You are a mirror

「え、安室さんのほうが良かった」

黒の組織は壊滅した。もう、安室透という偽りの人物として過ごす必要はない。彼は降谷零として、また別の仕事を任せられるだろう。コナンや赤井秀一など、一部の人間にはスパイとして組織に潜入していることはバレていた。だが、他の多くの人々は彼を安室透だと信じて疑うわけもない。そのまま消えてしまっても良かった。安室透として知り合った人たちとの関係は、そこで終わるはずだったのだから。しかし、彼は一人の女性を思い浮かべていた。
 椿と知り合ったのは、ポアロで働いているときだった。彼女はもともと店の常連だったようで、梓と親しくしていたのを覚えている。彼女はいつもコーヒーを注文して、ときには食事をすることもあった。梓と仲が良いということもあって、安室も次第に二人の会話の中に入るようになっていた。そして、梓がいないときにも自然と言葉を交わすようになったのだ。
 初めて好きだと言われたのは、いつだっただろうか。頭を巡らせるが、はっきりとした記憶がない。気が付けば、椿は安室のことを好きだ好きだと飽きるほどに言っていた。安室の姿を見つけては、いつも嬉しそうに駆け寄って来て、その様子がまるで子犬みたいだと笑ったこともある。食事に行こうだとか、付き合ってくれとも言われた。しかし、彼女は組織の人間でも、公安の人間でもない。一般人を巻き込むわけにはいかないと、安室は彼女のことを事あるごとに軽くあしらっていた。だが、彼女はそれでも引かなかったのである。
 いつでも素直だった彼女に、このまま黙って姿を消すのは忍びない。前に一度だけ車で送ったことのある、彼女の自宅のインターホンを押す。
 彼女は慌てて出てきた。安室から彼女の家を訪ねることなんてこれまでなかったから、驚いているのだろう。ラフな部屋着姿の彼女は新鮮だった。ショートパンツから、いつもは隠れている白い足が無防備に晒されている。
「お茶でも飲んでいきます?」と聞いてきた彼女に頷くと、彼女はボッと顔を赤らめた。もしかして、押しには弱いのだろうか。好きだ好きだと恥ずかしげもなく言い切る彼女の新たな一面に、好奇心が湧いた。
 彼女の部屋は、思ったよりもシンプルだった。安室の部屋にはない、可愛らしい雑貨が置かれているが、物自体の数は少ない。低いテーブルに座布団を出されて、大人しくそこに座った。まだ、彼は安室透として振る舞っている。
 テーブルの上に出されたのは、緑茶だった。いつもコーヒーを飲みに来る彼女としては意外な一品だったが、これも安室の知らない彼女の一面なのだろう。互いに、深いところは全く知らないのだ。
彼女はちらちらと安室の様子を窺っている。どうして急に訪ねてきたのかと困惑している。そんなところだろうと思った。
 彼女の淹れたお茶を飲み、一息ついたところで本題に入る。安室透の正体について、だ。そして冒頭に至る――。

「は?」
演技をすることも忘れて、それは無意識に口から飛び出した。彼女は今、何と言った?
「だから、私が好きなのは安室さんであって……あなたじゃないっていうか」
まさかこんな言葉が返ってくるとは思わなかった。彼女は先ほどまでの態度が嘘だったかのように、冷めている。思い返しても、彼女のこんなにそっけない様子は初めてだった。今まで好意を寄せられていた分、余計に衝撃を受ける。最悪でも「騙してたなんて酷い!」と怒られるか泣かれるかだろうと踏んでいた。まさかそれ以上なんて。
 彼女なら降谷のことを受け入れてくれると思っていた。……これなら怒りをぶつけられる方がどれだけマシなことか。いつでも明るく、無邪気に好きだと言ってくれた彼女に、気付かないうちに惹かれていたのだろう。こんなことになってから気付くなんて、と降谷は自嘲めいた笑みを浮かべた。
 彼女は降谷には興味を持っていないようだった。話が終わったなら帰れと言わんばかりに、乱暴に湯呑を片付けられる。そのまま彼女は降谷を無視して食器を洗い始めてしまった。静かな空間に、カチャカチャと食器が積み重なる音が響く。
 一人残された降谷は、静かにあれやこれやと策を練っていた。大人しく帰ってなんかやらない、そう思ったのである。
洗い物を終えて戻ってきた椿は降谷を一見し、声を掛けることもなくソファへ腰を下ろした。
「酷いじゃないか、話の途中だったのに」
「……酷いのは、あなたじゃないですか」
そう言った彼女の目には、溢れんばかりの涙が浮かんでいた。――もしかして先ほどまでの態度は彼女の精一杯の強がりだったのか。普段の冷静な降谷だったら椿の演技に気付いていたかもしれない。それほど降谷も動揺していたということだ。
「だって……全部、嘘なんですよね。優しく……してくれたのも、話を聞いてくれたのも」
行き場を失くした彼女の涙は、ボロボロと零れ落ちてしまう。呼吸も荒くなってきているのに、何とか平静を保とうとする姿がいじらしい。そんな彼女の様子に、先ほど頭の中で練っていた策など吹き飛んでしまう。降谷は椿の手をとり、優しく抱き寄せた。
「や、やだ……安室さん」
「降谷だって言ってるだろ」
「だって……」
椿が胸を押し返してくる。彼女が力を込めたところで、降谷にとってそんな抵抗は無意味だ。しかし頑なに安室の名を呼ぶ彼女を焦れったく思うのも事実。早く認めて楽になればいいだろうに。抱き寄せる力を一層強めてやると、彼女は諦めたのか大人しくなった。顔を俯けているので、表情は見えない。
 降谷は椿を抱きしめたまま、左手でスルスルと彼女の頭を撫でた。そのまま髪を一束すくって口付ける。彼女は風呂上がりだったのかもしれない。女性らしい香りが鼻をくすぐる。彼女は相変わらずじっとしたままだが、そろそろ顔を上げてほしいところだ。彼女のおでこに掛かっている髪を払って、わざと音を立てて唇を落とすと、彼女の体がピクリとした。それでも顔を見せる気はないらしい。彼女は頑なに、安室の胸に顔を押し付けている。
 仕方なく抱きしめていた手を離し、彼女の頬へ持っていく。下から覗き込むように彼女を窺うと、漸く目が合った。彼女は耳まで真っ赤にして、降谷のことを睨んでいるつもりなのかもしれないが……全く迫力がない。
「嘘じゃないさ」
え、と開きかけた彼女の唇に口付ける。何度も触れるだけのキスを繰り返すと、彼女の力が抜けてくるのがわかった。軽く肩を押しただけで、彼女はソファに倒れこんでしまう。乱れた髪、紅潮した頬、潤んだ瞳に酔ってしまいそうだ。
「……確かに騙していた。だけど今でもキミが困っていたら助けたい。キミの話なら、どんなにくだらないことだって聞かせてほしいと思っている」
「ふる……や、さん」
「傍に居てくれ」
もう一度、唇を触れ合わせた。椿の手が降谷の首に回る。降谷もそれに応えるように、何度も角度を変えて唇を重ねた。彼女の温度が心地いい。

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