02.ツキの裏
路上に停められた車。運転席にはあの男性刑事、それと助手席にもう一人。なんだか二人ともつまらなさそうだ。助手席の人にいたっては欠伸をしている。何かの調査中なのだろうか。
サラがぼんやり二人の様子を眺めていると、車の窓が開けられた。はっとしたサラは会釈をして車に近づく。ジロジロ見たりして失礼だったかもしれない。
「こんにちは」
とりあえず挨拶をしてみたが、助手席の人は首を捻った。
「どうも。……ダグの知り合いか?」
「まあ。デリックの店に鍵を落としていった人、覚えてるか?」
「あー、見覚えあるような。ダグ、あんとき一人だけデリックスペシャルから逃げやがって」
「根に持つね」
ダグはくつくつと笑う。隣の眉間にしわを寄せた彼は、キリルという名前だそうだ。キリルもあの日デリックの店にいたらしい。そう言われると、ダグの名を呼んでいたのは彼だったような気もしてくる。
「お仕事中ですか?」
「そんなところです」
「そちらは」と聞かれて、さっきまでお昼を食べていたのだと説明した。今は職場に戻っている最中なのだ。
「この辺に食べるところ、ありましたっけ」
「あるんですよ~、すぐそこです。スープが美味しいお店です」
店の入った建物を指で差す。今度行ってみようというダグの言葉が本気なのか社交辞令なのかわからない。もしそこで会えたらちょっと話してみたいかも、なんて考える。
サラは二人にお辞儀をして歩き出した。二人の仕事の邪魔をするのも悪いし、サラとしても早く戻って仕事に取り掛かりたかったのだ。
職場はここからそんなに遠くない。スープで温まった体が冷える前に着くはずだった。しかし覚えているのは途中までの道のりと、「危ない」と遠くから声が聞こえたこととだけだった。
目を開けると白い天井。起き上がろうとすると頭にズキズキと痛みが走った。
腕には包帯が巻かれていて、部屋の雰囲気からもここが病院なのだろうと想像できる。ナースコール、してもいいのだろうか。誰かに事情を説明してほしい。歩いて誰かを呼びに行っていい状態なのかもわからないのだ。しかし、サラが呼び出しボタンを押すことはなかった。緊急時以外で押してもいいのかと迷っている間に、看護師が来たのだ。
看護師がすぐに医者を呼び、事情が説明された。工事現場の落下事故ということらしい。落ちてきたのは本当にちょっとした物だったそうだが、高さがあったためサラは倒れて頭を打ち、気絶したのだと言われた。腕に巻かれた包帯は、そのときに出来た擦り傷によるものだそうだ。ちょっと大げさな気もするが、指で押すとヒリヒリと痛む。
怪我自体はたいしたことなく、簡単な検査が済めば退院できるらしい。残してきた仕事のことが気にならないわけではないが、どうすることもできない。サラは休みをもらったものとして、このゆっくりとした時間を満喫することにした。
「え、ダグさんが……?」
看護師との会話で知ったのは、救急車を呼び、ここまで付き添ってくれたのがあの刑事だったということだ。それだけでも有難いのに、彼が身元引受人として書類にサインしたという話を聞いて、サラは「へ」と間の抜けた声を上げた。素敵な方ですね、と何か勘違いしていそうな看護師の言葉を否定する余裕もなかった。
サラがちゃんと入院費を払えば彼に迷惑を掛けることはないだろう。しかし、よく知りもしない人間相手にどうしてここまで。せめて何かお礼をと、サラは看護師にすがった。
「あの、ダグさんの連絡先を教えていただくことってできますか……」
個人情報やら何やらで教えてもらえないかもしれないと思った。しかし、あっさりと彼の書き残した連絡先はサラに知らされる。それもそのはず、書かれていたのは警察署の番号だったのだ。
検査は特に異常も見られず、すんなりと退院することができた。悩んでいたダグへのお礼は、警察署へメールを送るだけにとどめておいた。彼としては仕事の一環だっただけなのかもしれないと思うと、電話することができなかったのだ。
つかの間の休息も終わり、サラは職場に復帰した。相変わらず昼は外食だ。全く抵抗がなかったわけではないが、そんなことを言っていたらどこも出歩けない。何よりあのスープが食べたかっただけとも言える。
数日ぶりに店のドアを開ける。いつもの席に座ろうとしたサラの足が止まった。奥にダグが座っていたのだ。サラは吸い寄せられるように彼のもとへ向かう。
「あの、ダグさん……」
声を掛けるとダグは振り向いてフォークを置いた。隣に座るよう促されて、サラは腰を下ろす。
「ここ、美味いですね」
「え、あ……そうですね。私もそれ、よく食べます」
ダグの席に置いてあるのは野菜のたっぷり入った、オニオンスープ。冷食続きの体が野菜を求めているときにぴったりで、パンを浸すとこれがまた美味しい。……いや、いま重要なのはそこではない。
「この前はありがとうございました。ダグさんが色々手配してくれたと聞いて」
「いえ。無事でよかったです」
サラが二人と別れてすぐ、事故の騒ぎを聞きつけ救急車を呼んだそうだ。そしてキリルに車を任せて、ダグが救急車に乗ったのだと言う。
「礼を言うならあいつにも言ってやってください。もし会ったら、ですけど。喜ぶと思うんで」
「そうだったんですね。本当にありがとうございました」
「いえ……俺もあんなメール貰ったの初めてで驚きました。窓口担当からは一体何したのって」
ダグ曰く、メールや感謝状などは滅多に届かないそうで、ちょっとした話題になったそうだ。
「……引受人のサインもしてくれたんですよね」
「ああ、それは」
住所も職場も家族の連絡先もわからない。調べるよりもサインするのが手っ取り早かった。大したことではないとダグは言う。
「でも、もし万一のことがあったら……」
例えば、サラが病院から逃げ出したり、入院費を踏み倒したり。そうじゃなくても、もしサラが何日も目を覚まさなかったらそれだけで迷惑を掛ける。
「まあ、大丈夫だろうと思ったので。あなたなら」
ダグの皿が空になる。代わりにサラの注文したスープが運ばれてきた。けれど、すぐに口をつける気にはなれない。
「……食べないんですか?」
「食べます、けど」
じっと見られていると食べづらい。というか、食事を終えたダグが席を立たなかったことに驚いている。それがちょっと嬉しいような気もするが、食べにくいのは事実だ。ダグはサラがそんなことを考えていると気付きもしないのか、運ばれてきたスープを「それも美味そうだ」と言う。
「美味しいですよ。ここの全種類制覇してますけどこれが一番好きなんです」
「へえ。じゃ、今度はそれにします」
「はい。ぜひ」
サラは観念してスープを口に運んだ。出来るだけ上品に。
サラが半分ほど食べたところでダグは席を立とうとした。呼び止めてしまったのは、反射だった。続きに何を言うかなんて考えていなくて、口ごもってしまう。
「あ、あの……何かお礼を」
一瞬で考えた言い訳。それが助けてもらったことへのお礼だった。
「食事とか、どうですか」
「食事?」
「……あ、外食です」
ダグは肩を震わせて静かに笑った。
「……そんなに笑わないで下さい」
「すみません。別にそこが気になっていた訳じゃないというか……」
ダグはあっさりと食事の件を了承して、店から出て行った。何だかすごく大胆なことをしてしまったような気がする。食事の約束をしただけなのだが、そんな行動力が自分のどこにあったのか不思議だ。今さら顔が熱くなってきた。
残り半分のスープを飲むけれど、味がよく分からなくなってしまった。頭の中にあるのは、次の約束のことばかり。どこに行こうか何を着ていこうか、あれこれ考えているうちに皿は空になっていた。隣の席に残された皿を見て、次回はオニオンスープにしようと決める。