Only he knows the truth
「安室さ……あっ」
言いかけて、しまったと口元に手を当てる。目の前の恋人――降谷は不機嫌そうな表情を隠そうともしない。
「えっと、すみません……慣れなくて……」
元はと言えばあなたのせいでしょう、とは思っていても口には出せない。
彼がいくら降谷零だといっても、長く安室透と接してきた時間がそれを邪魔する。椿はたびたび彼のことを安室と呼んでしまっていた。まあ、そのうち慣れるだろうと、椿は楽観的に考えていた。しかし数日後――。
「安室さん」
「はい、何でしょう?」
また間違えてしまったとヒヤヒヤしていたところに返ってきたのは“安室透”の言葉だった。優しく細められた目に見つめられているのにどこか恐ろしい。まるで金縛りにあったかのように動くことが出来ないのだ。
彼は安室透を辞めてから、椿に敬語を使わなくなった。椿が名前を呼び間違えて不快そうにするのも降谷ならではの表情だった。だが、今の彼はにっこりと笑っている。そうさせている原因が自分自身にあるということは明白だった。
「……ごめんなさい」
「どうして謝るんです?」
「わたしが……何度も名前を間違えるから……」
彼が心を閉ざしてしまったかもしれないと、泣きたくなった。込み上げるものを押さえて俯いていると、小さな溜息が聞こえた。
「……安室透のほうが好きなのかと思ったんだ」
確かにそんなことを言った。だけどそれは意地を張っていただけで、本当にそう思っていたわけではない。彼もそれを理解しているようだったが、やはりどこかで引っかかるものがあったのだろう。椿は後悔した。彼が本当のことを告げに来てくれたとき、どうして素直になれなかったのか。話してくれてありがとうと、なぜ言うことができなかったのか。
「そんなこと――
そんなことない、という言葉が彼に遮られる。
「でも、やっぱり駄目だ」
「え?」
「キミには降谷零を見てほしい。安室に……自分に嫉妬するなんておかしな話だ」
彼は自嘲気味にふっと笑った。その表情が胸に突き刺さるように痛い。彼にそんな表情をさせないためにも、早くどうにかしなければならない。
「零さん」
「……は?」
椿が一晩悩んで出した結論がこれだ。苗字を呼び間違えてしまうなら、いっそ下の名前で呼んでしまおうという単純なもの。さっそく実践してみたのだが、彼は目を丸くして固まってしまった。
「ダメでしたか?」
「……いや、驚いただけだ」
「名案だと思いません?」
「まあ、そうだな……」
という割に、彼の表情は晴れやかではない。少ない口数、逸らされた目線。これではまるで――
「もしかして、照れてます?」
彼を相手に優位に立てることなんてほとんどない。そのためか、うわついていた。にやにやと口元が緩む。彼が今どんな顔をしているだろうと、見たくて仕方がなかった。彼に近づいて、顔を覗きこむ。しかしそこにあったのは、椿の期待していた表情ではなかった。
「……で、これからどうするんだ?」
ニヤリと笑う彼。一気に形成が逆転される。忘れかけていた――彼は降谷零。優しい安室透ではない。先ほどの照れていたような素振りは演技だったのだろうか。もしかしたら、その前の不機嫌そうな顔だってそうかもしれない。彼の演技が上手いというレベルに収まり切れていないのは身をもって知っている。
降谷零はずるい男だ。けれど、そんなところにもドキドキしてしまうのだから救いようがない。椿はじりじりと彼に距離を詰められながら、どう返答しようかと頭を巡らせていた。
真実は彼の胸の中にある