He didn't get it
工藤新一は比較的、平穏な時を過ごしていた。比較的――と言うのは、彼が江戸川コナンだったときに比べてのことである。元の姿に戻った新一は、以前のように捜査協力をすることもあったが、身の安全を考えてメディアへの露出は控えるようにしていた。それでも何故か事件に巻き込まれることは多いので、多少の危険は降りかかってくる。だがコナンが経験したことに比べれば、そのどれもが可愛い程度のものだった。
その日は休日で、捜査協力の話もない、まさしく平和な一日のはずだった。新一は広々とした自宅で一人、読書に勤しんでいた。発売を楽しみにしていた推理小説。もうすぐ真相に差し掛かる。自分の推理は正しかったのか。答え合わせを目前にして、ページをめくる指に力が入る。そのとき、ピンポーンと音が鳴った。これは推理の正解を告げるものではない。来客を知らせる音だ。
蘭か、少年探偵団か。新一は数人の顔を思い浮かべながらインターホンを確認した。しかしどれも不正解。そこに居たのは、かつての江戸川コナンのクラスメイト、マリだった。
新一はとりあえずマリを家に上げた。しかし、どうして彼女がここを訪ねてきたのか分からない。彼女は少年探偵団の一員というわけでもなければ、探偵団のメンバーと仲が良かったわけでもない。つまり、この家に上がったことすらないのだ。まあ考えても仕方がないと、新一は彼女に聞いてみた。
「コナンくん、今どこにいるか知ってますか?」
「確か、親の都合で海外に行ったんじゃなかったか?」
新一は慌てることなく言った。これはコナンが帝丹小学校を転校した理由だ。だが、新一の返答にマリは満足しなかったらしい。彼女は小さな眉を寄せて、ジュースの入ったグラスをテーブルに置いた。
「どこの国ですか?」
「さ、さあ……詳しくは俺も聞いてねーよ」
彼女は更に眉間のしわを深くして、首を捻った。親戚なんですよね? という言葉に、そう言えばコナンがよくそんなことを言っていた気がする。と、新一は他人事のように昔を思い出していた。
「あの……じゃあ、連絡とかも、してないんですか?」
「まあ、メールぐらいならたまに。何かあのボウズに用でもあるのか?」
新一は何気なく聞いたつもりだった。しかし、彼女が気の毒なぐらいに顔を真っ赤にして、「それは……」と言葉を濁している姿を見てしまうと、どうしてコナンを探しているかなんてすぐに理解してしまった。
不思議なことに、コナンは彼女の好意に全く気付いていなかった。それが別の人間になることで、こうも簡単に判明してしまうものか。彼女には悪いが、コナンはもうこの世界には居ない。さてどうやって帰ってもらおうかと新一は考えを巡らせる。彼の中に照れや喜びはほとんどなかった。コナンへの好意を目の当たりにして、コナンの存在がどこか遠いものになる。それ以前に、小学生に好意を寄せられたところで、という気持ちのほうが大きかったかもしれない。
「何か言いてーことがあるなら伝えとくけど」
「あ、ありがとうございます……。でも……大丈夫です……」
「あー……そうか」
新一が困っていると、彼女は「ごめんなさい」と頭を下げて工藤邸を後にした。新一は彼女の飲み残したジュースを片付けて、読みかけだった小説をその日のうちに読破した。
それから外で彼女をよく見かけるようになった。というより、元からすれ違うことはあったのだろう。新一が気にかけていなかっただけだ。彼女は落ち込んでいる様子もなく、少し拍子抜けだった。
今日の授業は退屈だったな、と欠伸をしながら家に帰る。蘭は部活で居ない。今日は何をしよう。そう考えながら角を曲がると、マリが電柱の影に隠れて何かに怯えているのが目に入った。
「どうしたんだ?」
「あ……新一さん……」
彼女の指の先には大きな犬。そうだ、彼女は犬が苦手だった。それを知っているのはコナンである。
「怖いのか?」
「だって噛まれたりしたら……」
彼女の体の大きさとそう変わらない犬だ。怖がるのも無理はない。新一が犬を怖いと思ったことはなかったが、コナンの姿で大きな犬にじゃれつかれたとき、小さな体では支えきれずに地面に倒れ込んでしまったことを思い出した。
「ほら、大丈夫だから今のうちに……」
新一が前に出て犬を撫でると、犬は嬉しそうに体を摺り寄せてきた。遠くから「すみませーん」と手を振りながら女性が近づいてくる。彼女は犬の飼い主だった。
「新一さんって犬に好かれるんですね」
「あ、ああ……」
新一が狼狽えたのは、同じようなやり取りをコナンでもしたからだ。もしかして、そのとき好きになったのか? と考えたが、聞くことはできない。
これだけのことで彼女がコナンの秘密に辿り着くはずがないのに、妙に鼓動が速くなる。何も慌てる必要はない、と自分に言い聞かせるが、その後の出来事に新一は頭を抱えたくなった。
そのままマリと一緒に歩いていると、サッカーボールが彼女に向かって飛んできた。新一は咄嗟に彼女を庇い、胸でボールを受け止める。すぐ横の公園から、少年が駆け寄って来るのが見えた。
「おーい、気を付けろよー」
軽くボールを蹴って返す姿を、まじまじと彼女に見つめられていた。「ごめんなさーい」という子供たちの声は何故か遠い。
彼女は何も言わなかったが、新一は居心地の悪い思いをしていた。だから彼女と別れる道に辿り着いたとき、少し気が抜けてしまったのである。
「じゃあ、気を付けて帰れよ」
そう言った直後、新一は自分のミスに気付く。新一は彼女の家がどこにあるのかなんて、知っているわけがないのだ。
新一は逃げるようにその場を去った。マリが何か言いかけていたように見えたが、気付かない振りをして。
それからマリはちょくちょく工藤邸を訪れるようになった。彼女はたまに新一をじっと見ているが、新一はあれ以来、目立った失敗はしていない――と思う。あのときは少し焦っていただけだ。冷静になれば、どうってことはない。新一は近所のお兄さんとしてマリに接している。
マリの口から“コナン”という言葉を聞く回数は次第に減っていった。最後に彼女がそう言ったのはいつだったか。そんなことを考えるのも、新一の心のどこかに余裕があったからである。寂しいなんて気持ちは全くない。
その日、久しぶりに彼女の口から“コナン”という言葉を聞いた。
インターホンを鳴らした彼女が両手に抱えていたのは白い紙箱。彼女はにこっと笑って言った。
「新一さん、お誕生日おめでとうございます」
「え……よく知ってたな」
「コナンくんが言ってたので」
「あー……そうだったのか」
それは新一の誕生日のことなのか、コナンと新一が同じ日に産まれたという話だったか。必死に記憶をひっくり返していると、彼女は手の白箱を差し出してきた。
「これ、お母さんと一緒に作ったんです。食べて下さい」
箱の中身はパウンドケーキらしい。ここで箱を受け取ってドアを閉めてしまえばいいのに、彼女を招き入れてしまうのは新一の甘さだ。「オメーも一緒に食べてくか?」と言ったときのマリの嬉しそうな顔は、新一の良心に刺さる。
レモンの輪切りが乗せられたスポンジに包丁を入れて、紅茶と一緒に運ぶ。新一を待つマリは、お行儀良く足を揃え、ぴんと背筋を伸ばしてソファに座っていた。
……視線を感じる。非常に食べづらい。マリの前に出されたパウンドケーキは形を変えず、彼女は手を動かそうともしない。ただ、期待と不安が混じったような視線を新一に送るだけだ。新一はなるべく彼女と目を合わせないようにしながら、密度の詰まったスポンジを口に運んだ。
「あの……どうですか?」
「ん、上手にできてる」
新一の答えに満足したのか、マリは嬉しそうに眉を下げてフォークに手を伸ばした。
パウンドケーキを食べるだけのことに、そう時間はかからない。マリが工藤邸を訪れてから、まだ一時間の半分ほど。だというのに、外は雨。困ったような表情のマリに、新一は安物のビニール傘を差し出す。
「あの、さ」
「はい?」
「何か言いてーことあるなら……聞くけど」
傘を受け取ろうとしていたマリの動きが止まる。口を開きかけては、閉じる。その繰り返し。それはいつか見た彼女の表情によく似ていた。途中でただ小さい子供を虐めているような気分にもなったが、新一は彼女が口を開くのを待った。
「あの……二年ぐらい前なんですけど、わたしのお母さんを見つけてくれたの、覚えてますか?」
随分と時間をかけてマリが言ったのは、新一の予想と全く違うもの。思わず「へ?」という間抜けな声が出た。
新一の反応を見て「忘れている」と判断したのか、マリはデパートで迷子になっていたときに新一が助けてくれたのだと説明した。思い返すと、そんなこともあったかもしれない。ぐらいの記憶だ。マリによると、新一はすぐに母親の居場所を推理して、マリをそこに連れて行った。そして、どうして分かったのかを説明してくれたのだと言う。まあ、想像に易い。そのときの自分はきっと、得意気な顔をしていたのだろう。
「それで、わたし……そのときから……」
「い、いや! ちょっと待て!」
コナンのことが好きなんじゃなかったのか、と言いかけたのを喉の奥に押し込んで、新一は今までの彼女の言動を思い返した。あのとき顔を真っ赤にしていたのは。コナンの居場所を知りたいと言ったのは。子供の言うことだからと、どこか侮っていたのかもしれない。“江戸川コナンを理由にしていただけ”と考えると、彼女が何度も新一を訪ねてきたことにも説明がつく。
彼女はきっとコナンの正体には全く気付いていない。新一が頭を悩ませていたことは解決した。しかし、彼に新たな問題が発生したのは言うまでもない。言いたいことがあれば聞くと言ったのは新一だ。残念ながら、高校生探偵と呼ばれる新一の予想が二度も連続して外れる、などということは起こらなかった。
それが他人への好意だったら気付いていたかもしれないのに