透明の壁を壊して04

 ルリさんの病名は肺炎だった。とだけ言われてもよくわからなかったが、つまり千空くんの作った薬が効くということらしい。本当によかった。完治するまで継続的に飲まなければいけないので安心にはまだ早いが、それでもみんなからは安堵の表情が見られた。
 ルリさんの完治を待つ間、私たちは千空くんの指示で次なるモノづくりのための準備をしていた。川で砂鉄を集めたり、洞窟で鉱石を掘ったりと忙しい。冬に備えての食料確保も重要な課題だ。
 相変わらず私とあさぎりさんは村には入れないままだった。おそらくルリさんの肺炎が治ったとき、千空くんは村人の心を掴むのだろう。司くんたちの動向が気にならないわけではなかったが、私は今できることに集中することにした。

 コハクが捕まえてくれたイノシシの肉を薄くスライスして、塩で揉んだものを吊るして煙にさらす。ひょっこりとあらわれたあさぎりさんは「なーにやってるの?」と、私の隣に座った。
「えーっと、煙のなんとかで微生物を殺して……?」
「千空ちゃんっぽい説明~」
「はい。説明してもらったんですけど忘れちゃいました。ひと言で言うと燻製みたいです」
「あ~保存食ね」
はい、としか答えなかった私のせいで会話は途切れた。煙に包まれる肉を眺めて、あさぎりさんは楽しいのだろうか。ちらりと横顔を見て、静かなあさぎりさんは珍しいなと思った。いつも誰かしらと喋っているイメージだ。
「あの、」
結局私は沈黙に耐え切れず、声を上げた。あさぎりさんは顔をこちらにむけて「ん?」と目を大きく開く。
「ここに連れてきてくれてありがとうございました。なんていうか、楽しいです。司くんたちと戦うのは怖いけど」
「言ったでしょ。俺は勝率上げたかっただけ。自分の得になるようにしか動かないんだって」
あさぎりさんは空を見上げながら言った。彼がそうだと言うなら、そういうことにするべきか、それでも感謝していると言うべきか。他人の心を読むことなんてできないから、結局は私のしたいようにしかできないのかもしれない。
「じゃあ、ちょっとでも勝率上げるために頑張って働かないといけないですねえ」
「あ……いや、そういう意味で言ったんじゃないのよ?」
「わかってますよ」
そのとき、ひゅうっと風が吹いた。火が消えてしまわないよう私は風上に移動する。ここからだとあさぎりさんの顔がよく見えた。真正面から見るのも気まずい感じがして、風に揺れる炎に視線を外す。
「あさぎりさんはどうして科学王国側についたんですか?」
「ん~単にこっちのが勝ちそうだったし? 千空ちゃんならラーメンとかコーラも作れるしね」
「ああ……確かに。千空くんなら他にもいろいろ作れそう」
「名前ちゃんは何か欲しいものとかあったりするの?」
「え……うーん、パッと思いつかないです」
正確に言えば、欲しいものはありすぎる。ただ今の時代で作れるものという条件が加わると、わからなくなってしまうのだ。
 ふふふ、とあさぎりさんは袖口を口元にあてて笑った。
「あるでしょ、名前ちゃん。遠慮したらだーめ」
「でも、本当に……」
あさぎりさんは袖口から出した何かを私に握らせた。小さなガラスのビンにとろりとした液体が入っている。
「今って石鹸で髪洗ってるでしょ? その後にそれを一滴お湯に垂らして流してみて」
「え、えっ! リンスみたいな感じですか?」
「そう。石鹸でアルカリ性になった髪を中和させるって千空ちゃんが」
「ありがとうございます……」
嬉しい。髪が傷んでいるのは気になっていたのだ。すぐ絡まるし手櫛も通らないしで……という話をあさぎりさんの前でしていたことを思い出す。覚えていてくれたのだろうか。そうだとしても、素直に「はい」とは言わないかもしれない。それでも私が気付いていることは伝わるならと思ったのだ。
「川で言ったこと、覚えててくれたんですか?」
「俺だけコーラのリクエストしちゃったからね」
「あとで千空くんにもお礼を言っておきます」
「あ~、たっぷり働けよって言われるやつ……」
「おいメンタリスト。テメー何サボってやがる」
噂をすれば何とやら。いつの間にかあさぎりさんの後ろに千空くんが立っていた。
「ええ~! サボってないってば、千空ちゃん」
「うるせえ。とっとと仕事に戻りやがれ」
「ドイヒー」
とぼとぼとあさぎりさんが去っていく。彼の背中を千空くんは腕を組んで見送っていた。
「千空くん。これ、ありがとう」
私はあさぎりさんにもらったビンを千空くんにみせた。千空くんは「あ?」と首をかしげて、それからため息をついた。
「礼ならメンタリストに言え。それ作ったのアイツだぞ」
「そうだったの? はっきりは言わなかったけど、千空くんが作ったっぽい雰囲気だったのに」
「面倒くせえ性格してんだよ。まあ、何混ぜたらいいかは教えたけどな」
「そうだったんだ……」
 千空くんは屈んで吊るした肉の具合を確認している。かなり時間も経っているし、もういいのかもしれない。私はラボに戻って大きめのビンを持ってきた。
 カラカラになった肉をビンに詰めると、保存食っぽさが増す。ワクワクした。文明が進んでいるのを実感するって、こんなにも楽しい。
「次は何する?」
「製鉄」
「あー……」
製鉄はきつい仕事のうちの一つだ。窯の温度を1500度にするため、交代で空気を送り続けなければならない。終わった後は手や顔が炭で真っ黒だ。腕や肩も使い物にならなくなるほどで、しかし逆に言えばこれが今日最後の仕事ということだった。

 窯からはすでにもくもくと煙が上がっていた。とりわけ一番限界が近そうな銀狼くんと交代して、竹の筒を握る。この自転車の空気入れみたいな装置をいつもはひたすら無心で動かしているわけだけど、今日の私は一段と気合が違った。早く終わらせて温泉に行く。あさぎりさんに貰ったリンスを使ってみたい。楽しみがあれば、辛い作業もなんてことはなくなるのだ。

 作業が終わったときには日も落ちかけていた。完全に夜になる前に温泉に行かなければ。一番大事なガラスの容器があることを確認して、それから石鹸を持ってラボを出る。
 ちょうど現れたあさぎりさんは背中に大きなカゴを背負っていた。クロムくんと石集めをしていたみたいだ。
「名前ちゃん、顔真っ黒」
「あ……」
恥ずかしくなってゴシゴシと顔を擦る。そこにあさぎりさんの手が伸びてきたものだからぎょっとした。
「手にもついてるから意味ないよ~」
「え、あっ……!」
あさぎりさんは袖口で汚れを拭おうとしてくれていたのだ。しかし、そんなことをすれば彼の服が汚れてしまう。今から温泉に行くのだからそこまでしてもらう必要なんてないのに。
「あの、大丈夫です! これからコハクと温泉に行くので!」
不自然なくらい上ずった声を気にする様子もなく、あさぎりさんはにっこりと笑う。
「へえ~。いいね、女の子同士で温泉」
「はい。楽しみです」
「……うん。暗くなる前にいっておいで」
私は迷った末にガラスのビンを取り出した。最後に「ありがとうございます」とだけ言って、つり橋へ向かう。先に来ていたコハクは私の顔を覗き込んでふっ、と笑った。
「見事に真っ黒だ。なかなかそこまではならないぞ」
「え、そんなに?」
「ああ。早いとこ温泉に行くとしよう」

 ちょっと熱めの湯加減、硫黄の匂い、そして周りは大自然。日本人でこれが嫌いな人なんていないんじゃないかと思う。顎までお湯につかって目を閉じると、ここがどこかの温泉宿なんじゃないかと錯覚してしまうほどだった。できることならこのまま眠ってしまいたい。もちろん危ないのは知ってるし、本当にはやらないけど。
 いつも通り石鹸で洗った頭はギシギシだった。そこに貰った手作りリンスを試してみる。ハーブのようないい香りがした。大事に、無駄にしないよう慎重に髪の毛を浸す。最後にお湯で流したとき、すでにいつもと違う感触があった。手櫛が通る。引っかからない。この感動を誰かと分かち合いたく、私はコハクの手をぎゅうと握った。
「ねえコハク! コハクもこれ使ってみて!」
「ん? なんだそれは」
「髪がすっごくサラサラになるの! あさぎりさんと千空くんが作ってくれた!」
「わかった。わかったから落ち着いてくれ」
「あ、ごめん……」
コハクはやれやれと肩をすくめて、けれどリンスは使ってくれた。香りと使用した感じは気に入ってくれたらしく「すごいものだ」と褒めてくれた。私が作ったわけでもないのに嬉しくなってしまう。

 はしゃいでいたら本格的に夜が近づいてきていた。急いで着替えて村へ向かう。コハクはたぶんもっと速く走ることができるのに、私に合わせてくれている。かっこいいなあと後ろ姿に見惚れていたら、ふいに彼女が振り向いた。
「すまない、速いか?」
「大丈夫、ありがとう」
「妙に視線を感じたのだが?」
「かっこよくて憧れちゃうなあって思ってた」
「ハ、君こそなかなかの口説き文句じゃないか」
コハクはそう言って前を向いた。もう村はすぐそこだった。

 科学王国にはクロムくんが集めた素材を保管している倉庫と、千空くんが来てから作ったラボがある。千空くんは倉庫で寝泊りをしているそうだから、そこにあさぎりさんが追加。私はラボで寝ることになっている。倉庫はハシゴの上にあることもあって「逆がいいんじゃないの?」とあさぎりさんが言ってくれたけど、ラボは机や器具がたくさん置いてあって狭い。人数的に私がラボに泊まったほうがいいのだ。コハクが家から持ってきてくれた麻布にくるまってもちょっと寒いけど、ひとりでいたときに比べれば天国と地獄だ。
 横になると髪の毛からふわりといい香りが漂ってきて、ドキリとした。いや、自分の匂いだからとぎゅっと目を瞑る。すきま風がひゅうひゅうと過ぎるたびに髪が揺れて落ち着かない。だから自分の匂いだぞと思うけど、どうしてもあさぎりさんの顔が浮かんでしまうのだ。
 もう寝てるかなと思いながらも、体を起こして倉庫のほうを見てみる。暗くて静かで、虫の鳴く音も聞こえない。ひとりぼっちで過ごしていた夏よりずっと寂しい気がした。
 髪を後ろでまとめて私はもう一度横になった。早く明日が来てほしいと思うようになっただけ、私は幸せ者なのだろう。