沖矢昴という男に焚きつけられたのだ。

 椿はポアロの入り口の前で立ち尽くしていた。早く中に入るなり立ち去るなりしないと、通行人に不審人物として認識されてしまう。だが、どうしても一歩が踏み出せない。やがて、じっと見つめていた先――ポアロの扉が開く。中から現れたのは安室で、椿は息が詰まりそうになる。
「こんにちは椿さん」
「こ、こんにちは……」
乾ききった口内から出た言葉は小さく、けれど安室にはしっかりと聞こえていたようだ。
「ちょうどお客さんも空いてきましたので、良ければ中へどうぞ」
「はい……」

 安室の言う通り店内はがらんとしていて、安室以外の従業員の姿も見られない。カウンター席に座った椿はコーヒーを注文すると、それがコポコポと淹れられるのをじっと見ていた。さして興味があったわけでもないが、そこぐらいしか目のやり場を思いつかなかったのだ。
 そう言えば、と安室が椿を見る。
「頂いたお菓子、美味しかったです」
「えと、お口に合って良かったです」
「新しいハンカチも、何だか気を使わせてしまってすみません」
「いえ、そんな……」
自分でも驚くほど言葉が出てこなかった。今日は隣にコナンも居なければ、お礼のお菓子を渡すという口実もない。何をしにここまで来たのかと、虚しさに襲われる。帰りたくなってコーヒーを飲み干そうとしたが、思いのほか熱い。この前はあんなに香り高く美味しかったコーヒーが、ただの熱湯にしか感じられなかった。
 カランとベルが鳴ったかと思えば、二人組が退店するのが見える。窓の外でぴったり寄り添って歩く二人はきっと恋人なのだろう。
「椿さん、大丈夫ですか?」
呆けていた椿を安室が覗き込む。椿は驚き身を引いた。気付けば、店内には椿と安室しかいない。
「すみません。さっきのお客さんが幸せそうだったので、なんとなく見入ってしまって……」
ああ、と安室は頷く。安室はどこか遠い目で店の外を見た。
「確かに……。女性は憧れるかもしれませんね」
「そうですね。人前でくっつくのは恥ずかしいですけど……」
これはチャンスだろうか。この流れで安室に恋人がいるかどうか聞くことは、きっと不自然ではない。さあ何と切り出そうかと考えあぐねる間に、安室は「でも」と言葉を続ける。
「僕は今、そういうのは考えられないですね。仕事が第一ですから」
そう言ってにこりと微笑む安室。まるで頭の中を見透かされているようだ。踏み込んでくるなと釘を刺されたような気さえした。
 椿は相槌を打つので精一杯だった。すっかりぬるくなったコーヒーを腹の中に流し込み、店を出る。

 ポアロが見えなくなった辺りで盛大なため息が零れた。やる気になっていた自分が恥ずかしい。安室のことは忘れて買い物でもしようか。自宅と反対方向に歩き出す椿を更なる悲劇が襲う。
 ぷらんと虚しく垂れるお気に入りのヒール。とてもこれでは歩けない。大人しくタクシーで帰ろうと、スマートフォンを取り出す。そんな椿に声を掛けるものがいた。
「お姉さん、大丈夫?」
高校生ぐらいだろうか。少年はぽっきり折れたヒールを差し出すように言う。
「この靴、修理に出したりする?」
「え……ううん。全体的に傷んでるから、買い替えようかなって思ってるけど……」
「じゃ、貸して」
戸惑う椿をお構いなしに、少年はポケットから取り出したチューブ状のものを踵の折れた部分に塗った。
「はい、種も仕掛けもございません」
彼はくっつけたヒールをこつこつと指で弾き、椿に渡した。そっと足を入れ体重を掛けてみても、壊れる気配はない。
 得意気ににやりと笑う少年につられて椿も笑顔になる。
「ありがとう。でも、瞬間接着剤なんてどうして持ち歩いているの?」
「まー、それは企業秘密ってことで」
少年は流れるような動作で手を差し出す。ポンと音がしたかと思えば、彼の手の中には真っ赤なバラが一輪。椿は遠慮がちにそれを受け取り、つるりとした花弁を撫でる。
「今度こそ種も仕掛けもございませんってとこかな」
少年はマジシャンを目指しているのだそうだ。少年は次々とマジックを披露し、椿は悲しさも忘れて魅了される。
 一通り終わったのか、少年は丁寧なお辞儀をした。少年の大きな瞳が、拍手する椿の姿を映す。笑顔になって良かった、という言葉に椿は慌ててぺたりと頬を触った。

「……そんなに酷い顔してた?」
「今にも泣きそうですって顔してたぜ」
「何かあった?」と遠慮なく聞かれても、不思議と悪い気はしなかった。こんな見ず知らずの少年にどうしようもない恋の話をするなんて馬鹿げている。それなのに椿は彼への話しやすさを言い訳に、先ほどのポアロでの出来事を口にしていた。うんうんと相槌を打ちながら彼は話を聞く。話が最後まで終わると、彼は「なんだ」と目を丸くした。
「振られたわけじゃないじゃん」
「そ、そうかもしれないけど……」
「その喫茶店ってさ、ポアロってところなんだよな?」
「う、うん。知ってるの?」
「あー……いや、何でもない」
少年は誤魔化すように頭を掻き、椿に一枚の紙を渡した。近くの美術館のチケットだ。この美術館の名前には聞き覚えがある。怪盗キッドが予告状を出したということでニュースで取り上げられていたのだ。
「キッドを見に行こうと思ってたんだけど、用事が入っちまってさ。よかったら貰ってくれよ」
「え、でも……」
「どうせ俺が持ってても紙切れになるだけだし、気晴らしだと思って行って来いよ」
じゃあお金を、と財布を取り出そうとした椿に少年は首を振る。納得しない椿に少年は一つの提案をした。

「本当にこれだけでいいの?」
「前から気になってたんだけど、一人じゃ買いづらくて」
少年はチョコアイスを手に嬉しそうにしている。その姿は微笑ましい。
 ヒールを修理してもらったことや貰ったチケットのことを考えると安いものだが、彼が喜んでいるからいいのだろう。
「ありがとな、椿さん」
「え……名前……?」
名乗ってないはずの名前を呼ばれてどきりとする。面識があっただろうかと考える椿に、少年は財布の中の免許証が見えたのだと説明した。そして少年は、黒羽快斗と名乗る。
「なんか、快斗君も探偵みたい……」
げほ、と快斗が咳き込む姿がコナンに重なる。あんなやつらと一緒にしないでほしいと呟くのは、過去に何かあったからだろうか。興味本位で尋ねてみても、彼は何でもないとだけ言う。
「じゃ、またな! 俺は椿さんのこと応援してるぜ」
「う、うん? ありがとう」
“また?”という疑問をぶつける前に、快斗は片手を上げて人ごみの中に消えて行った。一人残された椿は、彼に貰った造花のバラをじっと見つめる。