花は光に向く
「ホメロスー! 抱っこ!」
両手をいっぱいに広げてホメロスに向かう少女は、とある貴族の令嬢である。その貴族は昔から王と親交があり、今日は子連れで城にやってきたというわけだ。が、何故こんなことに。子守りを任されたホメロスは恨みつらみを仮面の下に隠し、少女に向き合う。和名と名乗ったその少女は、世の中の悪いところなど一つも知らないと言うほど能天気で、幸せそうに見えた。
なかなか要望に応えようとしないホメロスを不思議に思ったのか、リシェは真ん丸な目をぱちくりとさせてホメロスを覗き込む。いよいよリシェに抱き着かれそうだと思ったホメロスは、さっと一歩引いて首を振った。
「いけません、リシェ様。女性がそのように気安く男性に触れては」
詭弁である。ホメロスは子供にそんなことを教育する気など全くない。ただ面倒だからと、それらしいことを言っただけだ。しかしリシェはホメロスのそんな本心にも気付かず、そうなの? と素直に納得しかけていた。
「でも、お父さまは抱っこしてくれるよ」
「ええ、家族ならば構いません」
という会話をしたのが数時間前のこと。まさかこの会話が仇となるなど、ホメロスには予想も出来なかった。
ホメロスは逃げるようにリシェの前から姿を消した。もちろん彼女を一人にしたわけではない。残っている仕事をしなければならないと王に告げ、子守りを別の人間に任せてから消えたのだ。
山積みされた書類をちょうど片付け終わったころ、何やら外が騒がしいことに気付いた。無視しようかとしたのだが、騒ぎが収まる気配はない。面倒に思いながらも足を運ぶと、そこにはやはり和名がいた。彼女は床にぺたんと座り込んで、目に涙を溜めている。
「さわっちゃだめ!」
リシェにそう言われておろおろと慌てる、子守りを任せられた使用人。……男性だ。ホメロスは嫌な予感に頭をつつかれながら、少女に近づいた。
リシェは足を捻ったらしく、歩けなくなってしまったそうだ。顔を青くした使用人は、ホメロスに助けを求める。和名を抱きかかえて医務室へ連れていこうとしたら拒絶された、と。嫌な予感は確信に変わる。
「和名様、足を医者に診てもらいましょう」
ホメロスは引きつった笑みを浮かべ、リシェのひざ下に腕を差し込もうとした。しかしやはり、リシェは首を振る。
「ホメロスがさわらせちゃだめって言った」
「まあ……そうですね」
リシェは自力で立ち上がろうとしたが、上手く力が入らず床に尻もちをついた。その光景を悠長に眺めているほどホメロスは心の広い人間ではない。だめだと言うリシェを無視して抱きかかえ、すたすたと医務室へ足を進める。リシェは意外にも大人しくホメロスに身を預けていた。彼女がどんな顔をしているかなんて、ホメロスは興味が無い。だから、見向きもしなかった。
医務室の真っ白なベッドにリシェを座らせる。室内に誰も居ないことにため息を付いて、ホメロスはリシェの靴を脱がせた。
「痛いですか?」
「……うん」
リシェの足首は赤く腫れていた。彼女は泣いてはいないが、目は充血し、うるうると涙が滲んでいた。どう見ても泣くのを我慢している。彼女が泣かなかったことだけはホメロスの評価に値した。ホメロスは布を水に浸し、かたく絞ってリシェの患部に当ててやった。
「つめたーい」
「外してはいけませんよ、痛くなりますからね」
「うん!」
泣きそうになっていたかと思えば、今では何が面白いのかホメロスの巻いてやった布に夢中になっている。はたして自身が子供のときもそうであったのかと考えても、全くそのような記憶はない。彼女はうんざりするほど安直で、きっと悩みなど一つもないのだろう。
医務官が戻るのを待つ間、リシェは楽しそうにホメロスに話をした。食事が美味しかっただとか、花壇が綺麗だったとか。はいはい、とホメロスは同じような相槌しか打たないが、リシェが気にする様子はなかった。むしろ、気付いていなかったのかもしれない。
彼女の足は捻挫だった。しばらく歩かないようにと言い渡される。幸い彼女とその家族は城に泊まるという話だったので、部屋で安静にしていれば問題ないだろう。もっとも、彼女は退屈かもしれないが。
「リシェ様、部屋へご案内します」
ホメロスはリシェを抱きかかえた。今度は何の抵抗もない。彼女の頭がこてんとホメロスの胸に預けられる。やがて、すうすうと規則正しい寝息が聞こえ始めた。なんとも自由なことである。
ホメロスはリシェをベッドに寝かせ、毛布を肩まで掛けてやり部屋を出た。やっと解放されたと、ホメロスは大きく息を吐く。
その翌日。ホメロスは客人の見送りを課せられ、赴いた。
リシェが手を振る。ホメロスはそれに礼をして応えた。しかしそれだけでは彼女が不服そうにするので、片手を肩の高さまで上げてみた。するとリシェはにこりと笑って爆弾を落とす。
「ホメロス、いつか家族になろうね!」
途端に冷たい目線がホメロスに集まる。彼はその誤解を解くのに三日も費やした。