなっていた。
 まさか夢でも見ていたのだろうか。沖矢は両手に荷物を抱えて、立ち上がった。玄関のノブに触れた所で、彼の額から一筋の汗が流れ落ちた。

 沖矢が不思議な体験をして、数週間が経過していた。
 工藤邸は広い。一人で掃除をしようものなら、日が暮れてしまう。今日は家主の息子の友人の女性が、掃除を手伝いに来る日だった。
 チャイムが鳴り、ドアを開けると二人の女性が姿を現した。毛利蘭と鈴木園子。彼女らには、工藤邸を荒らす泥棒に間違えられたこともあった。しかし、今ではこうして掃除を手伝いに来てくれている。それは沖矢昴のためというよりも、工藤新一とその家族のためであると言えよう。
 掃除をしていると、再びインターホンが鳴った。蘭が応対してくると言うので、素直にそれに甘える。このときは、嫌な予感など微塵も感じていなかった。しかし、沖矢の前に戻って来た蘭は困惑したような表情を浮かべている。どうしたのかと問いかけると、蘭は遠慮がちに口を開いた。
「あの、小さい女の子が来てて……コナンくんの友達かなと思ったんですけど、違うみたいで……」
「小さな女の子?」
「はい……。沖矢昴さんの彼女ですかって聞かれたから、違うとは言ったんですけど……」
知っていますか? と聞かれて、即答はできなかった。少し嫌な予感がしたが、まだ確認もしていない。沖矢は蘭と一緒に玄関へ向かった。
 沖矢は軽い眩暈を覚えた。そこには数週間前に出会った少女が、地に足をつけて立っていたのだ。彼女は沖矢を見ると、嬉しそうな顔をして、とんでもない爆弾を投下した。
「昴さん! 責任とってください!」
蘭は慌てている。何か弁解の言葉を考えていたが、その間に少女は靴を脱ぎ捨て、沖矢に向かって走って来た。そして、勢いよく抱き着かれる。もちろん避けることもできたが、彼女は加減をすることも知らずに沖矢に向かっていったのだ。彼女を抱きとめたのは、沖矢の優しさだった。
「わたしね、雪っていうの! 大きくなったらお嫁さんにしてね!」
「雪さん、ですか……」
「うん!」
彼女にぎゅうぎゅうと抱きしめられる。彼女は温かかった。彼女は普通の女の子である。

キスのうちにも入らない