透明の壁を壊して13

 ゲンくんと付き合うことになりました。千空くんに報告すれば、ものすごくどうでもよさそうな顔で「やっとかよ」と言われてしまった。
 千空くんはゲンくんからも話を聞いていたらしい。どんな内容かちょっと気になるけど、私に教えてくれるつもりはないみたいだ。私としても、どうしても聞きたいというわけではなかった。そんなに悪い話をされているわけがないと、我ながらに浮かれている。

 ゲンくんはスキンシップが多い。さすがに人前でベタベタしたりはしないけど、家の中ではかなりの頻度でくっついてくる。慣れていない私はゲンくんに触れられるたびにドキドキしてしまって、今もまさにそうだ。隣にぴたりとくっつく感触のせいで体温が上がるのを感じていた。
「なんかさ、最近よく千空ちゃんに呼ばれてるよね。今日はどんな作業したの?」
「今日はフランソワさんの手伝いと、午後からは杠と一緒に機織り機でおっきい布作ってた。明日は羽京さんとレーダーがどうのこうのって」
「なーんか色々させられてるね~」
「うん。みんなみたいに専門特技ないから、何が向いてるか試してくれてるのかな?」
「どうだろね。千空ちゃんのことだし、何か考えがありそうな気もするけど」
「うん……」
ゲンくんが私の耳元で喋るから、すごくくすぐったい。恥ずかしいと何度か言ったことはあるけど、あまり効果はなかった。
「名前ちゃん、いい匂いする~」
「……たぶん、ゲンくんが作ってくれたやつの匂いだと思う」
いい匂いなんてものは、この世界に少ない。心当たりがあるとすれば、石鹸とゲンくんが作ってくれたリンスの香りだ。むしろそれしかなくて、たまに匂ってるんじゃないかと不安になることがある。
「あれまだ残ってるの?」
「ううん。なくなっちゃったから千空くんに作り方を教えてもらって」
ゲンくんは眉をハの字に曲げた。なんで俺に聞いてくれないの、と言われて悪い気はしない。
 私がゲンくんを頼らなかったのは恥ずかしかったからだ。もう一つ作ってとおねだりしているみたいだと思ったら、言えなくなってしまった。こんなことを考えているというだけでもかなり恥ずかしい。そういう意味での千空くんは安定だ。作り方を教えてほしいと言えば、文字通り作り方を教えてくれる。
「……身支度は自分でやりたいし、ゲンくんに聞くのは恥ずかしかったし」
「うん。わからなくはないんだけどね~……俺の仕込みもそうだし」
ゲンくんの頭がぐりぐりと私の肩に押し付けられる。なんとなくそのてっぺんを撫でてしまって、ゲンくんが勢いよく顔を上げた。
「ごめん、頭触られるの嫌だった?」
「全然」
「……そう」
言葉もなくじっと見つめられる。正解じゃないような気もしたけど、もう一度ゲンくんの頭を撫でた。私の手にゲンくんの手が重なる。上から指を絡められて心臓が跳ねた。けど、ゲンくんはそんな私を待たなかった。手はゲンくんの頬まで誘導された。ヒビのところが少し窪んでいる。ゲンくんが私の手のひらに頬を擦り付けてきて、これじゃどっちが撫でているのかわからない。
 寂しいのかな、と思った。船の完成はもう目前まで迫っている。誰が船に乗るのかは旅立ちの当日に知らされることになっている。けど、ゲンくんは船に乗って私はここに残るんだろうという予感はあった。たぶんゲンくんも同じように感じているんじゃないだろうか。船に乗るのは拒否することもできるみたいだけど、ゲンくんはきっと断らない。何だかんだ理由をつけて行ってしまうだろう。
「ゲンくんの写真、撮ってもいい?」
「いいけど俺だけ? 一緒に写ろうよ」
「うーん……」
ゲンくんが行ってしまったら、きっと毎日写真を見ることになる。だから自分が写っていないほうがいいのだ。でも、別れが近づいているということを口にしたくなくて、ゲンくん単体の写真が欲しいのだと言えない。
「はいチーズ」
「えっ」
いつの間にかカメラを構えていたゲンくんは私にぴたっとくっついて、断る間もなくシャッターを切ってしまった。
 写真はとっくに撮り終えたというのに、ゲンくんは私によりかかったままだ。ゲンくんはカメラをじっと見ている。
「この写真さ、俺が持っててもいい?」
「……私も欲しい。ゲンくんのとこだけ切り取っていい?」
「そこはもう一枚撮ろうよ~」
「うん……」
今度は私がシャッターを切った。現像までは少し手間がかかるから、どんな風に写っているかはまだわからない。
「……ゲンくんは船、乗る?」
ゲンくんの体がぴくりと動いた。私は気付かないふりをする。
「俺は体力モヤシだしいらないでしょ。……いや、ま~~……ぶっちゃけ指名されるんじゃないかなって思ってる」
「何それ」
「……自分でも言ってて恥ずかしくなるからやめて~。すっごい自信満々って感じじゃん俺」
「そうじゃなくて、嘘がね……。あの、私が嫌って言ったから嘘つかないようにしてくれてるの、わかるよ」
「あ~……」
ゲンくんは両手で顔を覆った。かわいいって言ったら怒られてしまうだろうか。何度も言われたことはあるけど、最近は逆なんじゃないかなって思うほどだ。今は話がズレてしまいそうだから、言わないでおくけれど。
「ごめんね、もうあれ忘れていいよ。実はその……最近あんまり悲しくならなくなったっていうか」
「ほんとに? なんで? 無理してない?」
ずい、とゲンくんが身を乗り出してくる。ぶつかるんじゃないかと思って身を引いたら倒れてしまいそうになって、ゲンくんが背中を支えてくれた。
「ほんと。……えっと、なんでかってなるよね」
「うん」
「それは……ちょっと、とても私からは言えない」
「ふーん。じゃあ当てちゃお」
「えっ」
いや、さすがに無理でしょ。考えいてることはわからないけど、三択なら当てられるかもって言ったのはゲンくんだ。しかし、そう思ったのは最初だけ。もしかしたらあのとき、私はすでに罠にかかっていたのかもしれない。相手に見くびらせるのはゲンくんの得意技だ。もとから私の好意には気付いていたようだし、つまり……。私は逃げようとしたけれど、背中にはゲンくんの腕があってどうすることもできなかった。
「嘘つかれて悲しいって、もとはリリアンちゃん騒動のときからだよね。あのときは不安だったんじゃない?」
「……答えないのはアリ?」
「アリだけど、表情は見えてるよ」
「……じゃあ正解。不安だった」
「つまり、今は不安がなくなった。もしくは薄れたってこと」
ゲンくんは背中に回した手を私ごと引き寄せた。胸までぴったりくっついているし、もう少しで鼻の先も触れてしまいそうだった。
 ゲンくんの目が半分ぐらい伏せられる。私もつられて、それから完全に目を閉じてしまって、唇が触れた。頬や額はいつものことだったけど、口にされたのは初めてだ。ぽやんとした頭は考えることをやめてしまって、私は成されるがままだ。静かで、長いキスだった。
 キスが終わった後はぎゅっと抱きしめられた。
「俺の愛がちゃんと伝わってたみたいでよかった~」
つまりそれが答えだ。ゲンくんに愛されてるなあと感じるようになってから、嘘をあまり嫌だと思わなくなった。むしろ私のせいでゲンくんが息苦しく感じているならそっちのほうが申し訳ないと思うほど。ただ、愛されてるからなんて言うのが恥ずかしすぎるせいで、なかなか伝えられなかったのだ。
 ゲンくんはとびきり優しい声で言った。
「どう? 合ってる?」
「……うん」
「ほんとかわいいね、名前ちゃん。千空ちゃんに嫉妬する必要なんてないのに~」
千空くんの話なんてした覚えはない。さすがにそこまで言う必要はないと思って黙っていたのに、見事に言い当てられてしまった。ゲンくんによると、視線でバレバレだったみたいだ。
「千空くんはゲンくんのことすごく頼りにしてるから、船にも乗ってほしいんじゃないかな。指名されたら乗るよね?」
「まあ……」
「だよね。寂しいけど、仕方ないよね……」
「もっかいキスしていい?」
話の流れがわからない。なんで、と聞いても目をうるうるさせてダメ? と下から聞いてくるのだ。その顔、氷月に裏切りがバレたときにもやってたね。あのときは全然かわいいと思わなかったけど、今の私にはそれなりに効果がある。
「……聞かないでよ」
「だって照れてる名前ちゃん、かわいいんだもん」
そう言ってゲンくんは目を閉じた。渋った結果、自分から行かなければならなくなるなんて。
 恥ずかしいから一瞬だけのキスだった。目を明けたゲンくんはにこりと笑っている。
「ここで逃げないとことか、ほんとマジメだよね」

 出発当日、龍水さんがメンバーの名を次々と呼んでいく。船のエンジニア、ソナー、コック。思っていた通りの選抜だ。
「次、今上げたメンバーの補佐として名前!」
「ええっ!?」
今のは私ではなくゲンくんの声だ。私は驚きすぎて声も出せなかった。だって呼ばれるなんて思ってもいなかったし、しかもゲンくんよりも先なのだ。
「どうした名前、辞退するか?」
「あ、いえ……乗ります!」
船へ続く木の板を上るとき、ゲンくんと目が合った。船の上に着いてからもずっと目が合ったままだった。
 私の次に呼ばれたのはパワーチームのみんなだった。当然ながらそこにゲンくんは入っていない。そしてパワーチームの全員が船に上ったとき、なんとなくこれで終わりという雰囲気になってしまった。
「これで船メンバー全員かな? はい、じゃあみんなお見送りしよ~」
ゲンくんが手を叩きながら言う。笑っていたけど、全然笑えていないのがわかった。
 しかしだ。龍水さんは最後の最後でゲンくんを指名した。一応「俺いらないでしょ~」と形だけ言ってしまうところがゲンくんらしい。なんだかんだ千空くんに説得されて、最後は船に乗ってしまうのだ。コハクもこの流れに慣れてしまったようで「実に面倒な男だ」と笑っていた。

「……ってワケで、これからもよろしく~名前ちゃん」


******

 千空と龍水にはどうしても聞かなければならないことがあった。他の誰もいないタイミングで、ゲンは二人に近づいた。
「ね~、ちょっと聞きたいことあるんだけど。なんで名前ちゃんがこっちなの?」
「サポートだと言ったはずだが?」
「あ゛~違えよ。こいつが言いてえのはだな……」
「ちょっと千空ちゃんストップ」
「うるせえ。龍水の言った通りサポートが必要なんだよ。専門家も大事だが、欠けたときも想定しなきゃなんねえ。何のために俺がいろいろ仕込んだと思ってんだ」
「いや仕込みとか言うのやめて! エロい!」
「フゥン、ゲン貴様……名前に惚れているのか?」
「あ、知らなかったんだ……。そう! そうなの! だから心配してんの!」
「認めたら認めたで面倒な性格してやがる」
「なんで名前ちゃんなのよ……。あ、もしかして俺のためだったりする?」
「んなワケねえだろ。俺は最初っから名前にいろいろさせてただろうが」
「あ……確かに。保存食作ってたし、裁縫もやってた。クロムちゃんと鉱石堀りにも行ってたし、千空ちゃんと科学クラフトも……?」
「クククようやく気付きやがったか」
「……好きなの?」
「なんっでそうなる! これだから恋愛脳は!」
「はっはー! いいじゃないか! 好きな女と一緒なら貴様の士気も上がるだろう!」
「いや俺の話聞いてた? 心配してるって言ってんの!」
「まあ諦めるこった。名前は実際マジで歯車みてえな働きしてっからよ」
千空がにやりと笑う。ゲンはがっくりと肩を落とすしかなかった。しかし実際は、龍水の言う通りなところも少なからずある。何より、名前が嬉しそうなのだ。「こちらこそよろしくね」そう言った彼女が笑っていたから、危険だから残ってほしいなんて言えるわけがない。