お裾分け

「明日からしばらく会えなくなるけど、僕のこと探し回ったりしないでね」
 これが宇佐美との最後の会話だった。

 宇佐美時重と少女は、ただの知り合いという関係に過ぎなかった。しかし少女からしてみれば、宇佐美は将来の結婚相手であった。

 口減らしのためと奉公に出されたのは、少女が九つになったばかりのころだった。任されたのは、掃除、洗濯、それから雑用。朝から晩まで働き詰めだったが、仕方のないことだと少女は諦めていた。
 奉公先には年頃の娘が一人いた。その見合い相手として訪れたのが宇佐美だった。
 宇佐美は指定された時間に来ていたが、娘の身支度が間に合っていないという理由で待たされていた。
「宇佐美さま、お待たせしてしまい申し訳ございません」
 少女は主人に言われた通りの文言とともに、宇佐美に茶を出した。
「ありがと」
 宇佐美がにこりと笑う。少女はその場に立ち尽くした。奉公に出て、礼を言われたのは初めてのことだった。
 主人からひどい仕打ちを受けていたわけではない。与えられる食事、衣類、すべて質の良いものだった。いじわるをされたこともない。ただ働くのが当然のことであり、そこに感謝の気持ちが与えられることはなかった。
「どうしたの?」
「いえ……」
 少女は手をぎゅっと握り締めた。水仕事であかぎれだらけとなった手が痛む。宇佐美が「わ」と声を上げた。
「痛そうだね。大丈夫?」
 少女はとうとう泣き出した。嬉しさ半分、もう半分は今まで我慢してきたものが溢れた結果だった。
「えー、ほんとにどうしちゃったの?」
 宇佐美は膝をついてポンポンと少女の頭を撫でた。そこで部屋の扉が開いた。
 入ってきたのは支度を終えた娘とその父親だった。二人とも呆気にとられていた。しかしすぐに少女は部屋から退出させられた。弁明する余裕も言葉もなかった。宇佐美が子供を泣かせるような人だと誤解されるのは嫌だったが、ではどうして泣いていたのかと尋ねられてうまく答えられる気がしなかった。
 あかぎれだらけの手には水一滴でさえ刺激となる。少女にとって宇佐美は劇薬のような存在だった。
 宇佐美が帰ったあと、少女は主人に呼ばれた。怒られるのだろうと少女は委縮していた。しかし主人から投げかけられたのはなぜ泣いていたのかという質問だった。
 落ち着くための時間は十分あった。考えれば考えるほど、泣くほどのことではなかったなと思う。しかし沈黙が許されるはずもなく、少女は口を開いた。
「お茶を出したらありがとうと言われました。手が痛そうと心配してくれました。とても嬉しくて涙が出ました。そうしたら宇佐美さまはわたしの頭を撫でてくださいました」
「なるほど、よく出来た青年だ」
 主人がそう言ったので少女は安心した。見合いを台無しにしてしまったのではないかと気がかりだったのだ。しかしそれから一カ月もしないうちに別の男性が娘を訪ねて来た。宇佐美との見合いは破談に終わったらしいと、あとでほかの奉公人から話を聞いた。
 次の男性にも少女は茶を出した。しかし彼が少女に声を掛けることはなかった。
 どうして宇佐美との縁談がだめになってしまったのだろう。もしかして自分のせいなのでは。少女はそればかり考えていた。しかし主人に聞くこともできない。となると、宇佐美だ。
 ただの奉公人である少女に外出の自由はなかった。だが、三日に一度はお使いを頼まれている。少女はそれを利用して宇佐美に会いに行くことにした。
 軍の敷地に行こうと思えたのは、少女がまだ世間知らずであったからだ。入り口のところでキョロキョロしていたら「迷子かな」と声を掛けられる。
「宇佐美時重さまはいらっしゃいますか」
「宇佐美? 君は?」
「えっと……」
 名乗ったところで宇佐美がわかるわけもない。ではあの家から来たと言うべきなのだろうか。縁談がなくなったのに、今さら何だと思われるだろう。
 考え込んでいたら、目の前の人が「あ」と声を上げた。
「宇佐美ー! なんかお前のこと訪ねて来た子がいるぞー!」
 宇佐美の顔を見た途端、少女は胸が苦しくなった。忘れられていないかすごく不安になった。どうしてこんなに緊張するのか、何もかも初めての経験だった。
「あれ、君……何しに来たの?」
 宇佐美は気安く話しかけてくる。何と答えればいいのかと迷っていたら、あのときと同じように屈んで目線を合わせてくれた。
「お見合いがうまくいかなかったのはわたしのせいですか?」
「え、違うよ?」
「え……」
 宇佐美の返事はどこまでも軽かった。見合いのことなど何も気にしていないかのようだった。だからこそ戸惑った。どうしてこんなところまで来てしまったのだろうと。
「あのあともう一回会ったんだよね~、料亭で。そこでお断りさちゃった。まあ僕も結婚なんてする気なかったからどうでもいいんだけど」
「そうですか……」
「うん。だから君はなーんにも気にしなくていいよ」
「……はい」
「帰らなくて大丈夫? あんまり寄り道してたら叱られるんじゃない?」
 少女はハッと顔を上げた。確かに宇佐美の言う通りだ。
「ごめんなさい、失礼します!」
 少女は頭を下げて駆け出した。そんなに長居したわけではないが、悪いことをしていると、どうにも居心地がわるくなる。
 結果、寄り道をしたことは誰にも知られずに済んだ。しかし少女はどうしても宇佐美のことを忘れることができなかった。また会いたい。お話したい。
 お使いに出るたび少女は宇佐美の姿を探した。軍を訪ねるようなことはしなかったが、軍服を見るたび胸が跳ねた。そうして本物の宇佐美に会えたのは、半年も後のことだった。

「何か重そうだね」
「あっ」
 醤油瓶を包んだ風呂敷をひょいと持ち上げられる。お礼を言うことも忘れて、少女は口をぽかんと開けた。
「ちょうどそっち方面に行く予定だったから」
と、宇佐美は風呂敷を持ったまま歩き出す。「宇佐美さま」辛うじて言えたのはこれだけだった。
「なに?」
「あ、いえ……ありがとうございます」
「いいよ、ついでだから」
「お仕事ですか?」
「まあそんなとこ」
 宇佐美はなぜか楽しそうにしていた。持ち上がった口角をついじっと見てしまう。
「あの……ずっと気になっていたことがあって、聞いてもいいですか?」
「いいよ。答えられるかわかんないけど」
「どうして結婚する気がないのですか?」
「だってそんなことしたら鶴見少尉殿のお傍にいられなくなるし」
 敬愛している人なのだと宇佐美は言った。それがどういう感情なのか少女はまだ知らない。内容のない返事しかできずにいたら、宇佐美はさらに続けた。
「一番にはしてあげられないよって言ったら断られたんだよね」
 見合いの話をしているのだと、少女はすぐに理解した。一番にしてもらえないのは、確かに悲しいような気もする。だが二番目になれることが確かなら、それはそれで羨ましい気もした。誰かの一番どころか、二番目三番目にもなったことがない少女なのだ。上には兄が一人、下には弟が二人。少女の知る限りでは、彼らは奉公には出されていない。
「あ、また泣きそうになってる~」
 前と同じように宇佐美は少女の頭を撫でた。ずっとそうしていてほしかったのに、宇佐美の手はすんなりと離れていく。
「そんなにコキ使われてるの?」
「いえ、そんな……わたしの仕事よりも宇佐美さまのお仕事のほうが大変そうです」
「ま、いつ死ぬかわからないって意味ではそうかもね」
 少女は何も言えなくなってしまった。そうして歩いているうちに、目的地に到着してしまう。
 風呂敷を抱きながら宇佐美の背中を見る。待ってくださいと声を掛けてしまった。いけないことをしているような気持ちだった。
「あの、また軍にお邪魔してもいいですか……」
「そんなのだめに決まってるでしょ」
「はい……」
 崖の底に突き落とされたような気分だった。いいよと言ってくれると心のどこかで期待していたのだ。
「まあ街で偶然会っちゃうぶんには仕方ないけどね」
「そうなんですか?」
「不可抗力ってやつでしょ」
 少女には宇佐美の言っていることが理解できなかった。ただ一つ意外だったのが、この日を境にお使いの途中で宇佐美に会う回数が増えたということだ。偶然会うのは仕方ないという言葉を信じて声を掛けてみると、宇佐美は普通に返事をしてくれた。たまにだが、荷物を持ってくれることもある。少女が宇佐美を好きになるのに、そう時間はかからなかった。

 街で宇佐美をぱったりと見かけなくなって一年以上が過ぎた。会うのを楽しみにしていたのは自分だけだったのだと落ち込んだ。そして日露戦争の話を聞いて、もしやと思う。だが本当にそうなら宇佐美が無事に返ってくる保証などどこにもない。少女にはただ待つことしかできなかった。

 帰還の船が到着したという話を聞いて、少女は居ても立ってもいられなくなっていた。外に出かけるときはいつも以上に周囲に気を払った。そして、
「あ、久しぶり」
 変わらぬ調子で言う宇佐美を前に、少女は腹を立てた。どれだけ心配していたか、宇佐美には全く通じていないのだ。
 泣きながら抱き着くと、宇佐美はまた頭を撫でてきた。
「背は伸びたみたいだけど、泣き虫なとこは変わってないね」
「街に出るたび、宇佐美さまの姿を探しました」
「そう」
「……どうしたら二番目になれますか?」
「無理。まだ子供なんだから、ませたこと言うんじゃないよ」
「子供じゃありません。先月からお給料だってもらえるようになりました」
「僕から見たらじゅうぶん子供だって」
 少女はわあっと声を上げて泣いた。この頭を撫でる手が子供扱いの証拠なのだと気づいてさらに涙が出てくる。あと十年早く生まれていたら違ったのだろうか。早く泣き止まないと、また子供だと思われる。それでも涙は止まってくれなくて、宇佐美はやれやれと笑っていた。

***

 またも久しぶりに会った宇佐美の頬のほくろは、不思議な模様に変化していた。刺青というものらしい。
「この前、十四になりました」
「へえ~おめでと」
「あと一年で結婚できます」
「お前もしつこいね」
 少女は開き直っていた。宇佐美に何を言ってもさらっと流されてしまうので、こうするほかなかったのだ。諦めるという選択肢は今のところない。いっそ他の女と結婚でもしてくれれば違うのかもしれないが、宇佐美はまだ独身だった。
「僕の後ろばっかり追いかけてくるところがもう子供なんだって。結婚したいならもっと若い男探せば?」
「どうしてそんなこと言うのですか。わたしは宇佐美さまが好きなのに」
「歳の差を考えなよ」
「うちの旦那さまと奥さまだって二十も歳の差があります」
「あ~、悪い見本が近くに……ってやつね」
「鶴見さまが一番だって我慢します」
「我慢してほしいわけじゃないんだって。僕は鶴見中尉殿の一番じゃないけど、我慢なんてしてないし」
「一番になりたくないのですか?」
「そんな身の程知らずなこと考えたこともないよ」
「……わたしにはよく、わかりません」
 わからなくていいよ、と宇佐美は言う。それが突き放されたみたいで悲しくなった。
 泣くのは子供のすることだと思う。だが少女は宇佐美いわく、泣き虫だ。これ以上泣くところを見られたくなくて、少女は逃げようとした。しかしそんなこと、宇佐美はお見通しだったようで、
「あーもう、ほら」
 正面を向かされて、涙を拭われる。自棄になって抱き着いた。いつもと違って宇佐美は少したじろいていた。
「もうやめな、そういうの」
「大人だからですか?」
「だから違うって……ハア、もうわかったよ」
「結婚してくださるのですか?」
「あと一年お前が待てたらね。ほかにいい縁談があったらそっちに行きなよ」
「待ちます!」
「ハー……僕どんな顔してあの屋敷に行かなきゃいけないんだよ。めんどくさ」
 少女はフフ、と笑った。一年後が待ち遠しくて仕方ない。
「あ、明日からまたしばらく会えなくなるけど、僕のこと探し回らないでね」
「はい。またお話しできるの、楽しみにしてます」
 それに宇佐美が何と返事をしたか、今となってはもう思い出せない。「うん」とか「はいはい」とか、大した内容じゃなかったと思う。だけどちゃんと記憶にとどめておくべきだった。

 いくら待っても宇佐美が少女の前に現れることはなかった。半年は経った。そしてどうしても我慢できなくなって、少女は第七師団を訪れた。
 宇佐美のことを尋ねると、相手はぎょっと目を見開いた。いつの日か、宇佐美を呼んでくれた人だった。
「宇佐美はその……撃たれて」
「……」
「遺品はすべて、新潟の実家に……」
「はい……」
 気づいたら少女は海辺に立っていた。どうやって来たのか、全く覚えていない。涙が流れてくることもなかった。今は宇佐美に見られていないからどんなに泣いたって平気なはずなのに、どうしても泣けなかった。
 桟橋から見下ろす海はとても暗くて恐ろしいものだった。じりじりとつま先を動かしても、寸前のところで止まってしまう。少女はその場にへたり込んだ。
 死んだら年を取らないから、いつまで経っても結婚できなくなってしまう。宇佐美の後ばかり追いかけていたら、また子供だと笑われてしまう。そうやって心の中でたくさん言い訳をした。
「宇佐美さま、お傍にいられなくてごめんなさい……」
 少女は買い物ついでに持っていた風呂敷に顔を埋めた。何度か宇佐美がきまぐれで持ってくれた風呂敷だ。宇佐美とのつながりは、これしかないように思えた。
「早くわたしのこと、迎えに来て……」


***


「あ、起きた」
 目を空けたら宇佐美がいた。宇佐美の膝で眠っていたようだ。
「え?」
「長生きしたんだね」
 これは夢だろうか。試しに自分の頬を触ってみたら、皺だらけだったはずがなぜかつるりとしている。
「わたしのこと、迎えに来てくださったのですか?」
「迎えには行ってないよ。ただまあ、そういえば約束してたなーと思ってここにいただけ」
「ずっと待っていてくださったということですか? 鶴見さまではなくて、わたしを?」
「前にも言ったと思うけどさあ、僕が待ってたって鶴見中尉殿が来てくださるわけないだろ。鶴見中尉殿は僕の小指を持って行ってくださったし、それで十分」
 そう言った宇佐美をよく見ると、確かに右手の小指が欠けている。血は流れていないし、痛くもないそうだ。
「だから残りは全部お前にあげる」