IQ300

 上司が仕事以外の話題を振ってくるのは珍しいことだった。ゼノは思考が鈍る感覚を久しぶりに味わっていた。この男は今なんと言った?
「お嬢さんはたしかまだ学生では」
なんとか記憶を掘り起こして最適な断り文句をみつける。さすがに学生は対象外だ。そもそも同世代だったとしてもこの男の身内と「そういう関係」になるなんて考えたくもない。そこを何とかと言われたってどうにもならないのだ。
「いやね、恋人にするならIQ300ある男じゃないと嫌だと娘が言っていて」
「僕はIQ300もありませんよ」
わかっているよ! と上司が声を上げる。彼もなかなか苦労しているようだ。想像するに、その娘は恋人がいらない……もしくは父親の余計なお節介など不要と考えているのだろう。だから無理難題を言ってみせた。つまりIQなんて本当はどうでもいいのだ。
 上司はなおも食い下がってきた。どれだけ必死なんだ。というか進んで娘に恋人を作らせようとするのがまずわからない。そういう価値観の人間がいるのは知っているが、まだ学生の娘に男を……しかも部下を紹介しようなんて何か裏があるのかと疑いたくもなってしまう。
「会うだけでも会ってみてくれないか? そうしたら以前に君が提案していた……」
まさか仕事の話を持ち出してくるなんて思ってもみなかった。これは長くなりそうだ。それなら一度会ってみるのもいいかもしれない。どうせ次はないのだ。それに、彼の提案は案外魅力的だ。公私混同もいいところだが、利用できるならしておくべきだろう。
 ゼノが頷くと、すぐに日程が決められた。次の休日にカフェでコーヒーを飲めばいいらしい。あいにく準備することなど一つもないから、ただ指定された場所に行けばいいだけだ。

「……で? 会ってみたら好感触だったって?」
電話の向こうでスタンリーがおそらく笑い転げている。目の前にいたら睨みつけてやるところだ。だがこんなことを話せる人間など彼しかおらず、ゼノは屈辱を感じながらも話を続けた。
「わからない……。僕は全く親切にしなかった。何ならわざと財布も忘れていったくらいだ。さすがに彼女も引くと思ったんだが」
「でも結局払ったんだろ?」
「ああ。後腐れが残らないようその場で彼女の口座にきっちり振込したよ。僕のコーヒー代だけね」
スタンリーはとうとう吹き出した。数秒待ったがいっこうに笑い声がおさまらないので、ごほんと咳ばらいをする。
「スタン、僕は真面目に相談しているんだが」
「いや悪ぃけど笑わずにはいられね……っつかもう付き合えば?」
「スタン」
「……あー、まあ……好感触ってのも勘違いかもしんねえじゃん? 女ってわりと演技するっつーか」
「僕もそう思ったさ! だが今まさに『次はお酒を飲みませんか』と誘われているんだ!」
「IQ300もねえって言えば?」
「もちろん一番に言ったが?」
「……ごめ、まじ無理……」
スタンリーは大笑いしてまともに言葉を発しなくなってしまった。これじゃあ何の参考にもならない。ゼノはブツリと通話を切った。この日は結局彼女への返事はせずに眠った。そして次の日、出勤すると予想通り例の男に絡まれる。
「娘が君のことをたいそう気に入ったようでね、よければ今後も……」
ゼノは頭を抱えたくなった。どこに気に入る要素があったのかむしろ聞いてみたい。……いや、聞きたくもない。
 ゼノは悩んだ末、この上司から断りを入れてもらうことにした。研究に目が眩んで愚かなことをしてしまったと、今では多少の後悔さえある。
「お嬢さんはまだ学生ですし、そういう対象として見ることは……」
「うん? もうすぐ卒業予定だが?」
「……まあ、歳も離れていますので」
「お互い成人しているから問題ないだろう!」
ゼノは奥歯をギリと噛みしめた。恋人がいるということにしておけばよかった。それかハッキリ好みじゃないとでも言えばよかったのだろうか。父親相手にそんなこと……ああ、もう言ってしまえばよかった。

 あの上司の娘とは想像できない。それが彼女の第一印象だった。先に待ち合わせ場所に着いた彼女は、一人で静かに紅茶を飲んでいた。ゼノはわざと十分遅刻したのだ。しかも連絡もなしに。だが彼女は嫌な顔もせずにこりと笑っていた。おそらく理解できないだろう専門的な話を一方的にしたときも彼女はうんうんと笑顔で頷いていた。「わかるのか?」と聞けば「いいえ」と返ってくる。いっそ清々しかった。
「今日はたくさんお話してくださって嬉しかったです」
去り際に言われたこの一言には恐怖さえ感じた。いったい何がどうしてそうなるのだ。まあ気を使われているのかもしれないな、と帰宅したらこれだ。
 ゼノはメッセージを二日寝かせた。追いうちのようなことはしてこない。ただ出勤すればあの上司と嫌でも鉢合わせてしまう。
 メッセージが来て三日目の夜、ゼノはとうとう返事をした。
「すまないが都合をつけられそうにない」
これで終わりだ。長かった。彼女からも当たり障りのない返事が返ってきて、そして上司から嫌味を言われるようなこともない。ゼノはしばらくするとこのことを思い出さないようになっていた。


 そして3700年と少し。手当たり次第、硝酸をかけていたところに彼女がいた。
「……ゼノさん?」
「おお、君も意識を保っていたのか」
「はい。考えごとをしていて……」
そう言った彼女に服を渡せば、彼女は自分が裸なことに気付いたのかサッと身体を隠した。
 さて、どうしたものか。
 ゼノは無礼な男を演じ続けるべきか悩んでいた。彼女に最後に連絡をしたのが石化する一カ月前のこと。だがずっと意識があったのだからそれはもう遥か昔のことになる。それに演技をするにしても、今後は行動を共にすべきであり、下手な小細工は悪手となるかもしれない。だが万一、彼女があのときの好意を持ち続けていた場合のことを考えると……。
 悩んでいるうちに彼女は服を着替え終わっていた。
「ありがとうございます」
「すまないが君はこれから僕に仕えてもらうよ。何せ人手不足でね」
「……仕えるとはどういうことでしょう?」
「ここから少し移動したところに僕たちの拠点がある。農耕、畜産、それから施設や兵器の開発。割り振られた仕事をこなせば衣食住は保障しよう。僕の知る限りでは他の集団はいない。君に選択肢はないと思うが」
「そうですね、従います」
彼女はあっさりと頷いた。
 彼女は従順だった。仕事も真面目にこなすし必要以上に話しかけてくることもない。ただ少し、働きすぎではあった。
 目に見えて疲労が溜まっている。彼女はおぼつかない足取りで収穫したコーンを運んでいた。
「君、もう少し休息をとったほうがいい。かえって効率が落ちている」
「あ……すみません」
まるでこの世の終わりとでもいうような顔つきだった。彼女は食糧庫にコーンの入ったカゴを下ろしてパタパタと走り去っていった。そこまで厳しく言ったつもりはなかったのだが、どうしたというのだろう。やはり彼女のことはよくわからない。

 ある日の夜、食堂のほうからスタンリーの笑い声が聞こえてきた。酒でも飲んでいるのかと近づいていけば、次第に会話がはっきりと聞こえてくる。
「じゃあどうやったらゼノを振り向かせられっか考えてたって? 3700年ずっと? あんた相当イカれてんね」
「でも結論は出なくて……それで仕事を頑張ったら認めてくれるかと思ったんですけど、少し前にもっと休むようにと叱られてしまったんです」
背筋が凍る思いだった。まさかそんなことを考えていたなんて。いっそどうしてここまで執着するのかここで知ることはできないだろうか。ゼノはしばらく聞き耳を立てていた。
 ところが、次に聞こえてきたのはマヤの声だった。シャーロットやルーナ、それからカルロス、マックスまでもいる。聞く限り全員、彼女の味方のようだ。純粋に雑談しているのか、周りから責めようとしているのか判断できない。他にもまだ誰かいるのか確認したいが、相手には軍人がいる。見えるところまで行って気付かれないわけがない。ゼノにできるのはそっとこの場から離れることだけだった。
 次の日、あまりにもスタンリーが普通に話しかけてくるものだからつい昨日のことを聞いてしまった。
「立ち聞きしてたのかよ。……つーかなんか不満でもあんの?」
「……彼女はあの愚図の娘だ」
「もういねえって。探したらいるかもしんねえけど」
「僕は彼女が恐ろしい。何を考えているのか全くわからない」
「ただあんたのことが好きって感じだったぜ」
「それが一番わからないから苦労しているんだ!」
思わず大きな声を出してしまった。スタンリーは目を丸めている。そしてやや時間を置いて
「じゃ聞いてみ?」
他人事のように言った。
 そのとき、ぴゅんと何かが通り過ぎていく。気付けばスタンリーが目の前からいなくなっていた。何事かと思えば、数メートル先でスタンリーが彼女に腕を引かれていた。彼女の横顔が赤い。対してスタンリーは揶揄うような笑みを浮かべている。今の話を聞かれてしまったというところだろうか。
 ゼノはその場に置き去りだった。ほぼすべてが白日の下にさらされた今、なおもスタンリーの腕を引くのはなぜだろう。面白くない。そう思っている自分に気付いて、ゼノは自ら頭をぐしゃりと掻きむしった。