A mirage

 特別なことなんてない、普通の日のはずだった。彼の準備した朝ご飯を食べて、学校へ行って、授業を受けて帰宅する。そうして明日を迎え、また同じことの繰り返し。その日も、そうなるはずだった。だが、雫は帰宅途中で男の助けを求めるような声を耳にしてしまう。苦しそうで、悲痛な声。本来ならば、彼に電話を入れてからそこへ向かうのが正しかっただろう。しかし彼女にそこまで考える余裕はなく、男の声のもとへ走り出してしまった。
 はっきりと声が聞こえるものだから、助けを求めた人物はそう遠くないところに居ると思った。しかし、その声は近くなったかと思えばすぐに遠ざかる。まさか男は移動しているのだろうか。雫は懸命に声を追った。
 しばらく声を追っていると、彼女は自分がどこに居るのかわからなくなってしまっていた。知っている道のように見えるが、何かが違う。心細くなりながらも、雫は前へ進んだ。そして、彼女はようやく目的地にたどり着いたのだ。
「だ、大丈夫ですか?」
壁にもたれるように座る男の脇腹は、赤黒く染まっている。それが血だということは、確認しなくても明白だった。雫はしゃがみ込んで、男の体を軽くゆすった。すると男は目を開き、少し驚いたような顔をした後、眉を険しくつり上げた。
「ここは危ないから……早く逃げるんだ……」
男は言葉を出すのも辛そうだった。片手で脇腹を握りしめ、その手には赤が移る。
「でも、お兄さんが……」
「僕は大丈夫だから……さあ早く……」
眉を下げて笑う彼は、どことなく兄に表情が似ていた。とても優しそうで、悪い人には見えない。彼を置いてこのまま逃げ出すことなんてできなかった。雫は首を振って、スマートフォンを取り出した。救急車を呼ぼうと考えたのである。しかし、何故かスマートフォンは動かなかった。電源ボタンを押しても、画面を触っても、何も反応がない。どうしてこんな時に……。苛立ちながら真っ黒の画面をタップしていると、目の前の男が不思議そうな顔をしているのに気付く。
「きみの持ってるそれは……?」
「え……携帯、です……。あ、でも、なんか動かなくて……」
「変わった形だね」
早く逃げろと言った割には、実に呑気である。男は珍しそうに雫の持つ白の塊を見た。
「あ、あの……お兄さんは携帯持ってないんですか?」
「持ってたんだけど、ちょうどここに入れててね……」
そう言って男は血に濡れたスーツのポケットを指差した。
「まあ、壊れる前に応援要請は出してたんだけど……」
「応援要請?」
「うん。僕は刑事で……まだ新米なんだけど、それでヘマしちゃって……」
「じゃあ、お兄さんは悪い人を――」
雫が言いかけたところで、急に男に腕を引かれる。男は怪我で辛そうにしていたにもかかわらず、その力は強いものだった。
「シッ」
口元を手で覆われる。少し土の匂いがした。
 空気が張り詰めるのを感じた。男は注意深く左右を見渡し、雫を抱く腕の力を強める。苦しかったが、それを主張してはいけないということだけは分かる。雫は男の肩に顔を埋めていたので何も見えなかったが、コツコツと足音が近づいてくるのは聞こえていた。ぎゅっと目を閉じて、音を立てないように、なるべく体が小さくなるように力を入れる。
 しばらくして、雫を抱きしめていた腕が離れる。足音は聞こえなくなっていた。
「今のうちに、きみだけでも逃げるんだ」
「でも……」
「ここに二人で居ても、どうにもならないんだ」
男の言いたいことは雫も理解していた。男は刑事として、関係のない子供を巻き込みたくないのだろう。そして、いくら雫がそれを拒否したところで、状況が改善されるわけでもない。それならば、ここから離れて誰か人を呼んでくる方が役に立つ。一人でそれができるか不安だったが、雫は意を決した。
「わかりました。あの、お兄さんはここに居て下さい。誰か呼んできます……」
「ありがとう。でも、無理はしないで。もしも変な男に見つかったとしても、きみは堂々としていればいい。何も知らない通りすがりの振りをするんだ」
「はい。すぐに戻ってきます。だから、待っててくださ――」
「ほお?」
背筋がぞくりと震える。後ろを振り向かなくとも、何が起こっているのかわかる。目の前の刑事は顔を青くして、雫を隠すように前へ這って出た。
「この子は何も関係ありません。たまたまここを通りすがっただけなんです」
「刑事ともあろうものが、悪人にお願いか?」
「ええ、ですからどうか……殺すなら僕だけを……」
刑事は勇猛に雫を庇おうとしているが、その手が震えていることが繋がった左手から雫に伝わる。彼も怖いのだ。それなのに、身を挺して雫を助けてくれようとしている。
「まあ、お前はお望み通り殺してやるよ!」
「待って!」
じっとしていられなかった。何か策があったわけでもない。雫は無意識に、刑事の前に飛び出していた。そうして雫は初めて“悪い人”を目にした。冷たい瞳に見下され、足が動かなくなる。
「何だ? 先に殺してほしいのか?」
黒い塊が雫に向けられる。泣き出してしまいそうだった。何か言うこともできず、ただ真っ直ぐに自分へ向けられた拳銃を見つめる。
「さっきの威勢はどうした?」
男は楽しそうに拳銃を雫の頬に押し付けた。まるで氷に触れているかのように、体の温度が奪われていく。
 兄ならどうするだろう。こんなとき、彼ならきっとどうにかしてみせる。今までだって、何度も雫を助けてくれた。
――それは……やめておいたほうが賢明だと思いますが。
ふと頭に浮かんだ言葉。それは、気味の悪い男に攫われたときの兄の言葉だ。あのとき、彼は確かこう言っていた。
「さっき、警察を呼びました」
「何?」
「救急車も呼びました! もうすぐ到着するはずです!」
男に動揺の色が現れる。そのまま男が逃げ出してくれれば良かったのだが、そう上手くはいかない。
「このガキが!」
撃たれる、と思った。体が固まって、動くことが出来ない。やはり兄のようにはできなかった。ぎゅっと目を瞑り、衝撃を待つ。しかし訪れたのは、横から強く押される感触だった。
 あまりの力に、雫はアスファルトの上に横たわる。そしてすぐに銃声が聞こえた。
 次に耳に入ってきたのは、カランという音。恐る恐る目を開くと、男は手から血を流していて、持っていた拳銃は地面に転がっている。男はそのまま背を向けて逃走した。
「ごめん、大丈夫だったかい?」
緊張感のない声。雫が刑事を見ると、彼は右手に拳銃を構えていて、先端からは白い煙が昇っていた。
「はい……。あの、ありがとうございました……」
「いや、お礼を言うのは僕のほうだよ。すごいね、きみは」
男はへらりと笑って、銃を懐にしまった。サイレンの音が近づいてくる。

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 楽しい結婚前のパーティになるはずだった。それなのに新婦の初音が亡くなってしまい、会場は騒然としている。
 コナンのクラスメイトである雫は、今にも泣きそうな顔をしてトイレに入って行った。そしてその姿をじっと見つめる人物がいるということに、コナンは気付いたのである。
「どうしたの? 高木刑事」
「ああ、コナンくん。さっきトイレに入って行った子なんだけど……」
「雫ちゃんのこと?」
「雫ちゃんっていうのか……」
コナンは眉をひそめた。高木はなぜ雫のことを気にしているのだろうか。
「雫ちゃんがどうかしたの?」
「いやね、僕がまだ新人だったころ……彼女に似た子供に命を助けられたことがあったんだけど……」
「へー、そんなことがあったんだ」
コナンはその命を助けられた場面というのにも興味があった。しかしそれを尋ねてしまうと、話が大きく逸れる。
「でも、ちょうど雫ちゃんと同じぐらいの年の子で、だから人違いのはずなんだけど……やっぱり似てるような気がしてね」
「そのとき名前は聞かなかったの?」
「うん。いつの間にかいなくなっちゃってたんだよね。――ああ、でもお兄さんが探偵をしていると言ってたかな」
「そうなんだ」
「それに、今考えるとその子はスマートフォンを持っていたような気がして。まだそんなもの無かった時代なんだけどね」
はは、と高木が笑う。
 命の危機に面して、高木の記憶が曖昧になっているのだろうとコナンは考えた。
 コナンが安室と雫の関係を知るのは、その翌日のことである。

彼女は確かに存在した