You are my precious

 雫がポアロに顔を出し、彼の仕事の終わりとともに家に帰る。それは珍しくない光景だ。その日もそうだった。雫はカウンターで林檎ジュースを飲みながら、彼の働きぶりを眺めていた。すると、聞き覚えのある声が耳に入る。雫が振り向くと、その声の主がにっこり笑って手を振った。
「雫ちゃん、こんにちは」
「こんにちは」
声を掛けてきたのは、蘭。そして彼女の隣には園子と世良。少しだけ目線を下げると、コナンが。蘭たちは学校帰りなのだろう。お揃いの制服が大人びていて、少しだけ羨ましい。
 そのまま何となく、コナンたちの座ったテーブル席に雫も移動して喋っていた。女子高生バンドをやりたい、という話。言い出しっぺの園子がドラム、世良がベース、蘭がキーボードと、話が進んでゆく。ただ、ギターを担当する人がいないらしい。園子の目が雫に向けられる。
「雫ちゃんは……無理か。っていうか小学生だし」
コナンが呆れたように笑う。ちょうどそのとき、梓の声が聞こえてきた。園子は勢いよく立ち上がり、梓を指差して言った。
「ギターいたー!」
「え?」
戸惑う梓に、園子が説得をする。しかしその説得に気を良くしない人たちが居たようで、明るかった空気がたちまち息苦しいものに変化した。
 ギターなんて、ちょっと練習すればすぐに弾けるようになる。という発言が不愉快だったらしい。近くの席に座っていた男性が、園子にギターを差し出す。園子は首からギターを下げ、なんとか音を鳴らそうとしていたようだが、すぐに固まってしまった。静まり返った店内に、男たちの笑い声が響く。胸の辺りがぞわぞわした。こんなことを楽しむ男たちが、とても気味が悪いと感じたのである。
「貸して」
声の主は彼だった。園子からギターを受け取った彼は、エプロンの上からギターを掛けて目を瞑る。すっと息を吸い込んだかと思うと、次の瞬間。店内は彼の演奏するメロディーに包まれた。
 演奏はあっという間だった。聞き惚れることも、驚くこともできないほどの、短い出来事。園子も、男たちも、雫も、何も言うことができなかった。そして、沈黙は彼によって破られる。
「まあ、この子たちもちょっと練習すれば、これくらい弾けますよ」
彼は笑顔で、目を真ん丸にした男たちにギターを返す。園子はすっかり立ち直ったようで、今度は彼をバンドに誘い始めた。

 そして、雫たち全員で貸しスタジオに来ている。彼の提案で、ここで楽器の練習をすることになったのだ。
 しかし、運悪くスタジオは満室。一時間ぐらいで空きが出るということなので、地下の休憩所でコードや曲の雰囲気を覚えようという話になった。
「段差、急だから気を付けてね」
「うん」
雫がじっと彼を見つめるから、気になったのだろう。彼は首を傾げて見せた。
「……どうかした?」
「お兄ちゃん、すごかったなって。……ムーン・レディも弾ける?」
「弾いたことはないけど……どうかな、楽譜があれば少しはいけるかもね」
「えー、なんかずるい」
「狡いってそんな……。にしても好きだね、沖野ヨーコ」
雫にはちょっと早いんじゃないかと彼は言う。確かに雫も最近までは全然曲を知らなかった。だが、哀の影響で一通りは覚えてしまったし、雫自身もファンになったのだ。
「たまに毛利先生と盛り上がってるしね」
「うん。まあ……小五郎さんには負けるけど……」
そりゃあね、と彼は笑う。そして不意に差し出された手に、雫は眉を寄せた。
「もう! 大丈夫だって!」
「ほらほら、そんな顔しないで早く。みんな下で待ってるよ」
それは彼の言う通り。そう思ったので、雫は彼の手をぶっきらぼうに握りしめた。しかし彼の表情が変わることはない。
 こつんこつんと、足音が響く。急かす割に、階段を下りる彼の足は非常にゆったりとしていた。

 休憩室にいた他の女性グループが揉めていたようだった。彼女らが上のスタジオに行ったところで仕切り直す。誰がボーカルを担当するかという彼の問いに、蘭は園子を推す。しかし、園子は首を振った。
「わたしは二つのことを同時に出来ない人だから……世良ちゃん歌う?」
「ボクは遠慮しとくよ。……それなら新一君はどうだい? 彼ならギターも弾けるんじゃないか?」
「し、新一はヴァイオリンなら弾けるけど……ギターは……どうかな? ちなみに歌はコナンくん並みに、ねえ……」
ちらっと蘭がコナンを見る。そのときだった。突然、耳を裂くような悲鳴が響き渡る。
「この悲鳴……さっきのバンドの人たちじゃないか!?」
「上のスタジオからですね……」
世良の発言に彼が同意を見せる。そしてコナンを入れた三人が、階段を駆け上がる。雫も兄の後を追おうとした……のだが。
「雫はここで待ってるんだ! ……蘭さん、園子さん、雫のことをお願いします!」
そんなことを言われたら、ついて行くことなんてできない。もちろん、上で大変なことが起きているということは何となく分かっていた。でも――。
 しゅんと俯く雫を、園子はにやりと笑って肘でつついた。
「ね、アンタ安室さんと一緒に住んでるんでしょ? 教えなさいよ! 安室さんのこと!」
「え、え……?」
戸惑う雫を引っ張って、園子は椅子にどかりと座った。
「もう、園子ったらこんなときにまで……」
蘭は園子に呆れながらも、彼の話を聞きたいようだ。急かすように雫を見つめてくる。

「え、えと……何を話したら……?」
うーん、と園子が考え込む。しかしすぐに何か思いついたようで、ぱっと目を見開いた。
「まずは女よ! 安室さん、彼女はいないの?」
「多分、いないと思います……」
「多分?」
園子はやけに食いつく。聞くところによると彼女は恋人がいるそうだが、どうしてそんなに真剣になっているのか。雫には全くわからなかった。園子に言わせると、それは全く別の話らしいが……。
「……いるの? って聞いたことはないから……」
「ふーん。まあ、見たことはないってワケね。……それじゃあ、家でこっそり電話してるとか! そういうのはないの?」
「あっ……あります!」
心当たりがあって、つい語尾が強くなる。彼は依頼の話と称して、雫のいないところで電話をする。もちろん内容はわからない。きゃー! と園子が悲鳴を上げる。
「絶対に女よ! 雫ちゃんが家にいるから連れ込んだりはしないけど、隠れて電話してるのよ!」
「えー、そうかなあ?」
蘭はあまり納得していないようだったが、園子はどんどんヒートアップしていった。
「重大任務よ、雫ちゃん! 安室さんに彼女がいるのかどうか確かめるの!」

「……っていうことがあったの」
女子高生二人に囲まれて、質問攻め。楽しかったが、雫は疲れきっていた。二人の、特に園子のパワーには圧倒された。
「なるほど。突然そんなことを聞いてくるから、どうしたのかと……」
「それで、いるの? 彼女」
「いないよ。……見てたらわかるだろ?」
「うん……。わたしも最初はそう思ってたんだけど、園子さんが絶対いるって言うから……」
話しているうちに、相手の話をまるで本当のことのように感じてしまうのはよくあること。特に相手が自信満々に言うのだから、尚更だ。
「まあ、僕には雫がいてくれるから、寂しくないしね」
「……うん。でも、もしもわたしが邪魔に――
急に視界が遮られる。次に感じたのは温かさだった。
「馬鹿だな、雫は。そんなことあるわけないだろ。でも、もしも雫が僕のことを――
彼の言葉を割って、雫は口を開いた。彼の体に腕を回して、思い切り力を込める。
「お兄ちゃんこそ、バカ」
「……うん。お互いさまだね」
 二人が家に着くまで、あと少し。

特別な人