人魚は魔女に恋をする

 汗で首にまとわりつく髪をはらって、冷房のスイッチを入れようとしたときのことだった。来客を知らせるブザーが鳴る。ジーナは自身の体に目を向け、しかしすぐに玄関に向かった。薄着だが、まあ大丈夫だろうと思ったのだ。
 ドアを開けると眼鏡を掛けた男性が神妙な面持ちで立っていた。歳は自分と同じぐらいだと思うが、誰だかわからない。宅配の類でもなさそうだ。この気温だというのに彼はきっちり着込んでいて、見ているだけで暑くなる。
「お久しぶりです、ジーナさん」
「……えーと?」
「アズールです。アズール・アーシェングロット」
彼は嫌な顔一つせずにこりと言った。
 アズール・アーシェングロット。ジーナは確かにその響きを知っていた。エレメンタリースクールが一緒だったのだ。けれどジーナの記憶の中の彼とはずいぶん違う。言った方がいいのか言わない方がいいのかわからなくて「ああ」と返事を濁した。彼とはあまり話したことはなかったが、何の用なのだろう。思い当たる節が一つもないわけではなかったが、ジーナはそれに蓋をした。
「えっと……中、入りますか?」
「はい?」
「暑いでしょ。中もまあ、暑いんだけど……」
人魚にこの暑さは辛い。干からびてしまうんじゃないかと思うほどだ。それは彼も感じていたようで、遠慮がちに玄関をくぐってきた。ジーナは空調のスイッチを入れ、冷蔵庫からお茶を取り出した。
「座って」
「どうも」
アズールはぎこちない動きで足を折り曲げた。まだ陸に慣れていないのだろう。視線に気づいたのか、アズールは眉をぴくりと動かした。
「あなたはずいぶん様になっていますね」
「慣れかなあ」
 ジーナは目指す学校があり、一年ほど前から陸で生活していた。初めて足というものを経験したときは、今のアズールと同じく立ち座りすらままならなかった。歩くのも支えがなければ倒れてしまうほどだ。
「アズールくんもこっちで生活するの?」
「ナイトレイブンカレッジに入学することになりましたので、寮生活ですね」
「へ~すごい」
ナイトレイブンカレッジと言えば誰もが知る名門校だ。望んで入学するのではなく、才能が認められた者に馬車の迎えが来る。そんな学校に入学するというのに、アズールの顔色は冴えなかった。
「暑い? バスタブに水張ろうか?」
「は……?」
「海水じゃなくてもけっこう気持ちいいよ」
「僕に、今から水浴びしろと?」
「しろとまでは言ってないけど」
「……遠慮しておきます」
アズールはまたため息をついた。彼はなかなか用件を切り出そうとしない。少し居心地が悪かった。ぎゅ、と胃の奥が悲鳴を上げる。
「あの、」
「なぜ僕がここに来たのか、気になりますか?」
用件を言わないかと思えばこれだ。お腹が痛くなる。ジーナの頭に浮かぶのは、エレメンタリースクールでいじめられていた彼の姿だった。
 グズでのろまなタコ。アズールはそう呼ばれて、みんなから仲間外れにされていた。誰も味方をしなかった。ジーナもだ。アズールに会って懐かしいと思う資格はないのだ。
「……やっぱり、その、仕返しとか」
「……はあ?」
「違うの?」
「僕はあなたに何かされた記憶はありませんよ」
確かに彼の言う通り、ジーナはアズールには何もしなかった。一人ぼっちの彼に声を掛けることもなければ、いじめを止めようともしなかった。しかし今考えてみると、いじめに加担していたようなものだ。
「ですがそうですね、あなたたちの誰かが声を掛けてくれれば違ったかもしれない」
「……うん」
「あなたは見て見ぬふりをしたことに心を痛めている。まるで自分が被害者のようだ」
「ごめん」と言っていいのかもわからなかった。自分のための言葉だったからだ。それに、許さないと言われるのが怖かった。ジーナがうつむいたままでいると、アズールは更に続けた。
「ですが、昔のことです。海の魔女の慈悲の精神によって、許して差し上げます」
ジーナが顔を上げる。アズールは笑っていた。「取引しませんか」有無を言わせない響きだった。

「え、卒業アルバム?」
「ええ。僕も昔のことはあまり思い出したくありませんから。あなたもそうでしょう?」
「……でも、どこにあるかな」
引っ越しのときに自分の部屋の荷物はほぼすべて詰め込んだから、間違いなくこの部屋のどこかにはある。だが、ここに来てから一度も見返していない。探しておくと言いたかったけど、アズールは納得しないだろう。
 ジーナは冷房の温度を二度下げて、机の引き出しを開けた。それから、引っ越しのときに片付けそこなっていた段ボール。しかし中身は着るかどうかもわからないような服だった。
 背中にひしひしと視線を感じ、汗が流れる。一緒に探してほしいなんて言えるわけもなく、ジーナはひたすら部屋をひっくり返した。

「あ、あった!」
 古びた紙の感触と懐かしい潮の香りに思わずページをめくってしまいそうになる。だが、それより先にアズールに報告をと思った。そういえば、さっきから部屋が静かだ。
「アズールくん?」
振り向くと、アズールが机に伏せていた。慌てて駆け寄って肩に触れると、尋常でなく熱い。上着を脱がせて、けれどそれだけでは回復しそうになかった。
「アズールくん、立てる? 水、浴びたほうがいいよ」
「……平気です」
アズールは立ち上がろうとして、ジーナの上に倒れ込んだ。「すみません」と弱々しい声を上げた彼は、ジーナの上から床に転がり落ちた。
 ジーナはアズールを抱き上げようとしたが、持ちあがらなかった。触れた体から熱が伝わってくる。早く冷やさないとまずいというのは、経験から嫌というほどわかるのだ。
「ごめんね」と心の中で謝って魔法でアズールを持ち上げる。最初からそうしなかったのは、自信がなかったからだ。思った通り、アズールはバスタブにほぼ落下した。
「いっ……!」
顔を歪めるアズールを無視してシャワーで冷水をかける。せめて、眼鏡を取ってあげればよかったかもしれない。
 水をしばらく浴びた彼は目に見えて元気になっていた。服までびしょ濡れになったのは申し訳ない気もするが、仕方なかったようにも思う。
「えっと、ごめんね。ほら、人魚はほぼ裸みたいなものだけど、陸で生活してると……その、服を脱ぐのって恥ずかしくて、アズールくんはまだわからないかもしれないけど」
「いちいち言わないでください。わかりますよそのぐらい」
「……そっか」
「世話を掛けましたね」
「そんなこと思ってないよ」
ジーナはバスルームから一度出て、アルバムを手に取った。
「あの、これ」
「……」
アズールはアルバムを手に取ると、ぱらぱらとページをめくった。バスタブにはなみなみと水が溜まっていく。
「私も見ていい?」
ジーナが言うと、アズールはアルバムの角度を変えた。勝手に見ろ、ということなのだろう。
入学式、遠足、運動会。みんな楽しそうにしているのに、アズールだけはいつも隅の方で隠れるように写っていた。
「……もういいですか」
「うん」
アルバムはアズールの手の中で炭となった。燃えカスがバスタブの中にひらりと落ちる。
「何です? その顔は」
「変な顔してた?」
「ええ、とても」
バスタブから水が溢れる。ジーナはシャワーを止めた。
「日が落ちてから帰ったら?」
「いえ、薬が切れてしまいますので」
「薬ならあるよ」
「これ以上借りを作りたくありません」
立ち上がろうとするアズールを押し込めて、自身の手が震えていることに気付いた。ぽたぽたと涙が落ちてくる。
 ジーナは乱暴に顔をこすって、声を絞り出した。
「ごめんね、アズールくん」
なんて独りよがりなんだろう。そう思うのに、とめられなかった。

***

 泣き出した彼女を見て、アズールは言葉を失った。
 べつに彼女のことは恨んでいない。ただ、罪悪感があるなら利用できると思っただけだ。
 写真の回収は彼女の分で最後だった。これまで何度も交渉に失敗した。望みを言えば、相手は図に乗る。望みがある方が交渉では不利なのだ。それを理解していなかったばかりに多額の金を失った。失敗を重ねて、まず相手の弱みを掴むのが有効だと学習した。それで彼女の後悔を利用したのだ。
 だが、泣くとは思っていなかった。今日の今日までいじめられっ子のアズールのことなんて忘れていたくせに、と思わなくもない。ただあまりにも純粋だ。ジェイドやフロイドだってジーナと同じようにいじめには無関心だったくせ、今は何ともないように振る舞っている。本来それでいいのだ。ジェイドに彼女の話をすれば「僕も反省した方がよかったですか?」なんて言いかねない。
「……服、乾かすから後で脱いでおいて」
ぐず、と鼻をすすりながら彼女は言った。力なくバスルームを出て行く彼女に気の利いた言葉の一つでも掛けるべきだったのかもしれないが、とてもそんな気にはなれない。
 アルバム一つでは返せないほどの借りを作ってしまった。彼女に何か望みはあるだろうか。浴槽の中でぼんやり考える。
 タコの足がぎゅうぎゅうに詰まったバスタブからは、ほとんど水がこぼれてしまっていた。ぐっしょりと濡れた服を彼女に渡すのは抵抗があったが、ここまで来てしまえばもう何をしても同じような気もする。「ジーナさん」静かにバスルームに入ってきた彼女の目はまだ赤かった。
「服が乾いたら薬を持ってくるね」
「……すみません」
ジーナは首を横に振った。

***

 コンコン、とノックをしてジーナはバスルームに入った。魔法薬が入った瓶と、折りたたまれた服、そしてタオルを置いて部屋に戻る。しばらく待つと、アズールが現れた。彼は気まずそうに目を逸らした。
 アズールが靴を履くのを見ていると、つい手を貸してしまいたくなる。やっぱりまだ陸での生活に慣れていないようだ。本当は送ってあげたかった。また倒れてしまわないか心配だ。日が落ちて気温も下がったから大丈夫だとは思うが、それでも変な想像をしてしまう。ジーナの視線に気づいたのか、アズールは眉を寄せた。
「何です、その顔は」
「帰り、大丈夫かなと思って」
「僕がどうやってここまで来たと思っているんです?」
「それもそうだね」
「……ありがとうございました」
アズールはそれだけ言って逃げるように行ってしまった。きっともう会うことはないのだろうと思った。ジーナにとっても、アズールにとっても、昔の思い出は毒だ。しかし数日後、またもブザーが鳴ってしまう。ジーナはその日も薄着だったが、まあ大丈夫だろうと自分に言い訳をして玄関を開けた。「アズールくん」言い終わるより先に、彼の言葉が響いた。
「一体何なんです!? あの薬は!」