初めましてをもう一度
恋をしているかもしれない。
行きつけのバーでアルバイトをしているミラ。気付けばセレナは彼女に会いたい一心で店に通っていた。グラスを差し出す、すらりとした指。つまらない愚痴にも相槌をうってくれる優しさ。彼女が上品に笑うたび、セレナの心臓は飛び跳ねそうになる。――たぶん、これは恋だ。
ちびちびとカクテルを飲んでは、ため息をつく。カウンターの向こうのミラが、セレナと時計を見比べた。
「セレナ、もう遅いけど大丈夫?」
「えーと、実はね」
セレナは窓の外を見た。ざあざあと降る雨は未だ止まない。むしろ時間が経つにつれ強くなっているような気さえする。
「傘持ってきてなくて。待ってれば止むかなって思ったんだけど」
「そうだったの」
ミラは予備の傘がないかデリックに聞いてくれた。が、そう上手くはいかない。これは濡れて帰るしかないかなと、もう一度窓の外を見る。
「私の傘があるから、一緒に帰りましょう? もうすぐ上がりだから待っててくれる?」
「え! 私、そんなつもりじゃなくて」
「遠慮しないで。それに一人だと危ないから」
「それはミラだって同じでしょ……」
「まあまあ」
ミラはくすりと笑って奥へ引っ込んでしまった。
……どうしよう。セレナは頭を抱えた。これはつまり、同じ傘に入って帰るということで。カウンター越しでさえドキドキするのに、そんなに近づいてしまって大丈夫だろうか。いや、大丈夫なはずがない。だけどミラを無視して帰るなんてこともできず、セレナは彼女をじっと待つしかなかった。
「お待たせ。どうぞ」
ミラが傘を差し出してくれる。控えめに身体を半分だけ入れてみたけれど、それじゃあ彼女は許してくれなかった。「濡れちゃう」そう言われて腕がぴったりとくっつくまで近づいた。
「ミ、ミラ……」
しばらく歩いてみたが、無理だと思った。セレナは濡れるのもお構いなしで、ミラと距離をとる。ミラは目を丸めて、けれどすぐにセレナが雨に打たれないよう傘を傾けた。
「ミラ、あのね、私……」
このままでいるのはずるいと思った。ミラの厚意に甘えて肌が触れるほど近づいて。しかし、伝えようとした言葉は喉元に引っかかる。何度言おうとしても同じだった。
「セレナは女性が好き?」
「え」
ミラは冷静だった、ように見えた。彼女がそうだったから、セレナもいくらか頭を冷やすことができたのかもしれない。
ずっと気付かない振りをしていてくれたのだろうか。それともこの真っ赤になった顔を見て察してくれたのだろうか。どちらにせよ、逃げ場がなくなったことでセレナの喉に引っかかっていたものがするりと抜け出て行く。
「え……と、そうなのかな。ミラが初めてだから、わからない……」
「男性は嫌い?」
「そんなこと、ないと思うけど」
「そう」
濡れて顔に貼りついた髪を、ミラの指がすくう。そのまま耳に掛けられて、無防備になった頬を撫でられた。
「ごめんね、騙すつもりはなかったんだけど」
そう言ったミラの瞳はとびきり悲しそうに見えた。
「……ヴァレリー?」
セレナは彼女――いや、彼が言った名前をそのまま口にした。これがミラの本当の名で、女というのは偽りだったという。
彼はセレナに傘の柄を握らせて、もう一度「ごめん」と言った。
「もうすぐそこだから、傘は使って。さよなら」
「……ま、待って!」
離れていく彼の腕を必死で掴む。このまま彼と別れてしまうのはよくない気がした。根拠なんて何もないけれど、彼がどこかに行ってしまう。そんな気がしたのだ。
「それで私は明日からあなたのこと、なんて呼んだらいいの?」
「え」
「ミラ? それともヴァレリー?」
「え、ええと……」
彼は困ったように笑った。ぎゅうと握った腕に力を入れて、セレナは彼の答えを静かに待つ。
店の中ではミラ、他ではヴァレリー。それが彼の答えだった。セレナはしがみついていた彼の腕から離れ、呼び慣れない名を口にしてみた。
「……ヴァレリー、さん?」
「ふふ、さん付け?」
「だって、ヴァレリーさんとは初対面だから」
「そう……。それもそっか」
ヴァレリーはにこりと笑った。いつもの上品な笑みも好きだが、今の彼の表情も好きだ。セレナも彼につられて笑う。いつの間にか雨は止んでいた。
「あ、あの……ヴァレリーさん」
髪を撫でるヴァレリーの手。それが嫌だったわけじゃないが、恥ずかしくてつい声を上げてしまう。しかし彼が目を丸めて手を引っ込めてしまうものだから、もう少し黙っていればよかったと後悔する。
「……ああもう、こんなつもりじゃなかったのに」
ヴァレリーは自分の手をじっと見つめながらため息をついた。その頬が少しだけ赤く見えたから、セレナは彼の手を握ることができた。