ゼノ・ヒューストン・ウィングフィールドの初恋01

 ゼノ少年、十二歳。
 彼は大学の研究室に通う傍ら、昨年出会ったスタンリーとともにレールガンの改良を重ねていた。ゼノは科学を……人生を楽しんでいた。

 研究室での実験を終えたゼノは、いつものようにスタンリーとの待ち合わせ場所に向かっていた。レールガンの出力を上げる方法を思いついた。今すぐ試したい。つい五分ほど前、長文メールをスタンリーに送ったばかりなのだが、その返事はたったの一行だけだった。だがゼノはそんなこと気にも留めない。これはいつものことなのだ。

 その日がいつもと違ったのは、大学の敷地を出る寸前に彼女に出会ったことだ。大きなカバンの中身を地面に並べて、両手を上着のポケットの中につっこんで、何か探し物をしているようだった。明らかに困っているのが見て取れた。ゼノが彼女に声を掛けたのは、偶然にも目が合ってしまったからだ。
「困っているようだが、何か探し物だろうか」
 ゼノが声を掛けると、彼女は目を真ん丸にした。その理由はおそらく、ゼノの年齢だ。大学には様々な年齢の学生がいるが、ゼノは異例だった。二年前……つまりゼノが十歳のとき、彼は飛び級で大学に入学したわけだが、そのときは大きなニュースになったものだ。当時の周りの反応にゼノはあまりいい思いをしなかった。だが、ゼノは彼女を責めるつもりなど全くない。もし五歳の大学生に出会えば、ゼノだって驚く。……そして尊敬の意を向けるだろう。

 彼女はぶちまけた鞄の中身に気まずそうな視線を向けた。
「……メトロカード、失くしちゃって。さっき地下鉄降りたとき使ったばっかなんだけど」
「さっきということは、今から講義に?」
「ああ、うん。夜間コースなの」
「もしカードが見つからなかったとして、帰りの電車賃は?」
 彼女は財布を勢いよく開いた。表情を見ていれば、足りないというのがすぐにわかった。
「僕なら講義を優先するよ。学びに来ているわけだからね。帰りは家族に迎えに来てもらうか……教授に言えば電車賃くらいなら貸してくれるんじゃないか」
「そう、だよねえ……。うん、決めた。ありがとう!」
 彼女はバッグの中身をかき集めてにこりと笑った。そのあまりの素直さにゼノは一瞬言葉を失う。自分で言っておいて何だが、彼女がアドバイスを聞き入れると思っていなかったのだ。偏見を持っていたのは自分のほうなのかもしれないと、ゼノは少し反省した。
「……一応、特徴を聞いておいてもいいだろうか」
「探してくれるの?」
「いや、探しはしないが……もし見かけたら駅に届けておくよ」
「それでもすごく助かる。カードは赤いパスケースに入れてるの」
「……わかった。そろそろ行かないと講義に遅れるんじゃないか?」
「そうだった。ありがとう、気をつけて帰ってね」
 彼女はブンブンと手を振って走って行った。大きなカバンの口が開いているのを見てゼノは「あ」と声を上げたが、すでに彼女は遠くまで行ってしまっている。どうしてカードを失くしたのかがよくわかった。呆れに近い感情が沸き、それでいてどこかむず痒いような心地になる。「気をつけて」と別れ際に言われたのはずいぶん久しぶりのことだった。

 期待させるような言い方はしなかったつもりだが、それでも「あればいいな」くらいには思っていた。いつもより視線を下に向けながら歩いていると、植込みの隙間にそれらしき物を見つける。まさか本当に見つかるとは……。誰にも拾われなかったのは、花も咲いていないような植込みに誰も目を向けなかったからかもしれない。
 ゼノはバス、彼女は地下鉄。駅にカードを届けている間にバスは行ってしまう。だが見つけたら駅に届けるという約束だ。ゼノはスタンリーに「バス一本分遅れる」と謝罪のメールを入れた。

「よ」
 ゼノがラボに到着すると、スタンリーはレールガン片手に顔だけ振り向いた。
「遅れてすまない」
「なんかあった?」
「まあ、ちょっとした善行をね」
「善行? あんたが?」
「そうだよ。拾ったメトロカードを駅まで届けていた」
「そりゃ確かに善行だ」
 彼女のことを話さなかったことに特に意図はない。それよりもゼノはレールガンについての話をしたかった。スタンリーから銃を受け取ったゼノは、さっそくそれを分解しながら今から施す改造の説明を始めた。

 それから二日後。「ゼノ君!」という声に振り向くと、彼女が大きく手を振りながら駆け寄ってくるのが見えた。
「この前はありがとう!」
 赤のパスケースをカバンからちらりと覗かせながら彼女は笑った。
「カード、どこにあったの?」
「大学を出てすぐ左の植込みに落ちていたよ」
「そうだったんだ……。本当にありがとう。それでねゼノ君、何かお礼をしたいんだけど」
「偶然見つけただけだから気にしなくていい。それよりどうして僕の名前を知っているんだい?」
「そりゃゼノ君有名人だし。でも昨日は自信なかったから講義の後で友達に確認して」
「ああ、そうだったのか」
「声かけてくれるなんて思ってなかったからびっくりしちゃった」
 なるほど昨日の反応はそういうことだったのかと納得する。小さなことだが予想が外れてばかりだ。
「……君の名前は?」
 ゼノは少し迷った末、彼女に尋ねた。知りたかったというより、聞かなければ失礼かもしれないと思ったのだ。彼女はそんなゼノの考えなど知りもしないまま、「あ!」と口を開ける。
「ごめんね名乗りもせずに。私はなまえっていいます」
「なまえ、よろしく」
「よろしくお願いします……」
 なぜ急にかしこまるのか。よくわからなかったが、これ以上話していると今日もバスを逃してしまいそうだったので言及はしなかった。
「それじゃあゼノ君、気をつけてね」
「ああ……ありがとう」
 君も、と言いかけた口を噤む。これから講義を受ける人間に対して「気をつけて」は適切な言葉だろうか。考えているうちに彼女は行ってしまった。そういえば、今日は彼女のカバンの口は閉まっていたように思う。

「『気をつけて』に対する返事ぃ? んなの『あんたも』でいいんじゃねーの?」
 ゼノはさっそくスタンリーに相談してみたが、スタンリーはさして考えた素振りも見せず言った。
「今から帰るわけでもないのに、それでいいだろうか」
「ゼノ風に言うなら『君も夜道、気をつけて帰るんだよ』とか」
「おお、スタン。君に相談して正解だったよ」
「大げさ。っつーか誰? あんたがそこまで気にする相手って」
「昨日のメトロカードの落とし主さ」
「へーえ」
 椅子の背もたれに寄りかかったスタンリーは、何か言いたそうな顔をしている。しかしそれ以上口が開かれることはなかったので、ゼノも特に何も言わなかった。

「ゼノ君!」
 週が明けて、またもなまえに会った。パタパタと駆け寄ってきた彼女はバッグの中からチョコレート菓子を取り出して、ゼノのほうに差し出す。多分、カードを拾ったお礼ということなのだろう。断る理由もなかったのでゼノは素直にそれを受け取った。
「ゼノ君、甘いの大丈夫だった?」
「渡してから聞くのか」
「ごめんごめん」
「チョコレートはたまに食べるよ。考えがまとまらないときなんかにね」
「よかった~。それじゃ気をつけてねー」
「ありがとう。……君も、夜道は気をつけて」
「ありがと!」
 言ってしまえばなんてこともなかったように思える。やはりスタンリーに相談したのは正解だった。彼女も特に気にした様子もなく、いつものようにブンブン手を振って行ってしまった。

「スタン、君も半分食べるかい?」
 ラボでなまえに貰った菓子をスタンに差し出せば、彼は「んー」と言いながら近づいてきた。そしてゼノの手の中に収まっているものを見ては、目を丸くする。
「ゼノそれ好きだっけ」
「嫌いではないよ。貰ったんだ」
「……メトロカードの落とし主?」
「おお、よくわかったね」
 スタンリーはゼノから受けとった菓子を豪快に口の中に放り込んだ。ナッツを噛み砕く音がラボの中に響く。
「喉に詰まらせないようにね」
「……毎日会ってんの? そいつと」
「と言ってもまだ三回目だが。ちょうど電車の時間が僕の帰る時間と重なっているんだろう」
「ふーん」

 それからゼノとなまえは何度も学内で顔を合わせた。と言ってもお互い次の用事が控えているから、挨拶以上のことはしていない。ゼノにとっては一日の日課が一つ増えたような感覚だった。彼女が昼間何をしているのかも、ゼノが友人とともにレールガンの試作をしていることも、互いに大学で何を学んでいるのかさえ話したことがなかった。連絡先も交換していなかったから、会えなければどこで何をしているのかもわからない。そうして半年後、卒業の季節だった。
「ゼノ君、あのね……私、今日でこの大学に来るの最後なんだ」
「……もう単位を取り終えたのかい?」
「今年で高校卒業なの。大学には行くんだけど、違うところに行こうと思ってて。ここの夜間で取った単位も有効なんだって」
「そうか、おめでとう」
「……ありがとう」
 なまえは目に見えて泣きそうになっていた。だが、ゼノには気の利いた言葉の一つも思い浮かばなかった。こういうときに頼りになる友人は近くにいない。
 もう少し早く聞きたかった。そうしたらスタンリーに相談することもできたし、卒業祝いのプレゼントを用意することもできた。だが、彼女を責めたいわけじゃない。ゼノだって彼女に今まで一度も聞かなかったのだ。
「……メールしてもいい?」
 なまえの問いに、ゼノは静かに頷いた。この日、ゼノは久しぶりにバスに乗り過ごした。


 時は流れ3700年と少し。色々あったがゼノは千空率いるタイムマシン開発メンバーの一員として日々忙しくしていた。そして……。
「もしかしてゼノ君?」
 その声を聞いた瞬間、ゼノの中に様々な感情がこみ上げてきた。懐かしい。また会えて嬉しい。なぜ一度もメールをくれなかった? 次から次へと言いたいことが頭の中を流れていく。あのときよりも、あのときの自分の感情が理解できるような気がした。
 ゼノは慎重に言葉を選んだ。
「久しぶりだね、なまえ」
「やっぱりゼノ君だ! 大きくなったね~。実はテレビで何回か見たんだけど、あんまりゼノ君って実感が沸かなくてさ~」
「……君はいつごろ目覚めたんだい?」
「三カ月前だよ。それで最初は建築系の仕事してたんだけど、設計図引けるならってことで呼ばれて」
 なまえは偶然にもゼノと同じ職場で働くことになったそうだ。確かに大掛かりな装置を作るためには建築の知識が必要になってくる。彼女がそういった道に進んでいたことは、今の今まで知らなかったわけだが。
「そうか。何か困ったことがあったら言ってくれ」
「ありがとう! やっぱりゼノ君は頼りになるね~」
 彼女は今日のところの仕事は終えたらしく、ちょうど帰るところだったそうだ。まだ細々とした仕事が残っていたゼノは、そのまま施設の入り口まで彼女を見送る。
「ゼノ君あんまり遅くまで無理しちゃだめだよ。ちゃんと休んでね」
「わかっているよ。それじゃあ気をつけて」
「ありがとう。またね!」
 にこりと笑って手を振る。彼女の姿が見えなくなってため息をついたゼノは、早歩きで幼馴染のもとへと向かった。
 ゼノが勢いよく扉を開けると、そこにいた幼馴染は落ち着いた様子で、それでもどこかゼノの雰囲気がいつもと違うことに気づいたのか「なんかあった?」と尋ねてくる。

「スタン、聞いてくれ。……初恋かもしれない!」