※この話は夢本のサンプル(全体の4割程度)ですが、短編としても読めるところで切っています。
夢本にはこの話を南雲視点で語ったものと、夢主視点のこの後の話が収録されています。
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好きになった人が殺し屋でした。
「南雲さんのばか……」
すすり泣きをする私を前に、南雲さんは「どこか怪我しちゃった?」と見当違いのことを言う。私がどうして泣いているのか理解できないのだ。南雲さんが持つ血濡れたナイフさえなければ私は夢見心地のままいられたかもしれない。だけど、もう手遅れだ。私は南雲さんのことを好きになってしまった。でも住む世界が違う。どこで間違えたのだろう。出会ったとき……それとも南雲さんを家に招き入れたとき? 今日のことを全部忘れられたらどんなにいいことか。涙を拭うこの刺青だらけの手を、私は未だ振り払うことができずにいる。
***
「すみませ~ん、僕ひとりになっちゃったんでキャンセル料払いま~す」
予約時間ちょうどに現れた「南雲様」はにこにこと笑いながらそう言った。予約時点では五名様だったはずなのに、何かよほどのことでもあったのだろうか。連絡もなくキャンセルされるよりは何倍もいいけれど、用意した料理は無駄になってしまうだろう。私が経営している居酒屋は、カウンター席と座敷一室だけの本当に小さな店なのだ。加えて今日の予約は南雲様だけだったので、食材が捌ける見込みはとても薄い。
「あの、南雲様はいかがなされますか?」
「食べていってもいい?」
「はい、もちろんです」
この場合、座敷とカウンター席のどちらがいいのだろう。予約時点では座敷に案内するつもりだったけど、私としてはカウンター席のほうが料理や飲み物を提供しやすくてありがたい。だけど一人でゆっくりくつろぎたいかもしれないし……。私の迷いを感じ取ったのか、彼はカウンターに手を置いた。
「こっちでいい?」
「はい。メニューをどうぞ」
「ありがと~」
彼はウーロン茶を注文した。それからサラダ、唐揚げ、煮込みといった定番メニューを一通り。一人用のミニサイズもあると提案したが、彼はお腹が減っているから大丈夫だと言う。そして本当に二人前はあるであろう量をぺろりと平らげてしまった。さらにまだ注文は続いている。
「唐揚げおいしいね」
「ありがとうございます」
「ごめんね一人になっちゃって」
「いえ、事情もあるでしょうから」
「ん~、そんなんじゃないと思うけどね」
……はて、どういう意味だろう。そうなんですか、と無難に返事をしておいたら彼はとんでもないことを言ってのけた。もともと四人を誘う前から店を予約していた、と。
「……それは断られても仕方ないと思います」
「え~、そうなの?」
「今度からは事前に声を掛けてから予約してくださいね」
「はあい」
説教みたいになってしまったけど、彼は嫌な顔ひとつしなかった。
そろそろ支払いかなと思っていたら、さらに長芋のお好み焼きを注文されてさすがに私も戸惑う。もしかしたら無理して食べようとしてくれているのかもしれない。キャンセル料の具体的な金額の提示はしていなかったけど、彼はすでに三人前くらいを食べているので、払ってもらわなくてもいいかなと思っていたところなのだが……。
「そんなに食べて大丈夫ですか?」
「おいしいからつい」
「キャンセル料は結構ですよ?」
「いやそこは貰わないとだめでしょ」
「でも、たくさん食べてくださったから……」
「まだ食材余ってるでしょ?」
そう言われたらそうなのだが、ここまで払うと言い張るお客様も珍しい。ちゃんとしなきゃだめだよ、と今度はなぜか私が叱られている。だけど本当に払ってもらうほどではないのだ。売り上げの見込みは減るけど、残りの食材は冷凍なりして私が食べてしまえばいい。そこまで言っても彼は譲らなかった。結局、キャンセル料として払ってもらった分はテイクアウトにするというところで話は落ち着いた。
「ありがと~。今日断られた同僚に明日も会うから食べさせとくね~」
「はい、ぜひ。でも無理やりはだめですよ」
「そんなことしないよ~」
彼が出て行ったあとの店内で、ふうとため息をつく。一時はどうなることかと思ったが、食材も無駄にならなくてよかった。不思議な雰囲気の人だった。なんとなくもう店には来ないような気がしていたけど全くそんなことはなくて、彼は一週間後にまた現れた。今度は予約が一名だった。
「また来てくださったんですね。ありがとうございます」
「これ返さなきゃって思って」
そう言って彼はカラの耐熱容器を差し出してきた。普段テイクアウトなんて受け付けていないから、これしか入れるものがなかったのだ。返ってくると期待はしていなかったけど、その気遣いが嬉しかった。
一週間前はウーロン茶ばかり飲んでいた彼だったが、今度はお酒を注文してきた。食べる量は普通に一人前程度。やっぱり前回は気を使ってくれていたのだろう。お酒を飲まなかったのも、たくさん食べられるようにするためだったのかもしれない。
それから彼は週に一度のペースで店を訪れた。もうすっかり常連さんだ。季節が変わってすぐのころ「様付けなんてやめてよ」と言われた。彼を南雲さんと呼ぶようになったのはそのときからだ。
南雲さんの来る時間帯はまちまちだった。開店直後に来ることもあれば、仕事が遅くなったと閉店三十分前に現れることもある。片付けをしていてもよければと、シャッターを閉めたあとで少し時間を延長したことも何度かあった。最初は本当に私も店の後始末をしているだけだったのだが、次第に隣の席に座って一緒に食事をするようになった。
あまりよくないことをしている自覚はあった。だけど私はもう、この時間を待ち遠しく思うようになってしまったのだ。私はとっくに南雲さんのことが好きだった。
自分の店なのに、南雲さんに勧められてお酒を飲む。彼の骨ばった手が私の手に重ねられた。
「あ、あの……」
南雲さんは無言で私の目をじっと見つめてきた。どんどん距離が近くなる。「だめ?」とかわいい顔で聞かれたら、拒否なんてできない。ぎゅっと目を閉じたら、やさしい口付けが振ってきた。
……だめだ、頭がクラクラする。酔うような量を飲んだわけでもないのに、理性が飛んでしまいそう。南雲さんは何度も私の唇を吸って、舌を絡めてきた。ただ受け入れるだけの私を南雲さんはどう思っただろう。余裕も何もなかった私だが、それでも何かしないといけないと思って彼の服をぎゅっと握った。すると南雲さんに唇をぺろっと舐められる。
「かわいい」
なんて答えたらいいのかわからなくて、私は目を伏せた。
「続き、しようよ」
店の二階が自宅になっていることは、南雲さんにとっくにバレていた。……いや、隠していたわけではない。だけどこの状況は二階に上げてくれと言われているのと同義だろう。
南雲さんを浴室に案内して、部屋で一人で待っていたら急に冷静になってきた。どうしよう。とんでもないことをしてしまったかもしれない。お酒の勢いでこんなことをするのは嫌だ。遊びの関係にもなりたくない。だけど今さらやめようなんて言って許されるのだろうか。
私は一階に下りて食器を洗うことにした。現実逃避である。
しかし皿洗いをしていたら、もう一つ気になることができた。ゴム……あるのかな。南雲さんが持っていたら、それはそれで嫌だな……。
(そうだ、ゴムしたくないって言われたら断ろう!)
焦りが頂点に達した私は財布を片手にコンビニへ向かっていた。家に他人を一人残して出掛けるなんて普通なら絶対にしない。だけどこのときの私は普通じゃなかったのだ。
目当てのものを買って家に戻ると、シャワーを終えた南雲さんが一階まで下りてきていた。
「びっくりした。逃げられちゃったのかと思った~」
「ごめんなさい、書置きくらいすればよかったですね」
南雲さんは私の手元を見て「あ」という顔をした。小さな茶色の紙袋。私が何を買ってきたのか察したようだ。
「あ~……ごめんね、シャワー浴びてもらってるあいだに買ってこようと思ってたんだけど」
「いえ……」
完全に断る流れはなくなって、私は浴室に入った。ちょっと泣きたかった。でも全部が全部嫌というわけでもなくて、ドキドキもしている。シャワーを終えた南雲さんを見たとき、私の中には確かに欲が芽生えていた。わずかに水気を含んだ髪の毛、赤みを帯びた肌。あの胸に飛び込んだら私はどうなってしまうのだろう。想像しただけで胸がきゅっと締め付けられた。
なんとか冷静になろうと、ぬるめの温度に設定したシャワーを頭から浴びる。なかなか出ていく勇気が出なくて、かなり浴室で粘ってしまった。だけど南雲さんは私を急かすことも咎めることもしなかった。
「遅くなってごめんなさい」
「んーん、全然。こっち来て」
すぐにでも始めるのかと思っていたけど、南雲さんはタオルとドライヤーを持ってベッドに座った。私の髪に触れるなり「あれ?」と声を上げる。
「なんか髪の毛……冷たくない?」
「えっと、のぼせてしまいそうだったので……」
「も~、さすがに風邪ひいちゃうって~」
しょうがないなあと言いながら、南雲さんはドライヤーのスイッチを入れた。温風と南雲さんの手が髪の毛を撫でていく。
髪が乾いたら、今度は手を繋いだ。
「二階、こんな風になってたんだね」
「はい……あの、ちゃんと掃除してないのであまり見ないでください」
「え~そんなことないと思うよ? いつもお店終わったらどうしてるの? すぐ寝ちゃう?」
「そうですね、お風呂入ったら大体寝てます」
「だよね~遅くまでやってるし疲れちゃうよね」
南雲さんは空いているほうの手で私の頭を撫でた。こんなに優しくされていいのだろうか。どっぷりハマってしまったら、後で抜け出すのが大変そうだ。
南雲さんはいつもこういう感じなのかな。なんだか恋人みたい。なかなか本題に進まなくて、私はずっとドキドキしている。このままでも充分。だけどこれだけではきっと終わらない。これから先に起こることを考えていたら、身体の奥が熱くなってきた。このタイミングでキスをされたら、誰だって受け入れてしまうに決まっている。
「かわいい」
息継ぎの合間に南雲さんは何度もそう言った。言われるたび、身体がくすぐったくなる。本当にかわいくなったんじゃないかって、錯覚してしまいそうだった。
キスが次第に深くなっていく。……気持ちいい。時折り漏れる声や吐息は自分のものじゃないみたいだった。じわじわと熱に冒された身体はその先まで求めている。だけど、どうしたら次に進めるのかわからない。もどかしくて彼の胸に身を寄せたら、ぎゅっと抱きしめられた。そして、ゆっくりとベッドに押し倒される。
南雲さんのことは、どちらかといえばかわいいと思っていた。でも今は、かっこいい。射るような視線で私を見下ろす彼が、とても扇情的に見える。はやく、と言ってしまいたかった。大きな手で頬をするりと撫でられて、もう何度目かもわからないキスをされる。耳元で「いい?」と聞かれて、私は彼の首に腕を回した。
***
アラームが鳴る前に目が覚めるのは、私にしては珍しいことだった。隣では南雲さんがまだスヤスヤと眠っている。眠るときは抱きしめられていたけど、いつの間にか体は離れてしまっていた。それでも二人で寝るには狭いベッドの上だ。間近で見る彼の子供みたいな寝顔は心臓に悪い。南雲さんを起こさないようそっとベッドから抜け出すと、寒くて身体がぶるっと震えた。
起こしたら悪いかなと思って静かにしていたけど、よく考えたら起こしたほうがいいのかもしれない。朝から仕事だとして、当然ここには彼の着替えなんてない。一度家に帰る時間を考えたら、ここでのんびりしているわけにもいかないだろう。気持ちよさそうに眠る南雲さんを起こすのは気が引けるし、何ならずっと寝顔を眺めていたかったけど、仕方ない。軽く揺さぶって声を掛けたら、南雲さんは「ん~」と目を瞑ったまま声を上げた。
「時間大丈夫ですか?」
南雲さんは半分目を開いた。やっぱりまだ眠たそうだ。
「……おはよ~」
「おはようございます」
「いま何時?」
「もうすぐ七時です。すみません、何時に起きるかわからなかったので」
「ううん、起こしてくれてありがと。もうちょっといたかったけど、そろそろ帰るね」
「はい」
ありがとうございました……と言うのは変な気がする。それなら、いってらっしゃい? 迷いながら玄関まで見送りに行くと、出口を跨いだ南雲さんが振り返る。
「いってきまーす」
「えっと、いってらっしゃい」
南雲さんの姿が見えなくなって、私は玄関を閉めた。二階に上がるといつも通りの私の部屋だ。二度寝しようと思ってベッドに寝転がる。まだ南雲さんのぬくもりが残っているような気がして、胸の奥がツンとした。
いきなり家に上げたのはよくなかったかもしれない。ベッドに入るたびこんな気持ちになるなら、いつか耐えられなくなってしまいそうだ。せめて外に行けばよかった。それなら例え一回きりの関係だったとしても、こんなに思い出すことにはならないだろうから。
一日、二日と過ぎて私は冷静になったつもりだった。だけど五日も過ぎれば、ソワソワと彼のことを考えてしまう。果たして南雲さんはまた店に来てくれるのだろうか。こういうのは一度寝たら終わりなのかもしれない。仮に南雲さんが店に来たとして、私はどんな顔をすればいい? もしまた誘われたら、きっと私は断らない。
あの日からちょうど一週間。南雲さんはまだ店に来ていないし連絡も一度もない。南雲さんは店に来るとき大体は事前に連絡してくれるから、私も彼の連絡先は知っている。しようと思えばいつだってできる。だけどそんなのかっこわるい気がしてできなかった。割り切れていないと思われるのが嫌だったのだ。
まあそんなもんだろうと何重にも保険を掛けていたから、思っていたより私は普通に過ごせている。でも、あのとき断っていたら何か違ったのかなと何度も考えた。駆け引きは苦手だ。というか、できる気がしない。
十日目で私は南雲さんの連絡先を消した。だけど、ちょうど見計らったかのようなタイミングでメッセージが送られてくる。
「デートしよ!」
……え、デート? デートってあのデート? 戸惑いながらも私は消したばかりの南雲さんの連絡先を再登録した。一呼吸おいて、メッセージの真意を考えてみる。
もしかして……もしかして両想い? 単純な私の頭ではそれしか思いつかなかった。浮かれすぎだろうか。でも痛い目をみたくないから、素直に納得することができない。デートって言ったって、ホテルのついでかもしれないし……。
取り返しがつかなくなる前に、ちゃんと聞いておきたい。好きになってもいいのって。大丈夫、今ならまだ引き返せる! 私はこの勢いのまま返事をした。それからトントンと話が進んで、休みの日に二人で出掛けることが決まった。
お店以外で会うのは初めてだから緊張する。いつもよりはお洒落したつもりだけど、自信はない。
待ち合わせの駅に着いたのは約束の十分前だった。南雲さんはまだ来ていないようだ。
南雲さんを待っているあいだ、私はスマートフォンで近くの店を調べていた。この辺りは最近オープンしたお店が多いから、いろいろ行きたくなってしまう。どんな食べ物が流行っているかのリサーチもできるから、今日は一石二鳥だ。
南雲さんは私が着いてから五分くらいで現れた。今日はいつもよりラフな襟のないシャツを着ている。
「ごめん待った~?」
「いえ、来たばかりです」
「そっか。今日いつもと雰囲気違うね、似合ってる。かわいいよ」
「ありがとうございます」
お洒落の甲斐があったというものだ。まあ南雲さんが慣れているだけなのかもしれないけど、それはそれでいい。
「南雲さんも新鮮で……素敵だと思います」
「そう? ありがと~。そういえば仕事帰りでしか会ったことなかったね~」
南雲さんは自然な動作で私の手を取った。外でもこんな感じなんだなあと、ぼんやり考えていたら、南雲さんが顔を覗き込んできた。
「もしかして体調悪い?」
「えっ? 全然!」
「そう? ならいいけど」
南雲さんはあんまり納得していなそうな顔で言った。いけない、悩んでいたのがバレてしまう。……むしろバレてしまったほうがいいのでは? 私の今日の目標は、この関係をハッキリさせることだ。さすがにここでいきなり話を切り出すことはしないけど、落ち着ける場所に入ったら言わなければ。
と、決意したものの……もうすぐ日が暮れる時間帯になってしまった。カフェに入ったり映画を見たりと、全く話すタイミングがなかったわけではない。次は食事をするのか、解散か、やっぱりホテルに行くのか、どうするんだろう。
「ねえ」
ハッとして顔を上げたら、少し不機嫌そうな顔の南雲さんが目に入った。
「やっぱり体調悪いんじゃない? 今日ずっと上の空だよ」
「そんなこと……」
あったかもしれない。現に今も南雲さんのことを放ったらかしで物思いにふけっていたのだ。
「さっきの映画の内容言える?」
「……」
無言の私を前に、南雲さんがため息をつく。てっきり私に呆れているのかと思ったら、どうも違うらしい。南雲さんは私の手を取って人通りの少ないほうへ歩き始めた。
「あ~もう、なんでこんなときに……」
歩くペースがどんどん速くなっていく。早歩きはやがて小走りに変わった。
「追いかけられてるんですか?」
「そうみたい」
「南雲さんは追われるような人なんですか?」
「どっちかっていうと逆なんだけどな~」
相変わらず緊張感のない声で南雲さんは言う。もっとわかるように説明してほしい。
いよいよ面倒になったのか、南雲さんは私を米俵のようにひょいと担いで走り出した。
「なっ南雲さん?」
「すぐ終わるからちょっと待ってて。……あ、目も瞑ったほうがいいかも~」
従わなければ大変なことになるという予感があった。そして私が目をぎゅっと閉じた瞬間、浮遊感に襲われる。さっきまで感じていた南雲さんの感触もない。……もしかして浮いてる? 確かめたいなら目を開ければいいのだが、私にはできなかった。
このまま落ちて死んじゃうんじゃないかと思っていたら、たぶん南雲さんにキャッチされた。
「……もういいですか?」
「ん~あとちょっとなんだけど……」
声の主が南雲さんであることに安心したのも束の間、走ったりジャンプしたりの衝撃で私は今にも吐きそうだった。途中で南雲さんじゃない声の悲鳴やうめき声なんかも聞こえてきて、もうわけがわからない。やっとのことで地面に降ろされたけれど、足に力が入らなくてその場にへたり込んでしまった。
「ごめんね、大丈夫だった?」
「急に何なんで……え?」
言っている途中で、南雲さんの右手のナイフに目が行ってしまった。滴り落ちている赤っぽい液体は血にしか見えない。じゃあさっき聞こえてきた声は……。考えると恐ろしくなって、言葉が出てこなくなる。
とんでもない人を好きになってしまった。……いや、この場合は関わったこと自体が危うい。ヤクザなのかマフィアなのか知らないけど、南雲さんはきっと危ない人だ。
頭がいっぱいになってポロポロと涙がこぼれてくる。南雲さんはきょとんとしていたけど、すぐに私に近づいて「どうしたの?」と声を掛けてきた。私が泣いている理由に全く見当がつかないようで、それがまた悲しさを助長させる。
「南雲さんのばか……」
「どこか怪我しちゃった? 痛いところある?」
ないと首を振ったら南雲さんに涙を拭われた。この手を払いのけられない私は馬鹿だ。大馬鹿だ。今日は大事な話をするはずだったのに、どうしてこんなことに。
私はどこで間違えてしまったのだろう。キャンセル料を素直に受け取っておけばよかった? キスを受け入れたのがいけなかった? それとも浮かれてデートに来たのがいけなかった?
なかなか落ち着かない私にしびれを切らしたのか、南雲さんは私を抱き上げた。さっきみたいな担ぎ方じゃなくて、今度は両手で持ってくれている。本気で抵抗するのは怖かったから、少しだけ足をジタバタさせてみた。
「降ろしてください……」
「降ろしてもいいけど歩ける?」
「……歩けない」
南雲さんが入ったのはその辺にあったラブホテルで、私はゾッと背筋が凍る思いをした。
部屋に入るとベッドに座らされて、その前に南雲さんがしゃがみ込む。下から大きな目で見上げてくる南雲さんが子犬みたいに見えて、まだ好きな気持ちが残っているんだなあと落ち込んだ。
「ほんとにどうしちゃったの?」
「……さっきの、何だったんですか?」
「ああ、僕のこと狙ってた殺し屋のこと?」
「殺し屋……?」
「あれ、知らない? 殺し屋」
「知らなくはない……けど」
都市伝説の類だと思っていた。今まで生きていてそんな人に会ったことはなかったし、人が死ぬ場面にも遭遇したことはない。だけど全く話を聞いたことがないかというと、そうでもなかった。この世には殺し屋という職業があって、そのためのライセンスも存在していると。
ライセンスがあるのなら、南雲さんが悪いことをしているというわけではない……?
「きみの店にもお客さんとして来てたよ? 気づいてなかった?」
「え……全然」
「そんなもんか~」
南雲さんは一度立ち上がって私の隣に座った。ベッドの沈む感覚が居心地の悪さを生む。
「……殺し屋って、南雲さんの他にもたくさんいるんですか?」
「たくさんってほどじゃないけど、その辺歩いてたら普通にいるよ~。まあ僕は殺し屋専門の殺し屋だからちょっと特殊かもね~」
なんてことのないように言うけど、私はすでに頭が追い付いていなかった。いつの間にか涙は止まっていて、それで私が落ち着いたと南雲さんは勘違いしたようだ。頬を撫でてくる彼の手には血の一滴もついていない。夢だと言ってほしかった。
「お風呂入る?」
「えっ」
「さっきちらっと見たけど広そうだったよ~」
「……今日はそういう気分じゃなくて」
「そっか」
「殺し屋だって、どうして今まで言ってくれなかったんですか?」
「え? だって聞かれなかったから」
それはそうなのかもしれないけど、腑に落ちない。私はお客様のプライベートなことをあまり聞かないようにしていた。だからってこんなことになるとは思わないだろう。しかし南雲さんからしてみれば、私の主張のほうが理解しがたいようだ。
「僕って他のお客さんと同列に扱われるような存在だった?」
「ちがいます……」
確かに仕事くらいは聞けばよかったのかもしれない。あとはどこに住んでいるか、とか。そう考えてみたら、私は南雲さんのことを何も知らない。知ろうともしなかった。でも! それは南雲さんがお客様であり、行きついた先が体だけの関係だったと思っていたからだ。もしこれが恋人同士であったなら、私だってもっと南雲さんのことを知ろうとしたはずだ。
「私、もう南雲さんとは会えないと思ってたんです」
「ええ~、なんで?」
「この前……しちゃったから」
南雲さんは大きな目でぱちぱちと瞬きをする。「何を?」と聞かれそうだったので、先手を打って「えっち」と言っておいた。恥ずかしすぎて語尾はほぼ消えかけていた。幸いだったのは、南雲さんがなんて言ったのかと聞き返してこなかったことだ。
「なんでそれでもう会えなくなるの? 嫌だったってこと?」
「いえ……なんか大人ってそういうものかなって」
「よくわかんないけど、僕は全然そんなつもりじゃなかったよ」
「はい。デートに誘われて、もしかしたら私が悪いほうに考えすぎなのかもって思って……」
「だから今日ずっと上の空だったんだね~」
コクンと頷けば、南雲さんが頭を撫でてくる。よしよしと子供をあやすみたいな手つきだった。
どうしてこんなに優しいのに、殺し屋なんだろう。考え方は私と違いすぎるけど、きちんと話せば伝わらないということもない。ただ逆に、直球で話さなければとんでもない勘違いをしたまますれ違ってしまいそうな危うさもあった。
「さっき、人を殺したんですか?」
「うん」
「殺し屋とか……すぐに受け入れられないです」
「そっか~」
殺し屋といっても、彼に殺されるかもしれないという恐怖はなかった。では何が受け入れられないのかというと、難しい。南雲さんがどうというよりは、私の知る世界が実は全然違うものだったということがショックなだけなのかもしれない。
「でもまあ、しばらく僕といたら慣れるんじゃない?」
「そういうものでしょうか」
「ダメだったらダメだったで仕方ないけど」
「そこまで行ったら南雲さんのことすっぱり忘れられなくなっちゃいそうで怖いです」
「僕だってそうだよ」
南雲さんはじっと目を見つめてきた。あんな話をした直後だっていうのに、私の胸はきゅっと悲鳴を上げる。
「だってもう、きみのこと好きになっちゃったから」
これはある種、私が今日一番聞きたかった言葉だ。だけど素直に両手を上げて喜ぶことはできなかった。
「私だって……私だって南雲さんのこと好きです!」
「よかった。嬉しいな~」
にこにこと笑う南雲さんに、私の葛藤が伝わっているかは怪しい。この先南雲さんと付き合っていくなら、こういうことは多々あるのだろう。殺し屋という職業についてもまだまだ知らないことばかりで不安だらけだ。だけど知ってしまった以上、もとの私には戻れない。
「やっぱりお風呂入ってもいいですか?」
「うん。そのあと僕も入ろっかな」
私たちはそれぞれ入浴を済ませて、あとの時間はルームサービスを頼んで過ごすことにした。思っていたよりメニューが豊富でびっくりだった。まあ、ラブホ女子会とかも聞くからこういうところにも力を入れているのかもしれない……と、どうでもいい分析をしながら食事を進める。
しかし直接ではないにせよ、あんなものを見たあとで普通に箸が進むことに戸惑いもある。南雲さんに至っては人を殺したばかりだというのに、平気で肉を食べていた。いちいちそんなことを気にしていたら生きていけないような世界なのかもしれない。というか南雲さんは仕事帰りに店に来てくれていたのだから、今さらだ。
食事が終わったあとは、何もせずにホテルを出た。南雲さんは私を家まで送ってくれたけど、中には入らなかった。私はいつもみたいに南雲さんの背中が見えなくなってから家の中に入った。
好奇心は猫をも殺すということわざがある。きっと私のような人間に対して使う言葉なのだろう。今まで平和だと思っていた世界が、急に色を変えたみたいに違って見える。後悔するかもしれない。もしかしたら後悔さえできないような状態になってしまうかもしれない。だけど、向き合いたいと思った。
好きだからの一言で片づけたつもりはない。私は、私の住む世界を南雲さんと一緒に見ていきたいのだ。
部屋に戻った私は、初めて自分から南雲さんにメッセージを送った。「今度は南雲さんの家に行ってみたいです」私としてはかなり勇気を出して送った内容だ。返事はすぐに来て「いいよ」と、どこまでも軽い。そんなもんか、と思う。悪い意味ではなくて、昨日まで一人でぐずぐず悩んでいたことが馬鹿らしくなったのだ。
何度かやりとりが往復すると、南雲さんから電話が掛かってきた。電話口からはコツコツと足音が聞こえている。話の内容は「もうすぐ家に着く」とか、あまり内容のないことばかりだった。
ガチャンとドアを閉めるような音が聞こえた。家に着いたのだろうか。
「眠れそう?」
正直、そんな気遣いがあるとは思っていなかった。びっくりして言葉を失っていると、南雲さんが探るような声色で「眠れない?」と続けてくる。
「……大丈夫です。たぶん、疲れているのでぐっすりだと思います」
「あはは、僕のせい?」
「まあ……」
「ごめんね~。でも僕もきみのこと簡単に諦めたくなくなっちゃったからさ」
「……どうして?」
「んー、かわいいから」
「え……」
南雲さんからの答えは予想外だった。南雲さんは今まで何度も私に「かわいい」と言ってくれていたけど、あれは一種のサービスだと思っていたのだ。否定や謙遜をするのも無粋な気がして黙っていたけど、南雲さんは本心で言ってくれていたということだろうか。それとも私、騙されてる?
私は自分のことをかわいいと思ったことはない。これまですごくモテたということもないから、その評価は間違っていないと思うのだが……。
「そんなに意外だった?」
「……すごく失礼かもしれないけど、南雲さんは相手に困らなそうだし、もっと周りにかわいい人はいっぱいいるんじゃないかなって」
「僕がかわいいと思うの、きみだけなんだけどな~」
拗ねたような声は、すぐに明るい色に変化する。
「今きみがどんな顔してるのか、わかっちゃうんだもん。そういうところがかわいいんだよ。けっこう僕のこと好きだよね~」
「……料理がおいしいからって言われるのかと思ってました」
「誤魔化した?」
「……ハイ」
「料理もおいしいよ」
「……ハイ」
「好きだよ」
「私も好きです……」
「知ってる~」
これだけだと普通の恋人同士の会話みたいだ。ぼふっと音が聞こえて、ベッドに寝ころんだのかなあと想像する。私もベッドに横になってみた。今日は気分じゃないと言ったのは私なのに、一人でいるのが少し寂しい。
「南雲さん」
「うん?」
「おやすみなさい」
「おやすみ~」
寂しいと言える素直さは私にはなくて、無難な言葉を選ぶ。切れた通話画面を私はしばらくぼうっと眺めていた。
***
南雲さんは私の店に同僚の坂本さんという人を連れてきた。殺し屋がたくさんいると私が実感できるようにということらしいが、そういうことではないような……。南雲さんの感性は殺し屋ということを抜きにしてもちょっとズレている気がする。何より不憫なのは連れてこられたという坂本さんだ。
坂本さんは南雲さんと違って静かなタイプだった。お酒はそれなりに飲んでいるみたいだけど、食事はあまり進んでいない。料理が口に合わなかったのだろうか。
「坂本さん、メニューになくても材料があれば作りますよ。もし食べたいものがあれば……」
坂本さんに向けて言ったのに、返事をしたのは南雲さんだった。
「えっ、僕そんなこと言われたことないよ?」
「南雲さんはなんでもおいしいって言ってくれるから……」
「だっておいしいんだもん……。坂本くんのことは気にしなくていいよ。もともとあんまり食べないもんね~?」
自分で連れてきたくせに何という言い様だろう。坂本さんはちらっと私のほうをみて「うまいです」と言ってくれた。いい人だ。そういえばこの人も殺し屋だったな、と思い出したのはそれから少し時間が経ってからだった。
「今日はちゃんと事前に誘ったんですか?」
「ううん。ほぼ無理やり」
「ダメですよそんなことしたら」
「だって普通に誘っても絶対来てくれないって」
「それなら諦めないと……」
「え~」
南雲さんは不満そうな顔をする。ただ、坂本さんも心の底から嫌がっているわけではないようだ。南雲さんと坂本さんは同僚でもあり友人でもあるそうだから、慣れているのだろう。仕事中もいつもこんな感じなんだろうか。
南雲さんと坂本さんの会話は、ほぼ南雲さんの一方から発せられるものだった。私としては普段知らない南雲さんの話が聞けて嬉しい。というかこの場で一番得をしているのはおそらく私だ。
二人は殺し屋養成学校のときの同級生らしい。……いや、殺し屋学校って。嘘でしょと思ってスマートフォンで検索してみたら、普通にホームページが出てきた。「ゆとりのある殺し屋教育を」「入学者募集中」……私がいかに狭い世界で生きて来たのか実感させられた。
「これって誰でも入学できるんですか?」
「試験に通ればね~。まあ推薦とかもあるっちゃあるけど」
ますます普通の学校みたいだ。興味本位でページをスクロールしていたら「ねえ」と南雲さんが声を掛けてくる。
「まさか入学してみたいとか言い出さないよね?」
「それはさすがに話が飛躍しすぎですよ……。どんなものかなって見てただけです」
「ならいいけど」
二人は長居することもなく、食べるものを食べたらサッと店を出て行った。今日は他のお客様も早めに帰ってしまったので、時間になったらすぐに店を閉められそうだ。
洗い物をしながらカレンダーに目を向ける。明日はついに南雲さんの家にお邪魔する日だ。どうしよう、ナイフとか銃がそこら中に散乱していたら。とんでもない妄想を繰り広げていた私だったが、実際のところは普通の普通だった。殺し屋要素はゼロと言ってもいい。
ここが南雲さんの家なんだなあと思ったら、なんだか緊張してきた。そわそわと落ち着かない私を不思議に思ったのか、くりくりとした目が覗き込んでくる。
「どうしたの?」
「普通の部屋だな~って思ってました」
どんな想像してたの、と南雲さんは笑う。正直に昨日の妄想を話してみたら「意外と楽しんでるみたいだね」と言われてしまった。
「僕が殺し屋なの、受け入れられたってことじゃない?」
「それはちょっと、まだかもしれないです……」
「ふ~ん……とりあえず座ろっか」
途中コンビニで買ったお菓子やお酒をテーブルに広げる。意外だったのはつまみよりもお菓子が多いことだ。南雲さんはその中でも最初にポッキーに手を伸ばした。
「甘いもの好きなんですか?」
「好きだよ~」
言われてみれば、彼はほぼ毎回最後にアイスを注文していたような気がする。そっか、甘いもの好きだったんだ。何でもかんでもかわいいに結び付けてしまう私もどうかと思うが、ポッキーを食べる南雲さんはかわいいそのものだった。
隣に並んでちびちびとお酒を進めていたら、南雲さんの大きな体がのしかかってくる。「わ」と色気のない声が出た。
「もう酔っちゃったんですか?」
「全然」
それはそうだろう。いつもの南雲さんの飲む量に比べたら、まだまだ序の口だ。彼のさらさらの頭を撫でると、目元にキスを返される。
「赤くなっちゃった。かわいいね」
「……南雲さんのほうがかわいいと思います」
「照れてるところもかわいい」
「本気なのに」
「そっかそっか、ありがとね~」
かわいいと言われるのもきっと慣れているのだろう。南雲さんはムッとしたりもせずに、にこにこと笑っていた。
南雲さんはずっと私に寄りかかったままお酒を飲んでいる。だけど重いということもなくて、加減してくれているのかもしれない。私も真似して体重を掛けると、南雲さんはふざけて倒れてしまった。
「起こして~」
「はいはい」
南雲さんを起こそうと両脇に手を差し込むと、逆に引っ張られて南雲さんの上にのしかかってしまう。実はこうなるんじゃないかとわかっていたけど、私は何も言わなかった。ぎゅっと私を抱きしめて満足したのか、南雲さんはそのままの体勢で起き上がった。今、すごい腹筋の力を見せられた気がする。やっぱり殺し屋となると体も鍛えているものなんだろうか。前に見たときはそれどころじゃなくてあまり気にしていなかったけど、今日なら……。考えただけで頬が熱くなってきて、私は静かにうつむいた。
「あれ、どうしたの? 恥ずかしかった?」
「何でもないです……」
特に言及されなかったことに安心して、飲みかけのお酒に手を伸ばす。ちょっと思考がふわふわしてきた。お酒に酔っているのか雰囲気に酔っているだけなのか、わからない。
南雲さんの仕事について尋ねたのは、彼のことをもっと知りたいという思いからだった。殺し屋ということを受け入れていくためにも必要なことだと思ってのことだった。だけど南雲さんはあまり良い顔をしなかった。
「一般的なことなら話せるけど、仕事の具体的な内容は話せないよ。規則でそうなってるからってのもあるけど、きみみたいな人が深入りするようなことじゃないからね」
「え……?」
戸惑いしかなかった。もっと知ってほしいのかと思っていたのに……。だけど思い返してみれば、南雲さんは普段から「聞かれたら答える」というスタンスで、だから私も最近まで彼が殺し屋だと知らずにいたのだ。
「僕としては『そんな職業もあるんだな~』くらいでちょうどいいと思うんだけど」
「……付き合ってるのに?」
「だって僕はプロで、きみは素人でしょ。下手な好奇心で首突っ込んだら死んじゃうよ」
「でも、」
「僕はただ、僕が殺し屋であることをきみに受け入れてほしいだけ」
「受け入れるために知りたいと思うのを『下手な好奇心』って言うんですか?」
何も次のターゲットを教えてほしいとか、今まで誰を殺したとか、そういう意味で聞いたんじゃないのに。南雲さんの口調がきついとかはなかったけれど、突き放すような言い方をするから、私もついムキになってしまった。だけど南雲さんの眉がハの字に下がったのを見てすぐに後悔する。南雲さんは私が踏み込みすぎないように言ってくれただけだと、理解してはいるのだ。
「ごめん……そういう意味で言ったんじゃないよ。知ろうとしてくれるのは嬉しいんだけど、やっぱり線引きはしておきたいから。例えばだけど、僕の仕事を手伝おうとか絶対に考えないでね」
「はい……私のほうこそごめんなさい」
「そんな顔しないで~」
南雲さんの両手が私の頬を包む。「キスして」と言えば、南雲さんはびっくりしたような顔で固まってしまった。
「だめでしたか?」
「そんなことないよ。直球で言われるのもいいなーって感動してただけ」
「……大げさ」
南雲さんはくすりと笑って私の頭を引き寄せた。目を閉じたら唇が触れる。だけどその瞬間、なぜか涙が出てきた。見られたくなかったから、ぎゅっと抱き着いて南雲さんの唇を舌で割る。離れないよう必死でなぞって、絡めて、吸った。
しかしその結果は散々だ。拭うことのできない涙が簡単に乾くはずもなくて、結局泣いたのはバレてしまったし、呼吸が浅くて妙に艶っぽい声も出してしまった。一つ収穫があったとすれば、いつも余裕たっぷりの南雲さんの表情が崩れていたことだ。切羽詰まったような顔だった。普段は隠れている牙が見えた気がして、身体の奥が熱くなる。
南雲さんは私を抱きかかえてベッドの上まで運んだ。
「僕にとって殺しは日常だから」
「……はい」
後頭部を支えられながら、ゆっくりとベッドに沈んでいく。いつもと違うベッドの柔らかさが私を迎え入れた。
「きみと一緒だと、別の世界にいるみたい」
「そのうち、こっちが日常になるかもしれませんよ?」
「……どうかな」
「そうしてみせます」
「強気なところも好きだよ」
南雲さんは私の首元に頭を擦り付けた。「シャワーは?」と聞かれたが、今さら本当に行かせる気があったのかは怪しい。
「家を出る前に、一応済ませてきたので……」
「気が合うね、僕たち」
一度目の行為よりも激しかったのは、明日が休みだと伝えていたからだろうか。一緒にお風呂に入ることになったのは、私がベッドの上で疲れ果てていたからだ。南雲さんはそんな私を軽々と抱き上げて、浴槽まで連れて行ってくれたというわけだ。
洗ってあげようかという申し出は丁重にお断りしたけど、湯船の中で抱きしめられるだけで私はいっぱいいっぱいだった。「なんで今さら恥ずかしがってるの」と、南雲さんは首を傾げている。
「だってここ、明るいし……」
「どっちにしろ見えてるけど」
「……」
「今日は泊まってく?」
「迷惑でなければ」
「迷惑どころか嬉しいよ~。どうしよっか、飲みなおす? それとも映画でも見る?」
「映画、見たいです」
ベッドに二人で寝転んで、スマートフォンの小さな画面で見る映画は特別な味わいがあった。狭い世界に二人きり。南雲さんの体温が心地よくて、ずっとこうしていたい。ただ、布団の感触せいで眠ってしまいそうでもあった。
映画の中ではダンディなスパイが暗躍している。彼は自らの正義のために戦っていた。基本的に静かに物語は進むが、銃撃戦などの迫力のあるシーンも満載だ。
彼がピンチになるたび私はドキドキする。だけどいつも間一髪のところでどうにかこうにか助かるのだ。運に助けられることもあれば、ちょうどのタイミングで味方の援護が入ることもある。現実ではこうもいかないだろうなあと、私はぼんやり考えていた。そんなの映画だからと言われればそうなのだけれど、私はうっすら彼と南雲さんを重ねて見ていたのだ。
どうしてこの映画を見ることになったのかといえば、単に配信サイトのおすすめとして出てきたからだ。今話題の人気作ということもあって面白い。
エンドロールも終われば、画面には次のおすすめが表示された。さすがに二本連続寝転がったままというのは肩と腰が悲鳴を上げそうで、スマートフォンはテーブルの上に置かれた。
「南雲さんの中にも正義があるんですか?」
「うん?」
「さっきの主人公にはあったみたいだったから。南雲さんの中にもあるのかなって……」
「正義ね~……」
「この質問もだめでしたか?」
「そんなことないよ。まあ、僕は正義を大義名分に掲げる気はないかな~。殺し屋がいなくなったらいなくなったで、犯罪者がその辺うじゃうじゃ溢れかえるだろうけど」
「そうですか……」
「納得できない?」
「いえ、南雲さんがどう思ってるのか知りたかっただけです。でも正義だって信じてたほうが楽だと思うから、南雲さんはきっと強いんだなって」
「難しいこと言うね~」
「難しくはないと思います……」
南雲さんはがばっと私を抱きしめてきた。これはもう寝ようという合図だ。
南雲さんはすごく寝つきがいいほうだと思う。ちょっと疑問なのは、殺し屋なのに他人の前でこんなにスヤスヤ眠っていいのかということだ。勝手なイメージかもしれないけど、近くに人の気配があると眠れないとか……映画や小説の影響を受けすぎだろうか。私の前でリラックスしてくれるのは嬉しいからいいんだけど。
「南雲くん、隙だらけだよ」
頬っぺたをつんと突いても、起きる気配はない。このままいたずらしてどこまで起きないかを試してみたくもなるけど、それは別の機会にしておこう。南雲さんの背中に腕を回して目を閉じると、すぐに眠気が襲ってきた。
アラームが鳴ったとき、私はまだ南雲さんの腕の中にいた。南雲さんがぬるっと起き上がって音を止める。今日はどちらも休みだから、このままゆっくりするのもいいかもしれない。もったいないような気もするが、ある意味一番贅沢な時間の使い方だ。
ダラダラしていたらすぐに昼になった。さすがにお腹が空いたけれど、冷蔵庫の中にはほとんど食べるものが入っていない。
「いつもちゃんと食べてますか?」
「食べてるよ~。お腹空いてたら仕事する気、起きないしね。でもまあ、出先で食べることが多いかな。あとはコンビニとか、開いてたらスーパーにも行くよ~」
「行きつけのお店とかあるんですか?」
私のお店に南雲さんが来るのは大体週に一度だ。外食が多いというなら、他はどこで食べているんだろう。私としてはすごーく気になるところだ。
「もしかして妬いてる?」
「……違います」
「違うの?」
「どういう料理が好きなのか、気になっただけです」
「作ってくれるってこと?」
「……まあ、」
「何だって嬉しいよ」
「誤魔化しました?」
「本心なのに~」
「スーパー行きましょう。近くにありましたよね。何を選ぶかじっくり観察させていただきます」
「え~怖いなあ」
私は財布を片手に南雲さんの腕を引いた。玄関を出たところで「あ」と南雲さんが思い出したように声を上げる。
「行きつけの店は特にないよ。目についたところに適当に入ってるから。いつも同じだと飽きちゃうしね~」
思うことはいっぱいあったけど、何も言えなかった。私の店の味は飽きたりしないの? 行きつけがなくてよかった。私は上手く誤魔化せたつもりだったが、南雲さんは全部わかっていたのだ。私が本当は焼きもちを焼いていたことを。
スーパーのカゴに次々と商品が入れられていく。パン、レトルトの惣菜、冷食のチャーハン、カップ麺とバリエーションは豊かだ。だけど私が一番びっくりしたのは、南雲さんがみかんの缶詰を手に取ったことだった。こんなものも食べるんだ……。おいしいのはおいしいけど、自分で買うことはあまりない。最後に食べたのがいつなのかも思い出せないくらいだ。
「何か食べたいものある?」
「お惣菜コーナー見たいです」
「いいね、僕もなんか買お~」
すでにパンパンになったカゴを片手に南雲さんは進んでいく。その後ろ姿を見ているだけでなぜか幸せを感じた。ずっとこうしていられたらいいのに。
私がついてきていないことに気付いた南雲さんが、振り向いて足を止めてくれている。
「どうしたの?」
「すみません、ぼーっとしてて……」
「しょうがないなあ」
南雲さんに追いついて、ちょうどそのとき目に入った、しらす丼を手に取る。昨日はお酒ばかりだったから、ちゃんとしたご飯が食べたかったのだ。しらすだから罪悪感も少ない。
「もう決めたの?」
「はい、おいしそうだったので」
「……僕もそれにしようかな~」
そう言って南雲さんは私が持っていたところにもう一つ容器を重ねた。落さないよう支えながらレジに行く。
全部まとめてレジに通すと結構な金額だった。だけど南雲さんは顔色一つ変えないで支払いをした。なんとなくそうだろうなとは思っていたけど、南雲さんはすごく稼いでいるのだろう。立地もいいところに住んでいるし、何より私の店だけでもかなりの金額を使ってくれている。少し前に、友達価格……というか恋人価格でいいよと言ったこともあった。だけど初めて会ったときみたいに「そういうとこちゃんとしなきゃだめだよ」と叱られてしまうのだ。それなのに閉店間際に二人きりになると一緒に飲みたがるから、よくわからない。よくわからないけど……まあ楽しい。
それから南雲さんの家に戻って、しらす丼を食べた。それだけじゃ物足りなかったのか、南雲さんはみかんの缶を開けている。シロップでテカテカの果肉を見ていたら、食べてもないのに口の中がジンとした。
「私も食べていいですか?」
「いいよ~。はい、あーん」
みかんが刺さったフォークが差し出される。ちょっと恥ずかしかったけど、素直に口を開けた。南雲さんは満足そうな顔で「おいしい?」と聞いてくる。
「おいしいです。久しぶりに食べました」
「もう一つあげる~」
さらに食べると今度は「かわいい」と言われた。絶対来ると思った。って言うと自意識過剰みたいだから言わないけど。
「南雲さんは食生活とか気をつけなくていいんですか?」
「そういうのは坂本くんがやってる」
「確かにそんな感じはしますけど……まあ、南雲さんがいいならいいんでしょうね」
「そうそう」
「……実は見えないところですごく努力してるとか」
「考えすぎだって。トレーニングはするけど食事はいつもこんな感じだよ」
そうこう言っているうちに南雲さんはみかんを食べ終えてしまったみたいだ。空の弁当箱や缶を片づけて、時計を見る。ちょうど昼の二時になったところだった。
「そろそろ帰りますね。今日はありがとうございました」
「送ってくよ?」
「……じゃあ、駅までお願いします」
駅から私の家までは比較的近い。ただ飲食店としてみると、少し遠いかなという距離だ。
南雲さんと私の最寄り駅が同じだと知れたのが今日一番の収穫だった。遠くから通ってもらうのは大変だろうから、本当によかった。
「ほんとにここまででいいの? あとちょっとなんだし家まで行っちゃおうよ」
「私すっごく甘やかされてません?」
「甘やかしたいから」
南雲さんがにこっと笑って手を握ってくる。これはもう家までお願いしてしまうパターンだ。毎回こうなるなら最初から私の家に来てもらったほうがいいかなあと、私の思考も結構浮かれていた。
店の玄関で手を振る南雲さんを引き留めたくなるのを堪えて私も手を振った。ちゅ、と不意打ちでキスをされて、びっくりして固まっているあいだに南雲さんは行ってしまった。
***
開店直後に現れたのは、珍しいお客様だった。
坂本さんに会うのはこれで二度目だ。一人で来てくれるなんて思っていなかったから、見た瞬間に嬉しくなった。だけどカウンター席に案内したところでふと思う。もしかしたら南雲さんと待ち合わせをしているのかもしれない。
坂本さんにメニューを渡すと、彼はこちらをじっと見てきた。
「南雲とはうまくやってるかい?」
(ええ~っ?)
坂本さん、こんな人だっけ。いや、私は一度しか会ったことがないから詳しいことはわからないけど、前回とのギャップがすごい。なんだかニコニコしてるし別人みたいだ。
そしてなんとか絞り出した私の返答は「おかげさまで」という意味のわからないものだった。
「南雲はいつも彼女がかわいいかわいいって言ってる」
坂本さんは饒舌だった。かわいいの他は「一緒にいると落ち着く」とか「料理が上手」とか、出てくるのは褒め言葉ばかり。嬉しいのは嬉しいけど、職場で言いふらすのはやめてほしい。もしかして私から南雲さんにやめるように言ってほしくて来たのだろうか。
「……それはあの、あとで注意しておきます。スミマセン」
「あはは、注意なんてしなくていいよ~」
それは確かに私の良く知る南雲さんの声で、目の前に座っているのも南雲さんだった。
「え……?」
「びっくりした?」
「……坂本さんは?」
「いないよ~。僕が変装してたの」
「いやいやそんな……」
信じ難いことに、坂本さんはどこにもいなかった。どこかに隠れているのなら早く出てきてほしい。……だけど坂本さんがそんなことするとは思えないし、さっきの妙な言動も南雲さんの変装であるなら説明がつく。でもこれ、南雲さんは坂本さんに怒られたりしないのかな……。
私が瞬きしているあいだに南雲さんはまた坂本さんの姿になった。うん、どこからどう見ても坂本さんにしか見えない。
「どう? 信じてくれた?」
「……わかったので、はやくもとに戻ってください」
深く考えるのはやめよう。考えたってどうにもならない。南雲さんは変装の達人。そういうことなのだ。
南雲さんはいつもの顔に戻ってお酒と煮込みを注文した。
「……なんで変装してたんですか?」
「びっくりするかなと思って」
「そりゃしましたけど……このために開店直後に来たんですか?」
「うん。他のお客さんいたらできないしね。あとさっき言ったのは本心だよ~」
またそういうことを言う。南雲さんの魂胆はわかっているのに、いちいち照れてしまうのはなぜだろう。私はなるべく目を合わせないように、調理中の手元に集中した。
「それはどうも……。普通はもっと探りを入れたりするんじゃないですか?」
「探りって?」
「例えば自分のことをどう思ってるか、とか……?」
「それが知りたいの? 不安?」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど」
「まあ僕も本気で騙して喧嘩したいわけじゃないからね」
だから早めにタネ明かしをしたということなんだろうか。隠しておけば、後々いろんなことに使えたかもしれないのに。手の内を晒してくれるのは嬉しいけど、そんなに簡単に教えちゃっていいのかなあとも思う。まあ、彼が変装できると知っていたところで私に見破れるかというとまた別問題なのだが。
南雲さんはお酒の入ったグラスを持ってカランと氷を鳴らした。そこに南雲さんの腕が歪んで写っているのを見て、私は恐ろしい考えにいたってしまう。
「あの、怖いこと聞いてもいいですか?」
「なに?」
「南雲さんのその顔って……本物?」
「……どっちだと思う?」
しばらくの沈黙のあと、南雲さんは大きな声で笑い出した。いやいや、笑えないんですけど!
「不安だったら好きなだけ確かめていいからね」
やられてばかりで不服だった私は南雲さんの頬をむにっとつまんだ。まさかそんなことを店内でされると思っていなかったらしく、南雲さんはびっくりしていた。だってこんなときに限って他のお客様がいないんだもの。南雲さんはすぐにいつもの調子で「満足した?」と聞いてくるし、結果私が恥ずかしい思いをしただけだった。
「やっぱりかわいい」
南雲さんがお決まりを言ったタイミングで、次のお客様が来店された。
***
歯ブラシ、着替え、それから食器……。南雲さんは私の家に泊まるたびに物を増やしていく。仕返しで私も南雲さんの家にスキンケアセットを置いてみた。本当なら下着の替えなんかを置いておけたら便利なんだけど、まだそこまでするのは恥ずかしい。ちなみに南雲さんのはうちに置いてある。洗濯も普通に私がしている。
二週間ぶりの南雲さんは、手にお土産をたくさん持って二階に上がってきた。仕事で大阪のほうに行っていたそうだ。たこ焼き味のスナック菓子から見たことのない調味料まで、とても一人では消費しきれない量を渡される。
「こんなにたくさん……ありがとうございます」
「一緒に食べようと思って」
「何か開けますか?」
「さっきいっぱい食べちゃったから明日にする~。先に食べてていいよ」
「私もついさっきたくさん食べたので……」
二週間ぶりだからと南雲さんはいつもより多く注文してくれた。「この味が恋しかった」なんて言われたら、私も嬉しくなってついはりきってしまう。そして他のお客様が帰った店内で、二人だけの酒盛りをしたのだ。事前に泊まっていくかどうかは聞いていなかったけど、たぶん私たち二人ともそのつもりだった。
シャワーを浴びた南雲さんは、事前に彼が置いていたパーカーに着替えた。もう自分の家のように慣れたものだ。パーカーは普段のイメージとは違うけど、学生時代に着ていたものらしい。
南雲さんはよく私の枕をクッション代わりに抱きしめる。恥ずかしいと言っても「何が?」と返されて、それ以上何も言えなくなってしまったという流れだ。そのせいで私は枕カバーを洗う頻度を増やす羽目になったし、何なら新しいものを買った。
おいで、とベッドの上から手招きされる。私は南雲さんの膝の間にすっぽりと収まった。
「帰ってくる場所があるっていいよね~」
「……ここなんですか? 南雲さんが帰ってくる場所って」
「だめだった?」
「だめじゃないです……帰ってきてくれたら嬉しい」
南雲さんと出会ってもう二年。付き合い始めてからは一年半。最初は彼が殺し屋ということに戸惑いもあったけれど、こうも一緒にいると慣れてしまった。このことはまだ南雲さんには言ってない。受け入れることができましたと、改めて言うべきなのだろうか。
ただ心の中で慣れるのと口に出すのでは、何かが違う気がする。殺し屋という職業の是非について、私の中で結論は出ていない。必要であるから存在するのかもしれないし、だけど例えば二十年後、なくなっているかもしれないとも思う。卑怯かもしれないけど、私にとっては南雲さんが無事に帰ってきてくれることのほうが重要だった。
これはつまり受け入れられたということだろう。私自身もそう思っていた。だけどそれを覆す事件がこの日、起きたのだ。
南雲さんに坂本さんのことを聞いたのは、本当にただの気まぐれだった。「元気ですか」と聞いて「元気だよ」と返ってくれば、それで終わるはずの会話だったのに……。
「坂本くんなら殺し屋辞めたよ~。もう一年くらいなるかな、引退してから会ってないんだよね」
「え……や、辞めちゃったんですか? どうして?」
もしかして仕事中に大怪我をしてしまったとか。私の頭ではこのくらいしか想像できなかった。しかし、
「結婚したから」
……そんなあくび交じりに言われても。
「結婚したら引退ってわけじゃないんですよね?」
「相手の人が殺しはダメってタイプの人だったみたい」
どうして教えてくれなかったのかと、坂本さんと一度しか会ったことのない私が言うのはおかしな話だ。そしてこの話は、私の中に引っかかったまま残っていた。
それから一週間。何にモヤモヤしているのかわからないまま時間だけが過ぎた。南雲さんにも元気がないと言われる始末だ。だけど本当に理由がわからなくて、それをそのまま伝えたら、南雲さんは「そっか」と寂しそうな顔をして頭を撫でてくれた。撫でられても抱きしめられても依然として心は晴れない。一人でいると南雲さんに会いたくなるのに、いざ南雲さんに会うとどんな顔をしていいのかわからなくなる。こんな態度だったら南雲さんにも悪いと思って、精一杯明るく振舞った。だけど逆に南雲さんには悲しそうな顔をさせてしまった。そうして私はまた焦る。別れたほうがいいのかな、と一瞬頭をよぎったけれど、言い出せなかった。
***
買い物帰り、向かいから歩いてきたふくよかな男性と目が合う。どこかで会ったことがあるような……だけど思い出せない。もしかして店に来てくれたことがあっただろうか。
「南雲とはうまくやってるか」
なんだか似たようなセリフを昔、誰かさんに言われたことがあった。見た目は別人みたいに変わっているけど、面影は残っている。
「もしかして坂本さん?」
「久しぶりだな」
本物の坂本さんってこんな風に話すんだなあと、私は呑気に考えていた。全然似てないじゃない、南雲さん。
私は近くで商店をやっているという坂本さんに興味本位でついていくことにした。ちょうど今は配達帰りだったそうだ。
坂本さんの店は昔ながらの商店の雰囲気だった。店に入ると、小さな女の子を抱いた女性がカウンターからにこりと微笑んでくる。
「いらっしゃいませ……あら、おかえりなさい?」
「配達中に知り合いに会った」
「知り合い? ってことは……」
「殺し屋じゃない」
「そう……ならいいんだけど」
坂本さん、もしかして尻に敷かれてるのかな。昔会ったときは全然そんなタイプに見えなかったけど、けっこうタジタジだ。二人のやり取りを見て思わずくすりと笑い声が漏れてしまう。失礼なことをしてしまったなと思っていたら、女性が子供を坂本さんに預けて私に近づいて来た。
彼女は葵さんというそうだ。娘さんは花ちゃん。初対面でいいのかと思ったけど、私も花ちゃんを抱っこさせてもらった。花ちゃんは私を怖がりもせずにっこりと笑いかけてくれている。
とても幸せそうな家庭だった。羨ましいくらいに。……羨ましい?
そこで私はハッとした。そっか、私は葵さんみたいになりたかったんだ……。
坂本さんは葵さんのために殺し屋を辞めた。私が南雲さんに殺し屋を辞めてほしいと言ったことは今までなかったし、これから先もないと思う。そこがまず、私と葵さんで全然違う。だけどもし、南雲さんのほうから殺し屋を辞めて二人で店をやりたいと言われたら、きっと私は大喜びだ。私は無意識にその言葉を待っていたのかもしれない。だけど南雲さんが私のために無理してその選択をするのは嫌だ。……もう頭の中がぐちゃぐちゃで、どうしたいのか自分でもよくわからない。考えれば考えるほど、ドツボにはまっていく。
「あの、大丈夫ですか? なんだか顔色が……」
「大丈夫です!」
自分でもびっくりするくらい大きな声が出た。他のお客様が店内にいなかったことが幸いだ。
「……すみません、大きな声を出してしまって」
「大丈夫ですよ。もし具合が悪いなら奥で休んでもらっても……」
「いえ、具合が悪いとかではないので……。ああそうだ、開店準備があるので失礼します。お邪魔しました」
葵さんと坂本さんは互いに顔を見合わせている。
「あなた。何かあったらいけないし、送ってあげたら?」
坂本さんはこくりと頷いた。私も一度は断ったけど、葵さんがすごく心配してくれて押し切られてしまった。花ちゃんを見ながら店番するのは大変だろうに、私は何をしているんだろう……。
少し歩いたところで坂本さんから切り出された。
「南雲と喧嘩でもしてるのか?」
「しないですよ。南雲さんは怒らないから喧嘩にもならないです」
「なら言いたいことを我慢してるのか?」
「……違うんです」
坂本さんからしてみたら、私の言うことは支離滅裂だったと思う。このときの私は話を順序立てて整理することもできなくて、浮かんだことをただ口にするだけだった。
「帰る場所だって言ってくれて、嬉しかったんです。もっと前に、私といるときは別の世界にいるみたいだって言われたこともありました」
坂本さんは黙って話を聞いてくれている。もしかしたら「なに言ってんだこいつ」と呆れていたのかもしれない。私は坂本さんの沈黙に甘えて、続きを言った。
「南雲さんの帰る場所になれたなら、それで充分だったはずなんです。でも、でも……お二人を見ていたら羨ましくなって、坂本さんが結婚して殺し屋を引退したって話を聞いたときからずっと何か引っかかってたのが、ああそういうことだったんだなって思ったら、なんか……でも、私が悩んでるから殺し屋辞めるとか、そんなことされたら嫌だし……いや南雲さんはそんなことしないと思うんですけど……。えっと、ごめんなさい。何言ってるのかわからないですよね。変なこと言ってすみません、聞いてくださってありがとうございました」
「勝手に話を終わらせるな」
「あの……本当にスミマセン……」
「ちゃんと二人で話したほうがいい」
「……言えません、こんなこと」
「言って、南雲が殺し屋辞めると思うか?」
「思いません……」
「なら言っても何も変わらない。思ってること伝えてみたらいい」
「え……?」
言って相手に負担を掛けるだけなら、私が黙っていたほうがいいに決まっている。だけど実際、今の私は南雲さんに気を使わせている状態だ。坂本さんの言う通り、話してみたほうがいいのだろうか。南雲さんにまた悲しそうな顔をさせてしまうかもしれない。それにこのまま黙っていれば、私の中にあるわだかまりも時とともに薄れていく気がするのだ。
「もし葵が悩んでいたら、どんな内容でも話してくれたほうが嬉しい」
「あ……」
それは私もそうだ。もし南雲さんが何か不満を抱えていて、黙っていられるよりは話してくれたほうがずっといい。どうしてそんなこともわからなかったんだろう。
「南雲さんと話してみます。ありがとうございました。私はもう大丈夫なので、坂本さんは店に戻ってください」
坂本さんは静かに頷いて、来た道を戻っていった。
しかし話をするにしても南雲さんとは昨日会ったばかりで、今日、店には来ないだろう。二十時から予約も一件入っているし、店を閉めてからしか会いに行くことはできない。
開店までまだ時間はある。私は家に戻って南雲さんに電話を掛けてみた。三コールで南雲さんは出てくれた。
「もしもし~、どうしたの?」
「急にごめんなさい。今日、南雲さんの家に行ってもいいですか? 店が閉まってからになるんですけど……」
「いいけど、僕が店に行くんじゃだめ? 遅いし危ないよ」
「昨日も来てもらったから申し訳なくて」
「あー……やっぱりだめ。話してたら早く会いたくなっちゃった。九時くらいに行くね~」
忙しかったのか、それとも私に反論する隙を与えないためか、南雲さんは言うだけ言って電話を切ってしまった。さすがに行く時間帯が遅すぎたなと反省する。来てくれるのは嬉しいけど、私ばかり我儘を言っている現状に落ち込んだ。
時間通りに来た南雲さんはいつもと同じようにお酒と料理を注文した。南雲さんは基本的に他のお客様がいるときは静かにお酒を飲んでいる。閉店までの二時間がとても長く感じた。
シャッターが閉まってすぐに、私は南雲さんに抱きついた。単純にそうしたかったというのもあるが、真っすぐ目を見て話す自信がなかったからという理由もあった。
「え」と戸惑ったような声が頭上で聞こえる。
「殺し屋、辞めませんか?」
「辞めないよ」
思っていたより重苦しくない雰囲気でよかった。私は抱き着いたままの体勢で顔だけ上げた。南雲さんはいつも喋っているときのような表情で、特に悲しそうな顔はしていない。背中に腕を回されて、ほっとする。
「言ったらちょっとすっきりしました」
「それでいいの?」
「意味わからないこと言ってる自覚はあるんですけど、辞めてほしくないとも思ってるんですよ」
「そっか~。別れ話でもされるのかと思ってた」
「……私は抱き着いて別れ話はしないです」
「僕もぜーんぜん別れる気なんてなかったけどね」
私を抱きしめる腕にぎゅっと力がこもる。これだけで充分なはずなのに、どうして多くを望んでしまうのだろう。
「南雲さんに電話する前、坂本さんに会ったんです」
「坂本くん? 懐かしいな~」
「坂本商店ってお店をやってました。葵さんと娘さんもいてすごく幸せそうでしたよ」
「そうなんだ」
「……いいなーって思っちゃって」
坂本さんたちと全く同じ幸せじゃなくとも、いろんな形の未来があるのはわかっている。ただ突然一つの可能性を見せられて、焦ってしまったのだ。本来他の人と比べるようなことではないはずなのに、置いて行かれたような気持ちになっていた。それで勝手に落ち込んで、南雲さんにも心配を掛けて、一つもいいところがない。
坂本さんの言う通り、話してみてよかった。これができた人間なら相手を思ってじっと耐えるのかもしれないけど、私はそこまで大人にはなれない。私が我儘を言ったらこれでもかというほど甘やかしてくれるのに、芯の部分は曲がらない南雲さんが好きだ。
「私ばっかり言いたいこと言っちゃってすみません。でも、受け入れる決心がつきました。私は南雲さんが好きで……例え殺し屋でも、これからも一緒にいたいです」
「……うん、ありがと」
「でも、こんなこと言われたって困るかもしれないけど、心配です。危険な仕事だと思うから。絶対、絶対無事に帰ってきて。そうじゃなきゃ私、マフィアの拠点にだって探しに行きます」
「それは困るな~」
わかっていたけど南雲さんは「絶対帰ってくる」とは言わなかった。優しい嘘を言われたって嬉しくないから、それでいい。……なのに、涙が止まらない。私の涙は南雲さんのシャツに吸い込まれていった。
「僕って結構強いほうだと思うよ?」
「知らないですそんなこと」
「怒らないで聞いてほしいんだけど」
「……何ですか?」
「かわいい」
絶対言うと思った!
私は南雲さんの腕を思い切り叩いた。だけど彼はいつもの調子で笑うだけだった。
それから私は泣き止むまで南雲さんの胸にしがみついていた。シャツが濡れて気持ち悪いだろうに、南雲さんは文句の一つも言わずじっとしてくれている。
ようやく落ち着いて顔を上げると、目を細めた南雲さんがじっと私のことを見下ろしていた。
「……知り合いとか、仲間の殺し屋が亡くなったりとかあるんですか?」
「あるよ」
懐かしむような、それでいて耐えるような顔だった。私が気軽に触れていい話ではないのだろう。南雲さんは無頓着そうに見えて、実はそうでもない。どうやって乗り越えてきたのか教えてほしかったけど、乗り越えられたと私が決めつけることがまず乱暴な気がした。ずっと背負ったまま歩き続けられるのだろうか。どこかで倒れてしまったりしないのだろうか。倒れそうになったとき、私は支えられるだろうか。
南雲さんの頬に手を添えると、彼は静かに目を閉じた。
「……無神経なこと聞いてごめんなさい」
「できればきみには楽しいことだけ考えててほしいけど、無理だよね」
「……そうですね」
「あれ?」と言って南雲さんが目を開く。
「キスじゃなかった?」
「え……それで目を閉じたんですか?」
「うん」
「……もう一回閉じてください」
真面目に話をしているのに、私たちはいつもこんなだ。触れるだけのキスをすると、南雲さんはにこりと笑う。
「そうだ、一緒に住む?」
「え……ええっ?」
そんな軽い感じで言っちゃうこと? 嬉しさよりも先に驚きと戸惑いが来て、まともな返事ができない。
南雲さんの思考はいったいどうなっているんだ。南雲さんの中では順序立てて言ってくれているのかもしれないけど、私からしてみればメチャクチャだ。話を逸らされたとは思わないけど、なんかもっとこう……しんみりした空気じゃなかったっけ。私がおかしいんだろうか……。
南雲さんはきゅるんとかわいらしい顔で私の返事を待ってくれている。そんな顔されたら私が断れないとわかってやってるんじゃないだろうか。非常に悪質だ。
私たちの関係を進展させようと考えてくれたのなら単純に嬉しいし、一緒に住みたいのは住みたい。……だけど、肯定するにも否定するにもすぐに決められるようなことではなかった。
「……ものすごく嬉しいんですけど、現実的にちょっと難しいんじゃないですか?」
私には店があるから、南雲さんの家に住むことになっても結局はここで寝てしまいそうだ。それじゃ今までと何も変わらない。反対に南雲さんが私の家に住むのはどうなんだろう。部屋がないわけではないけど、仕事のことは私に知られたくないだろうから、この狭い家では何かと不都合がありそうな気が……。
「僕がこっちに来ることになるとは思うんだけど、確かにまあ……僕の家もしばらく残しておくことにはなりそうかな~」
「そうですよね」
「でもずっと今のままってこともないでしょ?」
「えっと、それは……」
将来を考えてくれているということでいいんだろうか。不思議なくらいに話が進んでいるような。ついさっきまで泣いていたのが嘘みたいに、私は浮かれていた。
とりあえずの結論として、お泊りの回数を増やすことになった。それで大丈夫そうだったら一緒に住んでみる。もし何か問題があったとしても、家を残しておけばもとにも戻れるから大丈夫ということだ。私の感覚で言えば「家賃がもったいない」なんだけど、南雲さんの稼ぎなら平気なんだろうなあと納得することにした。
「今度一緒に買い物に行きませんか? こっちでも南雲さんが不便のないように……」
「お揃いの食器とか買っちゃう?」
「……まあそれも、ありかもしれません」
「あとは何がいるかな~。服は持ってくればいいし……あ、でもハンガーラックは買わないと」
「ベッドはどうします?」
「もう一つの部屋にダブルベッド置いていい? そしたら一緒にも寝られるし時間がバラバラになったときも困らないし」
「そうですね。そっちが南雲さんの部屋ってことにしましょう。結構散らかってますけど」
「いいの? 嬉しいなー」
もうとっくに日付が変わっているというのに、私たちはこれからのことで盛り上がった。もしかしたら今が一番幸せなのかもしれないと、考えなかったわけじゃない。だけどここで別れを告げたら後悔するとわかっているから、私は南雲さんと一緒に先に進む。また不安になって泣き言を言ったりするかもしれないけど、そのときは許してね。あとはできるだけ怪我をしないように気をつけて。生き残るためだったら手段を問わないで。何をやったとしても、私は受け入れるから。
「南雲さん」
「うん?」
「好きです。大好き」
「僕もきみのこと、大好きだよ」