01.ツキの裏

 近所に新しくオープンした「NO NAME」という店。外から見ただけだが、なんとなく良さそうな雰囲気だ。ちょうど新規開拓しようかと思っていたところ。仕事帰りに寄るのを楽しみに、サラは山積みの書類を前にした。
 そうして気合を入れて定時上がりをもぎ取ったまではいいのだが、意気揚々と開いた扉の先には店主と思われる人物がただ一人いただけだった。……いや、落ち着いた雰囲気の店は好きだ。しかし客が自分一人となると、話は別。「間違えました」なんて言い訳で引き返せばいいのかもしれないが、目が合ったときの店主の嬉しそうな顔。サラはカウンターの一番端の席にひっそりと座った。まあ、そのうち人は来るだろう。そんな希望を抱いて。
 そして一時間が経過したが、店にはサラと店主のデリック二人だけ。目の前に置かれた店主おすすめの品。食べ慣れた缶詰と冷食の味。それがすべてを物語っていた。
「デリックさんは料理しないんですか?」
「あー、したほうがいいってのは分かってるんだけどなあ」
デリックは腕を組んで首を捻った。料理はあまり得意ではないそうだ。
 料理はともかく、お酒は美味しいし、マスターの人柄も好きだ。お酒を飲みながら話を聞いてもらうのにはいいかもしれない、なんて思っていた。しかしそれができるのはサラの他に客がいないからで。
 次に入口のドアが開いたとき、そのゆったりとした時間は消えた。ぞろぞろと賑やかな男女数名が入ってきたのだ。全員デリックと知り合いのようで、なんとなく居心地が悪い。これ以上に隅の席なんてないのに、グラスと料理を壁際に寄せてみた。

 音というのは勝手に耳に入ってしまうものである。たとえ聞こうとしていなくても、だ。この数十分で耳に入ってきたことを整理すると、彼らは刑事で、デリックは元刑事。たぶん、よくここを溜まり場にしているのだろう。さすがに一般人が聞いてはいけない話なんてしてないだろうが、だからといって居座り続ける度胸もない。サラはデリックに勘定をお願いして、店を去ろうとした。ドアに手を掛けて、しかしサラが力を入れる前にそれは勝手に開いた。サラはバランスを崩して、前に倒れ掛かる。
 サラを受け止めた人の感触。驚きで息が止まる。ちょうど店に入ろうとしていた男の人に支えられていたのだ。慌てて離れようとして、また倒れそうになる――が、今度は壁に手をついて事なきを得た。
「すみません!」
「いえ、こちらこそ」
男性は慌てた様子もなく言った。
「おーいダグ! おせーぞ!」
カウンター席から男性を呼ぶ声。やはりこの人もグループの一員のようだ。となれば刑事か。顔を上げるとちょうど彼と目が合って、入口に立ちふさがっていたことを思い出す。
「あ……えっと、本当にすみません!」
サラは素早く店から出て、ばたばたと階段を下りた。しばらくここを訪れることはないだろう。このときサラはそう思っていた。

 ……鍵がない。
 自宅ドアの前で鞄をごそごそと漁ってため息をつく。ダメもとでドアをひねってみても、当然開くわけがなかった。――まあ、開いたら開いた電話泥棒とか、他の心配をしなければならないのでそれはいい。問題は鍵をどこに落としたかということだ。
 一番怪しいのはバーだ。会計のときに落としてしまった……十分に考えられる。そこにもなければ会社まで戻らなければならない。そう遠い距離でもないが、考えるだけで億劫だった。
 念のため、道に鍵が落ちていないか確認しつつバーへ向かう。しかし落ちているのはゴミや石ころばかり。店の前でようやく顔を上げると、入口の前に立っている男性に気付いた。たしか、店に一番最後に来た人だ。呼ばれていた名前までは思い出せない。彼はサラに気付くと手を大きく振って、それから階段を下り始めた。
 男性から渡されたのは、まさにサラが探していた鍵そのもの。彼は店に入ってすぐ、鍵が落ちていることに気付いてサラを追いかけようとしてくれたらしい。しかし店を出てもサラの姿は見当たらず、ここに戻ってくるのを待っていたそうだ。
「本当にありがとうございます。せっかくの集まりに水を差してしまってすみません」
「ああ、いえ。毎日顔を合わせているやつらばかりなので」
それでもわざわざ店の外で、現れるかも分からない人間を待っていてくれるなんて、すごくいい人。店に入ってく彼の姿を眺めながらサラはそんなことを考えていた。このとき彼がデリックの料理から逃げていただけだと知るのは、もっと後の話である。

 「あ」と声には出さなかったが、見覚えのある顔に反応してしまったのは近所のスーパーでのこと。数日分の食料を買いだめしているときに、バーで鍵を拾ってくれた男性と鉢合わせしたのだ。彼もサラのことは記憶にあったようで、軽く会釈をされた。
 サラは手元のカゴを見て眉をぴくりと動かした。買いだめしようとしていた食料品――即席麺、冷食、缶詰。この生活力ゼロのラインナップ。家庭的だと彼にアピールするつもりなんて全くないが、さりげなくカゴを体の後ろに動かすぐらいは許してほしい。
「それ、美味いですよね」
「……へ」
彼のカゴの中から取り出されたのは、いつもお世話になっているビーフラザニアのパッケージ。もちろん冷凍のだ。よく見てみると、彼の持っているカゴの中身もサラのとそう変わらなかった。
「で、ですよね! 美味しくて、便利で!」
「まあ、食べ過ぎると飽きがきますけど」
「すごくわかります」
他にもピザがおすすめだとか、そんな話をした。いつもの冷食でも、彼が持っているとなんとなく様になっているから不思議だ。
 食事のローテーション候補がいくつか増えたところで、彼と別れてレジに進む。精算画面に表示された金額はいつもより少しだけ高かった。