透明人間01

 想定外の事態になった。例の組織の情報が何者かによって公安に漏らされている。安室がそのことに気付いたのは、彼が公安からの潜入捜査官であるからだ。しかもその提供された情報のほとんどが、安室が持ち帰った情報と大差なかったのである。念のため確認したが、現時点で新たな捜査官が組織に送り込まれているという話もない。誰が、何のために。情報の内容からして、組織の内部にいる人間である確率が高い。放っておくのが得策かもしれないが、その人物がヘマをしたら安室が動きにくくなることだって考えられる。しかしノックを炙り出すための罠である線も否定できず、安室の頭痛は大きくなるばかりだった。
 謎の人物の正体が掴めないまま、次の情報が公安に送られた。今回は安室の把握していない内容だったが、恐らく同一犯だろう。その中に何か手がかりはあるはずだ。調べていると、ある人物が浮上した。
 その男は組織の中でも問題児と称されていた。上の命令に反抗的で、ジンに拳銃を向けられたことも少なくない。安室は噂で何度かその話を聞いていた。それでも彼が殺されずにいるのは、彼の両親が組織に大きく貢献していたという理由があるらしい。もっともその両親とやらも既に他界しているそうなのだが。
 そしてまた次の情報が送られる。これで彼の容疑は決定的になった。回を追うごとにずさんになっていく手口は、彼の性格なのだろうか。それとも誰かに気付いて欲しかったのだろうか。考えているだけでは分からない。安室は彼と接触することを決めた。

 陽のあたらない埃っぽい部屋。乱雑に書類が重ねられ、足の踏み場もないような一室に彼はいつも居る。ノックして返事を待たずに扉を開けると、彼は気だるげに振り向いた。
「誰?」
「初めまして。僕はバーボン、と呼ばれています」
「……探り屋?」
「ご存じのようで何よりです」
「ふーん……」
そう言って彼はパソコンのディスプレイに視線を戻し、カタカタとキーボードを叩き始めた。察しが悪いのか、シラを切っているのか、それとも安室のことを探っているのか。
「薫さん、でしたよね」
「うん。それで何? 何か調べに来たんじゃないの? 散らかってるけど勝手に見ていいよ」
警戒心がまるで感じられない。目の前で背中を丸くしてパソコンを触る彼は、反抗的な行動が多いという噂とは正反対だった。安室が薫の背後に回り、ディスプレイを覗き込んでも彼はちっとも嫌な素振りを見せなかった。
「組織にネズミが潜り込んでるという話は聞いたことありますか?」
「今はじめて聞いた。でも、これだけ人がいたら居そうだね」
薫は相変わらずパソコンと睨めっこをしている。自分には関係ないとでも言いたいのだろうか。
「あまり興味が無さそうですね」
「興味はあるよ。その人が組織を潰してくれるなら、僕は願ったり叶ったりだから」
「……何を。もし本気なら、よく僕の前で口に出せましたね」
薫が心からそう思っているのだとしたら、安室が身分を明かすことで更なる情報が引き出せるかもしれない。しかしそれは悪手だろう。安室は長い月日をかけてこの地位まで上り詰めたのだ。こんな男の力を借りなくとも任務は遂行できる。そのために不確定な要素は取り除いておきたい。だがこの掴みどころのない男、どう扱っていいものかと安室は頭を捻らせる。
「僕がそう思ってるのはジンも知ってるよ。多分だけどその上の人たちも」
「ああ、何度か銃を向けられたと聞きました。それでどうして無事でいられるのか、教えていただけませんか?」
「詳しくは知らない」
は、と無意識に声が出ていた。そのあと加えて「なんか僕が死んだら組織が大変なことになるように僕の親が仕込んでたみたい」と言っていたが、肝心の“大変なこと”というのが分からないそうだ。本当に知らないのだろう。誤魔化しているようには見えなかった。
 薫は自分のことでもどこか他人のように話す。
「なら、ネズミはあなたを殺せば一定の成果を得られるかもしれませんね」
「あー、そっかー……」
薫の座る椅子がぎしりと音を立てる。殺されちゃうのかな、と言う声にやはり緊張感はない。
「冗談ですよ。そんなことをしたらすぐに足がついてしまう。あなたが大人しくしている限り大丈夫でしょう」
「もしかして心配してくれてる? なんて」
「気味の悪いことを言わないでください」
すっかり毒気が抜けてしまった。安室は大袈裟にため息をついて薫から遠ざかる。彼がようやく振り向いたかと思えば「何か調べに来たんじゃなかったの?」とのんきに首を傾げた。
「こんなに散らかっていては調べるも何もありません」
「……あ、出て行くならついでにこれ捨てといてくれない?」
薫はぐしゃぐしゃの茶封筒を安室に押し付けて悪びれもせず言った。
「まあ、いいですけど。……次、僕が来るまでに部屋は片付けておいてください」
抗議の声が聞こえてきたが、安室は無視して扉を閉める。やはり関わるべきではなかったかもしれないと、後悔の念を抱いて。

 薫に渡された茶封筒に付着していた指紋、公安に送られてきた三通目の情報に付着していた指紋。これが見事に一致した。それだけで呆れたものだが、更にその公安に送られた二通目の情報と全く同じ内容が保存されたUSBが茶封筒に入っていたのだ。しかしそれは安室が知るはずのないことで、どう問いただせばいいのか。
 もし薫の言うことをそのまま信じるなら、誰かに組織を潰してほしいから情報を漏らしているのだと考えられる。そのせいで安室が手を煩わせているというのは何とも皮肉な話だ。これまでのあまりに雑な手口から、単におちょくられているだけの気がしなくもないが。

 日陰の部屋の戸を開けて、彼の机にあの茶封筒を置く。薫は目を丸くして「あれ?」と首を傾げた。
「中を確認させてもらいました。あなたの両親が研究していた内容が保存されていたようでしたが」
薫の両親はともに科学者だった。あるチームを任されていたらしいが、現在は二人の死によってその研究は凍結されている。外部に漏らすには、あまり価値のない情報だ。これをわざわざ持ち出す人間は、薫ぐらいしかいないだろうと安室は踏んだ。そして三通目。付着していた指紋はデータベース上にないものだったが、その内容は彼が任されている仕事の内容そのものだった。もっとも、その指紋すらあっけなく安室に渡してしまうのだから、言い逃れをする気もないのかもしれない。
「間違いないよ。でも、もういらないから」
「馬鹿なことを言わないでください。僕がこれを処分しているところを見られたら、変に疑われてしまうでしょう」
「あー……ごめん。自分で捨てるよ」
「……それよりも」
安室はわざとらしく部屋を見渡した。机も床も、書類の山。薫は乾いた笑いを浮かべる。
「片付けは苦手」
「それこそ捨ててしまえばいいでしょう」
「簡単に言うけどさー、捨てるのも結構大変なんだよ。勝手に処分するとうるさい人もいるし」
「僕にごみ捨てを頼んだ人間の言葉とは思えませんね」
安室は積み上げられた書類を手に取った。埃かぶっていて、長らくそのままにしてあるだろうことが分かる。内容は研究材料の取引の記録だろうか。見慣れない横文字と数量、そして金額が記載されている。他の書類を一つ一つ確認する安室を見る薫の手は、いつの間にかパソコンのキーボードから離れていた。
「バーボンさんってさ」
「……はい?」
返事をしたわけではない。まさかコードネームに“さん”を付けられると思っていなくて驚いたのだ。薫は気にした様子もなく続ける。
「けっこう用心深いよね。あのUSB開いたの、インターネットカフェでしょ」
「そりゃあ……自分のパソコンに変なウイルスが入り込んだら嫌ですから」
得体の知れないUSBを警察庁のパソコンに差し込むほど愚かではない。しかも今回は公安に送られたものでもないため、同じように中身を確認することは出来なかった。新しいパソコンを使い捨てることも考えたが、相手にそれを勘付かれたら返って怪しまれると思ってのインターネットカフェだ。薫に気付かれたところで、問題はない。一番重要なのは、あのUSBに何か仕込まれていたという事実だ。危うく騙されるところだったが、薫は警戒すべき人間である。
「あーあ、バーボンさんが“ネズミ”だと思ったのになー」
がっくりと肩を落とす薫を、安室の冷ややかな目が見つめている。