Have egg on my face!

「すみません、お隣よろしいですか?」
「え、ええ……どうぞ」
喫茶店のカウンターで昼食をとっていたところに現れた男性。眼鏡を掛けていて、優しそうな人だった。見るからに無害――なのだが、それが逆に怪しい。ただ隣に座るだけかと思いきや、妙に話しかけてくる。話題は他愛のないものだったが、自分の立場上、何か探りを入れられているのではないかと勘ぐってしまうのだ。
 ついこの間も安室透という男に目を付けられ、あろうことか好きになってしまった。彼もわたしと同じ気持ちであるということらしいが……あの日以来連絡をとっていない。自分から連絡をすればいいのかもしれないが、何となく出来ずにいる。遊ばれていただけなんじゃと疑う気持ちが、わたしの指先を縛り付けるのだ。そもそも付き合っているのかという問いにすら、自信を持って首を縦に振ることができない。せめてメールや電話の一つでも寄越してくれればいいのに、と思っていることなんて彼は少しも気付いていないだろう。
「悩み事があるようでしたら、僕でよければ伺いますが……」
「い、いえ! そんな、見ず知らずの方に……」
「見ず知らずの人だからこそ、話しやすいのではないでしょうか?」
「それは……そうかもしれませんけど……」
見かけによらず、強引な人だった。まあどうせ、今日限りの付き合いなのだから、話してみてもいいかもしれない。それに、わたしもわたしで誰かに話したいという気持ちもあったのだ。
「好きな人がいるんです。でも、わたし……多分その人より自分のことが好き……というか大事なんです」
傷つきたくないから、彼に一歩踏み出せないでいる。など、詳しいことは伏せて大まかに今の状況を話した。
「特に問題のある話には思えませんが」
わたしが話を終えるとともに、隣の男性はさも当然のように言ってのけた。
「え、と……」
「誰しも持っている感情だと思いますよ。椿さんは他の人より少しそれが強いんでしょう」
男はふっと微笑み、席を立った。呆然と後姿を見つめていると、彼の言動のおかしな点に気付く。彼は一体何者なのか、出会ったのは偶然ではなかったのか。
「ま、待ってください!」
急いで会計を済ませて、遠ざかる男性を追いかける。そして、思わず彼の腕を掴んでしまった。
「どうかしましたか?」
彼はゆっくりと振り返り首を傾げた。
「あの、なんで……わたしの名前――
そのとき、何者かがわたしの腕を急に引っ張り、続きは言えなかった。何が起こっているのかわからない。わたしの腕を引いたのは、つい先ほどまで頭の中を占めていた男だったのだ。
 安室は少し機嫌が悪いように見えた。腕を握る力は強く、普段の紳士的な態度からは想像できないほど眉間に皴が寄っている。
「随分と仲がよろしいようですね」
「彼女が悩んでいたようなので、少し話を聞いていただけですよ」
「……そうですか。ですがそれは僕の役目です。彼女に気安く触れないでいただきたい」
「あ、安室さん……触れたのはわたし……
あなたは黙っていてくださいとでも言うように、安室にジロリと睨みつけられる。そして彼はわたしの腕を掴んだまま、ずんずんと歩き出した。
 腕は痛かったし、彼の歩くペースも早い。だけど口にするのが怖くて、わたしは黙って彼に着いていった。
 少し離れた公園に入ると、彼はようやく足を止めた。
「椿さん、彼とはどういう関係なんですか?」
「……わかりません」
「……はい?」
「偶然、喫茶店で席が隣になっただけだと思ってたんです。それで話をして……でも、あの人わたしの名前を知ってたみたいで、どこかで会ったことがあるのかと考えてたんです」
「……では、あの男の名前は?」
「そういえば、聞いてないです」
安室はため息を付いて、髪をくしゃりと掻き上げた。
「はあ……もういいです。それで、悩み事というのは?」
「い、言えません!」
反射的にそう返してしまって、すぐに後悔する。あなたのことですと素直に打ち明けるほうが、どう考えても可愛い。こんなことでは彼に愛想を尽かされる日も遠くないだろう。
「ごめんなさい、帰ります」
口から出て来るのは、思っているのと反対の言葉ばかりだった。このまま帰ってしまえば、本当に終わりになってしまうかもしれない。でも、どうせ終わりになるなら早いほうがいいと、そのほうが傷が浅くて済むんじゃないかと考える自分も居る。
 くるりと踵を返して、涙ぐんだ目元を隠す。そのまま歩き出そうとしたが、彼に再び腕を捕まれて出来なかった。
「待って」
背中から暖かさが伝わる。俯いた目線の先には、自分のものより色の濃い腕が。抱きしめられていると理解するのに、そう時間はかからなかった。
「……だったら僕の悩みを聞いてください」
身体に回された腕の力が、より強くなった。嬉しいという気持ちと、羞恥心がぶつかり合う。
「あの……ここ、外ですし」
離してくださいと訴えると、彼はずいぶんあっさりとわたしの体を開放した。彼はわたしの言った通りにしただけなのに、それを残念に思う自分が本当に嫌だった。
「……疑り深い恋人に信じてもらうためには、どうしたらいいんでしょう?」
「……あ」
恋人って誰ですか? なんて聞くほど馬鹿ではない。彼が言っているのは、きっとわたしのことだ。わたしの態度が彼を傷つけているのだ。わたしだって、彼に好きと言って信じてもらえなかったら辛いに決まっている。怖がっているのはわたしだけじゃなかった。一度、勇気を出さなければ。恐る恐る彼の目を見ると、そこには自分だけを見つめる強い瞳があって、吸い込まれてしまいそうだった。
「じゃあ……好き、って言って下さ――
「好きです」
彼はわたしが恥ずかしがる時間すら与えることなく即答した。
「わたしも、好き」
そのときの彼の表情を見て、どうしてもっと早く言わなかったんだろうと後悔した。わたしは本当に勝手な女である。

享楽のためなら恥も買う