透明人間03

 ――まさかここまで上手く行くとは思っていなかった。安室が長きに渡り潜入を続けた組織の終わりに、まだ実感が湧かない。あの恐ろしい小学生に感謝と敬意を抱きつつ、安室は走った。ある程度の見当はついていた、薫の監禁場所。扉の施錠を銃で壊し、ドアを蹴破る。手錠で壁に繋がれた男は、かつての姿よりもずいぶん痩せていた。
「あれ? バーボンさんだ」
間の抜けた声は変わらない。手錠の鍵の場所を聞いても知らないと言うので、鎖の部分に銃弾を放つ。
「……あなたのためではありませんが、潰してやりましたよ」
「やっぱりいい人だったんだ」
その単語はあまり聞きたくなかった。薫に“いい人”と称されるほどの人間ではない。薫を見捨てようとしたのだから。
「……僕の情報、役に立った?」
「ええもちろん。あなたのおかげでここまで来れました」
「……バーボンさんって嘘が得意なのか下手なのか分からないね」
「あなたに言われたくありません」
それもそうかと薫は眉を下げる。
 立てるか、という問いに薫は頷く。見たところ、外傷はない。
「何もされなかったんですか?」
「んー、最初だけ。何でもかんでもべらべら正直に話してたらジンも呆れちゃったみたいでさ」
「あなたにしては賢い判断ですね」
薫が照れたように笑うので、褒めてないと釘を刺しておく。
 千切れた手錠の片割れが薫の右手でぷらぷら泳いでいる。出口に向かう足取りは軽くない。衰弱しているのだろう。精神的にも大きな負担があったはずだ。けれど薫はそれを口にしなかった。安室を責めることもなかった。外傷がないとはいっても、彼の口ぶりから“最初は”何かされたのだろう。痣や傷ができることがあっても、それが消えてしまうほどの期間が空いたのだ。恨み言をぶつけられないのが苦しいなんて、おかしな話である。
 思い返せば、忠告だったのかもしれない。近づかないほうがいいと言った薫の真意。安室の考えすぎかもしれないが、掴みどころのないこの男ならやりかねないと、そう思う。

 ようやく陽の下に出た。薫は眩しいとばかりに目元を手で覆う。
「何か食べますか」
「え、いいよ。なんか全然そんな気分じゃないし」
「じゃあせめて水を」
建物の外で待機していた部下からペットボトルを受け取り薫に差し出す。彼は躊躇いながらもそれを受け取り、口を付けた。しかし、一口飲んだところで彼はペットボトルに蓋をしてしまう。
「やっぱりバーボンさん、いい人だね」
「それ、やめてください。あまりいい気分じゃない」
「そっか、ごめん」
薫は深く追及することもせず謝る。そのとき、薫の瞳が揺れたのを安室は見逃さなかった。
 ぐらりと倒れる薄い体を支える。驚くほどに軽い。薫は何度か瞬きをして、状況を理解したようだった。すぐに自力で立とうとする彼を、安室は木の影に誘導して座らせる。
 安室は薫からペットボトルを奪い、蓋を開けて彼に持たせた。薫は不服そうだったが、やがてちびちびと水を体内に入れ始める。
 慌ただしく動く警察官。そこから切り離されたところに二人は存在した。
「バーボンさん、行かなくていいの?」
「あなたが落ち着いたら行きます」
「……もう名前よんでくれないの?」
「別に、そういうつもりでは……」
ふと、薫が勢いよく立ち上がる。そんなことをしたらまた倒れかねない。眉を寄せる安室を無視して薫はこの場から離れようとした。
「もう大丈夫。助けてくれてありがとう」
じゃあ、と今にも背を向けそうな薫の左手を安室は掴んだ。
――カシャン。
「え、何これ」
薫は右手につけられたもの――すなわち手錠と同じものが左手にもぶらさがっているのを見て、顔をしかめた。
「まさか、このまま帰すとでも? あなたはあの組織のメンバー。少なからず罪はあるはずです」
「え、いや、でも……」
「潔白の主張なら車の中で聞きますよ」
薫はじたばたと暴れた。だが、そんな力もほとんど残っていないようですぐに大人しくなる。
 パトカーでなく、安室の愛車の助手席に座らせられた薫はむっとした顔を隠そうともしない。
「……優しいと思ったらこれだ」
「あなたの身体を優先しただけです」
自由の利かない薫の両手の代わりに安室がシートベルトを装着させる。カチ、という音を確認すると自らも運転席に乗り込んだ。
 安室が車を走らせている道が病院へと続いていることに、薫はきっと気付いていない。誰かが連れていかなければ彼はそのまま過ごすだろう。そのぐらい自分に無頓着な男なのだ。
「薫さん、これからも僕は日本の脅威と戦い続けます」
「……うん」
「僕の手足となる気はありませんか」
「それはやだなあ……」
薫は正義感で組織を潰したかったわけではないと言った。それは安室も覚えていた。薫が寂しそうに組織が嫌いだと言っていた姿は脳裏に焼き付いている。しかしこの状況ではっきりと「他の犯罪者とか全然興味ないし」と言える薫は変わらずよく分からない。恐らく安室と一生分かり合えないタイプの人間なのだろう。
「あ、組織のことは嫌いだったけど、バーボンさんのことは好きだったよ」
「……さっきまでふくれっ面だったくせに、よく言えますね」
こうして話している間にも、車は徐々に目的地に近づいている。大きな犯罪集団が壊滅した日とは思えないほど、いつもと変わり映えのない景色だ。国民は脅威に怯えることなく過ごし、明日を迎える。――それでいい。
「あなたには罪を償って、普通の生活をしてほしい」
「急にどうしたの?」
「僕が守るべきものの中に、あなたもいてほしいんだ」
「けっこう恥ずかしいこと平気で言う……」
「……ったく、人が真面目に話してるってのに」
安室は乱暴な口調とは裏腹にゆっくりと車を停止させた。目的地に着いたのだ。
「え、ここ病院じゃん」
あからさまに表情を歪める薫。行かなくてもいいと主張する彼を安室は車から引きずり出した。施設に入るまで手錠が恥ずかしいだとかいろいろ文句を言われたが、実際の抵抗はほとんどないに等しかった。
 彼は検査のため入院しなければならないそうだ。寝そべる薫の手首から、そっと手錠を外す。薫は目を丸くして安室を見つめた。
「……僕が逃げ出したらバーボンさん、懲罰ものだね」
「そうですね」
「……これじゃ逃げられないね」
「でしょうね」
掴みどころない男。その行動はいつも予想できず、安室は手を焼くばかりだった。しかし、一つだけ。薫がここから逃げ出さず、大人しく服役するだろうということだけは自信を持って言えた。
 車に戻った安室は、人のいない助手席を眺めて大きく息を吐きだした。結局、名前も聞かれなかった。聞かれたら答えるつもりでいたのだが、薫はそれをしなかったのだ。彼なりの配慮なのか、それとも考えもしなかったのか。どちらもありえそうだと安室は口の端をつり上げる。
「バーボンさん……か」
コードネームは好きではなかった。けれど、彼だけが呼ぶ妙な響きは不思議と嫌いにはなれなかった。