Strange vision

 視界が揺れる。心なしか体が熱い。このまま立っていると倒れてしまいそうだ。安室はフラつきながらも、なんとかソファに辿り着いた。倒れるように座り込み、座面が深く沈む。
「お兄ちゃん、顔赤いよ?」
ひんやりとした手が安室の頬に当てられる。目の前の少女は心配そうな顔をして、安室を覗き込んだ。
「……ごめん、風邪かもしれない。うつすといけないから、雫は部屋に行っておいで」
「うん。お兄ちゃんもちゃんとお薬飲まないとダメだよ」
雫はそう言って、椅子の上に乗り戸棚を開けた。そして風邪薬を取り出し、水の入ったコップと一緒に安室の目の前に静かに置くのだ。それは本当に些細なことだが、いつも一人だった安室の心にとっては大きな出来事だった。具合を悪くして心配されることなんて、幼いころ以来ではないだろうか。
「雫、ありがとう」
「ううん。早く元気になってね。」
安室は頷いて、雫が部屋に入るのを見届けた。そして机に置かれた風邪薬を飲んで、深く息を吐きだす。体調には気を付けているはずだった。しかし、無理が過ぎたのだろう。日ごろの疲れが一度に押し寄せてきたようだ。一刻も早く熱を下げなければ。安室は眠気を感じていなかったが、ベッドの中で無理やり目を閉じた。

 コンコン、というノックの音。安室が目を開くと、外はすでに明るくなっていた。いつの間にか眠ってしまっていたようだ。むくりと起き上がり、ベッドから下りる。昨夜のような気怠さは感じられなかった。
「ごめん、すぐに朝食の準備を――
扉を開いた安室は固まった。信じられないものが目に入ってきたのである。
 ひらりと揺れるプリーツスカート。どこかの制服であろうセーラー服を身にまとったこの少女は一体誰なのか。
「キ、キミは……?」
まさか組織の手先なのか。安室はそう考えたが、すぐに否定する。この少女から、そんな様子は一切感じられない。それによく見ると、どこか見覚えのある顔をしている気がする。
「……お兄ちゃん、寝ぼけてるの?」
「お兄ちゃん?」
安室のことをそう呼ぶ人間なんて、この世に一人しかいない。だが、どう見ても彼女は小学一年生ではない。
「……雫なのか?」
「もー、やっぱり寝ぼけてる! 早く顔洗ってきて!」
ムッと眉を寄せて頬を丸くする雫は、安室の中の彼女よりもいくらか表情豊かだった。というよりも、安室に対する遠慮が少なくなったと考えるほうが自然かもしれない。
 いや、と頭を振る。夢でも見ているのか、それとも数年分の記憶が無くなってしまったのか。
 冷水で顔を洗い、鏡に映った自身の姿をまじまじと見つめる。少し肉が落ちたような気がしないこともない。服の裾をめくって腹の肉をつまむと、やはりこれが29歳の体ではないことがわかる。
 リビングに入った安室は再び固まった。テーブルの上に朝食が並べてあったのだ。もちろん安室が作ったものではない。
「これ……雫が作ったのか?」
「そうだけど……もしかして、具合悪いの?」
安室の頬にひんやりとした手が当てられる。心配そうに覗き込んでくる彼女に何も落ち度はない。しかし安室はまだ、目の前の光景を受け入れられていなかったのである。
「あっ――」
安室は身を引いて、彼女の手を払いのけてしまった。彼女の傷ついたような表情を見てすぐに後悔が襲ってくる。しかしこのままここに居て、彼女に優しく接する自信もない。
「ごめん……」
「ううん。わたしも急に……ごめんなさい」
「いや……。仕事に行ってくる……」
「……いってらっしゃい」
安室は逃げるようにマンションを後にした。
 慌てて家を出たのはいいが、これから何処へ行けばいいのか。警察庁、ポアロ――さすがにここのバイトは辞めているかもしれない。それに例の組織との決着もついていてほしいところなのだが。
 考えながら歩いていると、ポケットの中のスマートフォンが震えた。画面には江戸川コナンの文字。知っている人物の名前に安心する一方で、雫の成長を考えると、コナンと話すことも戸惑いの原因になるのではないかと頭が痛くなる。しかし、組織の情報を得るのには悪くない相手だ。安室は電話に応答した。
「もしもし、どうしたんだい? コナンくん」
安室の想像よりも低い声が耳を掠める。背中に嫌な汗が流れた。だが、動揺している場合ではない。コナンの言葉から考えると、安室透はまだ存在している。つまり安室はまだ組織に潜入しているという確率が高い。それを確信に変えることができたらいいのだが。
「依頼で麻薬取引のルートを洗っていたら、どうやら例の組織と繋がっていたみたいで……」
コナンも敬語を使ってくるようになったのか、なんて感傷に浸っている場合ではない。やはり組織との決着はついていないようだ。数年かけて何をしていたんだと舌打ちをもしたくなる。
「わざわざありがとう。良ければ詳しい話を聞かせてもらいたいんだけど……」
「はい、もちろんそのつもりです。そのときに前に話していた資料を見せてもらいたいんですけど、いいですか?」
「あ、ああ。準備しておくよ」
そこで通話は終わり、安室は無意識にため息をついた。真っ黒になった携帯の画面を睨みつけても、何も状況は変わらない。マンションに戻ろうと、踵を返す。部屋のデスクやパソコンを調べれば何かわかるかもしれないと考えたのだ。そして同時に、彼女が外出していることを願った。
 ゆっくりとドアを開けて、中の様子を窺う。部屋は静かだった。そろりそろりと歩いて、部屋へ向かう。自分の家なのに何故こうもコソコソしなければならないのか。まるで泥棒に入ったかのような気分だ。
 リビングに雫の姿は見当たらなかったため、そのまま部屋に入ることができた。
 部屋の中から大した情報は得られなかった。入ろうと思えば雫だって入ることのできるこの部屋に、重要なものは置かないようにしていた。それは今も変わらないということだ。それならば、警察庁に出向かなければならない。すぐに部屋を出ようとしたが、急に視界がぼやける。頭に強い痛みが走り、安室はその場に倒れた。手で頭を押さえ、なんとか立ち上がろうとするも、上手く行かない。安室がその場にうずくまっていると、バタバタと足音が近づいてきた。
「お兄ちゃん、大丈夫? ドア開けてもいい?」
「雫……。大丈夫だから……」
なんとかドアに這いよって、ノブを捻る。雫は安室を見るなりその場に膝をついて、倒れそうになる安室を支えた。
「お兄ちゃん、やっぱり具合が悪いんだよ。今日は家で休んで」
「ごめん……でも、平気だから――」
また鋭い痛みが安室を襲う。耐えられなくなって、彼女に身を預けたまま安室は意識を手放した。遠くから彼女の声がずっと聞こえていたような気がする。

「……ちゃん……お兄ちゃん!」
ハッと目を開くと、そこには幼い雫が心配そうな顔をして、安室を覗き込んでいた。
「雫……」
混乱していたのか、安室は無意識に雫の頭を撫でていた。キョトンとした顔で安室を見つめる彼女は、安室が知っている通りの姿である。
「……お兄ちゃん?」
「あ……ああ、ごめん」
「うなされてたみたいだけど、大丈夫?」
「もう大丈夫だよ、ありがとう」
やはり先ほどの出来事は夢だったようだ。安心すると同時に、疲れが押し寄せてきた。頭をぐしゃぐしゃと掻いて、深く息を吐きだす。
「ちゃんとベッドで寝ないからだよ」
「えっ」
部屋で目を閉じたつもりだった。しかしここはどう見てもここはリビング。ソファで寝てしまっていたらしい。テーブルの上には雫の用意したであろうコップと風邪薬の箱が置いてある。コップに入っている水の量からして、薬すら飲んでいないようだ。
「ごめん……もう一度、部屋で寝ることにするよ。まだ本調子じゃないみたいだ」
「うん、おやすみなさい」
「おやすみ、雫」
薬を飲んで、部屋の布団の中で目を閉じる。次は変な夢を見ないようにと祈りつつ、意識を手放した。

夢か幻か、それとも――