人魚姫になりたかった04
司の傷はかなりひどく、このままでは助かる見込みもないらしい。そこで千空が出した結論は、司を石化させるというものだった。
帆船を見送って数週間、千空たちは本当に石化装置を手に入れて来たらしい。船を降りた千空たちが、司の眠る場所へと走っていく。
祈るようにして司を取り囲む様子をなまえは少し離れたところから見守った。
起き上がった司が未来の頭を撫でている。前とは別の意味で泣きたくなった。
なまえは水汲み用の桶を持って川に向かった。川辺の石に水の入ってない桶を置き、体を抱えるようにして座り込む。今はだれとも話せる気がしなかった。
ついこの前まで暑くて仕方がなかったのに、木々を揺らす風は肌寒い。そろそろ冬服の準備をしないといけない季節だ。
後ろから足音が聞こえてくる。羽京だろうと思った。なまえが首だけ振り向くと、なぜか司がいて、立ち上がろうとするも驚きすぎて川に落ちそうになってしまう。
「なまえ!」
司のたくましい腕がなまえを抱きかかえる。これより密着することなんて前は普通だったのに、心臓がばくばくと音を立てた。
「……ありがとう」
なまえの両足が地面につくと、司は手を離した。じっと見られているのがわかる。せめて何か言ってほしい。
「えっと、どうしたの?」
「なまえが川のほうに行くのが見えて、しばらくしても戻ってこなかったから」
「わざわざごめんね。じゃあ戻ろっか」
言い訳のために持ってきていた桶で川の水をすくう。両手で抱えたはずのそれを司がひょいと持ち上げてしまい、なまえは思わず悲鳴を上げそうになった。
「ちょっと怪我人!」
「もう傷はふさがっているから問題ないよ」
「いや、こんなの! ヒンシュクを買うでしょ!」
なまえは司から桶を取り返した。重いといえば重いが、持てないほどではない。
もう絶対に取られまいと抱きつくように持った桶は、水を入れすぎたせいか歩くたびに中身が飛び出しそうになる。少しだけ水を捨てていると、司が何か言いたそうな目でこちらを見てきた。
「……運びにくいだけだから」
「まだ何も言ってないけれど」
「顔が言ってんのー」
「持てるのにな」
なまえは司を無視して歩き出した。いちおう怪我人だからと何度か振り返ってみたけれど、司は怪我なんてなかったかのようにキビキビと歩いている。
「司くんってー好きな子いる?」
つい口を出てしまったのは、あまりにも予定と違う言葉だった。羽京に言ったらため息をつかれるに違いない。
「……それは恋愛的なことを言っているのかい?」
「まあ、そう」
「……いないかな」
(羽京コノヤロウ! さんざん期待させておいてなんだ!)
自分が怒っているのか悲しんでいるのかさえもわからなかった。ただここで引くのが嫌で、どうにかならないかと考えた結果、
「へえ~! それならあたしとかどう?」
とんでもないことを言ってしまった。方法としてはアリなのかもしれないが、司が相手だというのを忘れてはいけない。
立ち尽くす司は面白かったといえば面白かった。当事者でなければきっと笑っていた。ただ今はどうしようもなく口が回る。
「い、嫌なら嫌って言いなよ~!」
「……それは」
「うん?」
「俺からも君に触れていいってことかい?」
「えっ……そりゃあ恋人になったらそうなんじゃない?」
「じゃあお願いしようかな」
「……エッ!」
司はぽわんとした笑みを浮かべてなまえの桶を持つ手に触れた。そのまま司は桶を持ち上げ、これにはなまえも文句を言う余裕もなかった。
広場に戻るとやはり司は囲まれて、なまえはその隙に羽京を探した。たとえ見つけられなくとも「羽京さん」と呼びかければ彼はたいてい来てくれる。それは今日も同じだった。
「どうしたの?」
「……聞いてた?」
「え、何が?」
「司くん好きな子いないって」
「え、ええ……そうなの?」
「それで、じゃ付き合お! って言ったらほんとにそうなっちゃった……」
羽京はぽかんとしている。自分でもどうしてそういう結論になったのかよくわからない。そしてそれに司が乗ってきたのが一番の謎だ。
「ごめんちょっと待って。…………えーと、おめでとうでいい?」
「……いいけど、羽京さんが言ってた感じと違うじゃんって文句を言いたかった」
「え、ええと……うーん……」
羽京はしばらく考えていたようだ。しかしその間ずっと口元が緩んでいたのをなまえは見逃さなかった。
「聞かれたことぜんぶ正直に答えるってこともないだろうし、司もそうだったんじゃない?」
「それ羽京さんの願望入ってない?」
「多少は」
「もう!」
「でもなまえだって言ってないんでしょ」
「そうだけど……でも今はいい」
経緯はどうあれ付き合うことになったのだ。両想いじゃないと嫌だなんて、そんな贅沢なことは言えるわけがない。
「なまえがいいならいいけど、僕たちはもうすぐアメリカに出発するよ」
「え、いつ?」
「詳しいことは決まってないけど、準備が整い次第。一週間くらいかなって僕は思ってるけど」
「……いいよ~、一週間で好きにさせるもん」
「あはは、頑張ってね」
その日の夕方、食事を終えて自分の家でくつろいでいるときに司はやってきた。「え」と言いかけそうになったけど、恋人なら何もおかしなことではない。司は今日の今日まで冷凍庫で眠っていたのだから家もないのだろう。泊めるとなるとまた別問題だが、司が本気でそう言ってきたなら断れる自信がなかった。
司はなまえの隣に腰をおろした。もともと寝るのと少しの荷物を置くためだけの家だから、司がいると狭く感じる。司は何をしに来たのだろう。ここで思い出したのが「俺からも君に触れていいか」と司が聞いてきたことだ。
――いや、ないでしょさすがに。
こればかりは羽京に相談することもできなかった。下手したら司の名誉棄損になる。
ちょっとしたことで顔を真っ赤にしていた司のことだ。変な意味で言ったわけじゃないのだろう。考えていたら司の大きな手のひらが伸びてきて……頭を、撫でられた。
なまえはしばらく司の成すがままにされていた。顔が熱くなっていく自覚はあったがどうすることもできない。司の手つきは優しくて、あまり手触りのいいといえない髪が恥ずかしくなってくる。
「未来に聞いたんだけど、毎日ずっとお見舞いに来てくれてたんだってね」
「えっ! なんで!」
なまえは確かに毎日司のもとへ通っていた。ただし一人でだ。偶然誰かに出くわすことはあったが、未来や南がいるときは絶対に近づかないようにしていた。純粋に司のことを慕う二人の前では、どこか後ろめたい気持ちになるからだ。しかしどういうことか、未来はなまえが来ていたことを知っていたらしい。
「なまえと付き合うことになったって話をしたら、教えてくれたんだ」
「え、未来ちゃんに話……えっ!」
「どうしてそんなに驚いているんだい?」
「だって……司くんの中で家族にも話すような、なんていうか、そこまでのことなんだ、みたいな」
「うん、重要なことだよ」
「……わあ」
嬉しい。でもやっぱり急展開のような気もする。
頭を撫でていた指先が、ふと耳に触れる。悲鳴を上げずに済んだのは、もはや声を出すことすら難しくなっていたからだった。
司は撫でることをいつまで経ってもやめなかった。なまえは自分の膝を見つめることしかできず、そのうち意識が飛ぶんじゃないかとさえ思っていた。
「少しは俺の気持ち、わかってくれたかな」
司の手の動きがぴたりと止まる。言われたことの意味がわからなくて、なまえは司を見上げた。司の頬はわずかに赤みを帯びている。自分でやって恥ずかしくなったのだろうか。それにしたって「俺の気持ち」とはいったい。
「ごめん、急でびっくりさせたかな」
「え、と……?」
司はなまえから少し距離をとった。気まずそうに床を見つめている。つまり、もしかして
「仕返し?」
これだ、と思った。なまえがベタベタ引っ付いていたことへの仕返しだ。あのときの気持ちをわかってほしかったからと、わざわざ慣れないことまでしてなんて執念深いのだろう。
「……うん? 仕返し?」
「ごめんね、あのときのことは反省してます」
「いや、なまえ……。ちょっと待って」
司は身を乗り出してなまえの両手を握った。
「間違ってはない……けど、間違ってる」
「……どういうこと? 全然わかんない……し、恥ずかしくて死にそう」
なまえは司から逃れようとしたが、がっしりと手を掴まれている。
「君は裸同然みたいな格好で俺に抱きついてくるし」
「は、裸って! みんなと同じ服なんだけど!」
「うん、それでも俺は耐えられなかった。なにせ君には嫌われてると思っていたし、意識してるのは俺ばかりで」
「うそ……」
そんな素振りなんて一切なかった。今ならまだ照れているのかもしれないとわかるけど、あのとき司は顔色一つだって変えやしなかったのだ。
「でも、死にかけたときに君の泣きそうな顔を見て期待した。それでも確信が持てなくて、好きな人なんていないと言ってしまったけど……君はとんでもないことを言い出すし」
「つ、司くんだって乗ってきたじゃん!」
「うん。断ったら君が他の誰かのところへ行ってしまうんじゃないかって……でもこれはチャンスだと思ったよ。長期戦も覚悟してたけど、未来に話を聞いたら居ても立ってもいられなくなった」
「何それ……」
司の手は震えていた。それでも力強く手を握られていて、早く握り返してあげたいのにそれもできない。
「司くん超わかりにくいよ!」
「うん、それは君もだね」
目尻に浮かんだ涙を司がすくってくれる。その隙を狙ってなまえは司の胸に飛び込んだ。いつまでたっても背中に腕を回してくれないことに不満を抱きながら司を見上げると、彼の顔が真っ赤になっていて、それはそれでいいかと目を閉じる。心臓の音を聞いてやろうと思って耳を胸にぴたりとくっつけたら、尋常じゃない大きさの音が聞こえてくるから少し心配になってしまった。……けど、そんな司をもっと見ていたいと思う。
「ねえ、司くん。キスとかしてみる?」
「……どうしても優位に立ちたいのはわかったけど、その顔じゃ何の説得力もないよ」
「あは、バレてる?」
なまえは目を閉じて司が来るのを待った。しかしいくら待てども司は来てくれない。しびれを切らして目を開くと、霊長類最強の男が世界一かわいい顔をしていた。だが、凝視されているだけではいただけない。上手くできるかどうかなんてわからなかったけど、もう一度目を閉じて唇を寄せる。残念ながら狙ったところにはあたらなかったみたいだけど、自分としても今日はこれが限界だった。
「あー……未来ちゃんに謝んないとだなあ」
ぽつりと呟いた瞬間に司は顔色を変えた。誰もが恐れる獅子の顔である。さっきまでの甘ったるい雰囲気はいずこ、なまえは仕留められる寸前の獲物のような気持ちになった。
「未来に何かしたのかい?」
「いや怖! 違うって何もしてない! ……でもやっぱ未来ちゃんうらやましいなあ」
司は首をかしげた。妹に嫉妬してたなんて言ったら司はどんな顔をするだろう。自分でも馬鹿みたいだと思うけど、今でも嫉妬心が消えないのは間違いない。たとえば、すごく愛されてる実感でもわけば違うかもしれないが。
「司くんはさ~、いつからあたしのこと意識してたの?」
なまえは司が困るのをわかっていて質問攻めにした。たまに反撃で面食らうこともあったが、おおむね順調。茹で上がった司を見上げ、にんまりと笑う。まあ今日のところはこれくらいで勘弁してあげてもいい。