This must be the place

「下にタクシーを呼んでいるから、それに乗ってくれないか」
「うん、わかった」
公衆電話からの着信。出るかどうか迷ったのだが、雫の選択は正しかったらしい。しかし何故、公衆電話なのだろうか。気にならないわけではなかったが、彼もどうやら急いでいるようだったので、尋ねることなく電話を切った。
 確かにマンションの入り口のところにタクシーは停まっていた。気になるのは、後部座席に座っている金髪の女性。これは彼が呼んだタクシーとはまた別なのだろうと雫は考えた。だが、他にタクシーらしき車は見当たらない。きょろきょろと雫が首を動かしていると、金髪の女性がタクシーから降りてきた。
「あ……お姉さん」
「久しぶりね」
知り合いというわけではないが、雫はこの女性に見覚えがあった。いつだったか、彼女の乗っていたバイクにぶつかりそうになったことがあるのだ。
「あの、この前はごめんなさい」
「いいのよ。それに、何度も謝られてたっていい気はしないわ」
「はい。すみませ……あっ」
言われたそばから謝ろうとしてしまった。雫が慌てて口元を押さえると、目の前の女性は赤く塗られたリップに弧を描いた。
「そんなことよりも……行きましょうか」
女性は再びタクシーに乗り込んだ。しかしそれは彼女一人で、というわけではなく、雫も一緒にだ。訳が分からずキョトンとしていると、女性は首を傾げて言った。
「あら、聞いていなかったかしら?」
「え……?」
「あなたのお兄さんに頼まれたのよ。今日は彼、帰りが遅くなるらしいから」

 タクシーが停まったのは、大きなホテルの入り口だった。
「シャロンさん、ここは?」
お姉さんと呼んでいたら、彼女はそう名乗った。彼とは仕事の関係で知り合ったらしいのだが、詳しいことはわからない。ただ、こんなことを頼むぐらいだから、きっと仲は良いのだろうと思う。
「ここのケーキ、とても美味しいの」
「……はい」
「あら、ケーキは嫌い?」
「いえ……なんでケーキなんですか?」
「細かいことは気にしないものよ」
不安気な雫に構うことなくシャロンはホテルへの階段を上っていく。観念して彼女について行くしかないようだ。
 てっきり店でケーキを食べるものだと思っていたが、シャロンが向かったのはホテルの一室。部屋に入るなり備え付けの電話で何か注文をしていたようなので、恐らくケーキがここまで運ばれてくるのだろう。もちろん彼女と一緒に食べるのだと思っていた。しかし、シャロンは今にも部屋を出ようとしている。
「私は用があるから、あなたはここで好きにしていてちょうだい」
「え……えっと……」
「何か問題があるかしら?」
「それならわたし、家に帰ったほうがいいんじゃ……」
いくら兄の帰りが遅いとはいえ、予定のあるシャロンに面倒をかけるのは気が引ける。一人で家に居ることなんて珍しくないのだから、わざわざこんなことをしてもらう必要もないのだ。
「そうね。でもダメよ」
「どうして……?」
「しばらくしたら彼が迎えに来てくれるはずよ。それまで絶対にここを出たらダメ」
パタンと扉が閉められる。勝手に部屋を出ることも出来ず、雫は彼の迎えを待つしかなかった。シャロンが去ってすぐにケーキが運ばれてきたが、手を付ける気にはならなかった。

 ベッドに寝転んで彼を待っていたが、外はすっかり暗くなってしまった。次第に瞼を重く感じ、意識を手放しかけていたが、ガチャリという音に一瞬で目が覚めた。
「雫!」
部屋に入ってきたのは彼だった。物凄い剣幕で雫に駆け寄り、無事かと確認をする。しかし雫にしてみれば、無事ではないのは彼のほうだ。
「お兄ちゃん、血が……」
彼の着ている白いシャツは泥で汚れ、顔には傷がついている。
「ああ、ごめん」
「ごめんじゃなくて……どうしたの?」
「大したことじゃないよ。それより雫、あの女の人に何もされなかったか?」
「ケーキはたくさん頼んでくれたけど……」
部屋のテーブルに置いたままにしていたケーキを指差す。それを見た彼が、少し顔を歪めたような気がした。
「……病院は行ったの?」
怪我の理由を聞いてもはぐらかされてしまいそうで、追及するのは諦めた。だが、それでも見過ごせないことがある。とても手当をしたようには見えないのだ。
「ああ、一度家に帰ったら行くよ」
「ダメ。先に病院に行って。邪魔ならここで待ってる」
雫は真剣だった。しかし彼はそんな雫を見てへらりと笑ってみせる。
「……なんで笑うの。心配してるのに」
「嬉しいから、かな」
彼はそのまま雫の手を引いてホテルを出た。家に帰るか病院に行くかと車の中で揉めたが、最終的には雫の意見が通った。
 すやすやと寝息を立てる少女を抱えてマンションに入る男が一人。彼はとても穏やかな表情をしていた。

帰る場所