透明人間02
「ネズミ、ですか……」
努めて冷静に安室は言った。少し侮りすぎていたのかもしれない。目の前の男、薫が安室をネズミと判断するに至った理由は一体……。
「うん。でも分からなかった」
薫は椅子の背もたれに体重を掛けて頭の後ろで手を組んだ。ギギギ、と椅子が悲鳴を上げている。
拍子抜けだった。何か問い詰められるのだとばかり思っていたが、薫にそんな気はないらしい。どこか諦めを感じる薫の様子に疑問は募る。
「何故そう思ったんです?」
「うーん。なんかバーボンさんはあいつらと違うっていうか……わっ」
鈍い音が部屋に響く。薫の体重に耐え切れず、椅子がひっくり返ったのだ。書類が宙に舞うのと同時に、埃が立ち込める。安室は腕で鼻を覆った。
「……大丈夫ですか」
倒れた椅子を起こして薫に声を掛ける。薫は腰をさすりながら立ち上がった。倒れたのも咳き込んでいるのも自業自得だ。
「これを機に片付けることですね」
安室は散乱した書類を掻き集めて隅に山を作った。何やら視線を感じて薫を見ると、彼は「やっぱり」と呟く。
「バーボンさんはいい人だよね。だから“ネズミ”であって欲しかったのかな」
「誤解ですよ。そうでなきゃ、バーボンにはなれない」
「……そっか、そうだよね。でも、それならもう僕には近づかないほうがいいよ。僕は目を付けられてるから」
薫は再び座ってパソコンのほうを向いてしまった。けれど、いっこうにその画面に変化はない。
「そうします。ですが、最後に一つだけ教えて下さい。どうして組織に潰れてほしいんですか?」
「……嫌いだからだよ、ここ」
その声はどこか寂しさを含んでいた。安室が部屋の戸を閉めるまで、薫は背を向けたままだった。
それ以降、薫が公安に情報を送ることはなくなった。――厳密に言うと、出来なくなったというのが正しい。薫の裏切りは安室が手を掛けるまでもなく、すぐに組織に発覚し、監禁に近い状態となったのだ。安室が公安であると見当を付けられていたのか、今となっては確認しようもない。薫に会うことが出来るのは、ジンを始めとした一部の人間だけ。安室に面会の許可は出なかった。恐らく殺されてはいないのだろうが、逆に言えば死にさえしなければいいという扱いを受けているとも考えられる。気がかりではあるが、安室は助ける手段を持たなかった。いや、持っていたとして助けることは選ばなかった。組織を潰して結果的に薫を開放することは出来るかもしれないが、薫を助け出すことが安室の目的ではないのだ。
主のいなくなった部屋は、相変わらず書類が散らばっていて埃っぽい。彼のパソコンだけは机からなくなっていたが、それ以外はあのときのままだ。
「……全く、片付けろと言ったのに」
安室の言葉は誰に届くこともなく消えた。ドアを閉める音がやけに大きく聞こえる。上からの指令がない限り、もうこの部屋を訪れることはないだろう。
「コナン君は助けられない人がいると分かったら、どうする?」
ある昼下がり、ポアロのカウンター席でオレンジジュースを飲む小学生に安室は問いかけた。首から下げたエプロンも、この喫茶店に流れる平和な時間も、未だ慣れない。それでも安室は完璧にこなしていた。常連客の名前を呼び、猫に餌をやって落ち葉を掃く。他人の人生でしか味わえない出来事だと思っていた。
「急にどうしたの? 安室さん」
「ただの例え話。もしも、だよ」
コナンは俯いて、グラスをカウンターの上に置いた。しばらくして彼は口を開く。
「そもそも、本当に助けられないの? その人」
「……そうだね。難しいかな」
「……安室さんが無理なら、他の人に助けてもらったら?」
協力できることがあったら言って、と言う少年は安室にとって眩しすぎた。こんな子供相手に弱音を吐くなんて、助けられるなんて、以前の自分では考えられなかった。不思議な少年だ。全てを打ち明けることはできないが、コナンの力を借りたら本当に実現出来そうだと思うほどに彼への信頼は強くなっていた。
「ありがとう。でも、ただの例え話だよ」
いつか来たる日、来たる場所にはコナンの姿もあるかもしれない。強引に巻き込むかもしれない。「誤魔化したでしょ」と訴えてくる目線を軽く流して安室はテーブル席に料理を届ける。