1話
古代ウルベア帝国から帰還するなり、エリンはその場にうずくまった。握りしめた指の間を砂が流れていく。どうして、と問いかけたかった相手はもうこの場にはいない。
「エリン、どうしたキュ? 何か変なものでも食べたキュ?」
首を振るのが精いっぱいだった。声を出したら泣き叫んでしまいそうだった。
つむじに感じていた視線が消え、肩にキュルルらしき重みが乗る。察してくれたのか、単に呆れているのかわからないが、キュルルはそれ以上なにも言わなかった。
ファラスにもメレアーデにも再開できたのだから、クオードとだってすぐに会えると思っていた。復興中のエテーネの村に招待できるかもしれない、アンルシアにも紹介したい。なんて甘い考えだったのだろう。クオードは十年以上もの時を、苦しみ続けていたのに。
ただただ便利だと思っていたエテーネルキューブ。手のひらに乗せてその表面をなぞる。こんなに冷たかっただろうか。
「ねえ、キュルル」
「無理だキュ」
エリンがすべてを言う前に、キュルルは渋い顔をした。
「時渡りで十年なんて誤差だキュ。それに時渡りが上手くいったとして……」
「お願い。……もしダメだったら、ちゃんと諦めるから」
キュルルはため息をついて、エテーネルキューブを受け取った。そしていつものように座標を入力しようとした――しかし。
キュルルとエリンの間を黒い影が通り過ぎる。何だったのだろう。影の行き先に顔を向けると、黒猫とエテーネルキューブが目に映った。見間違いかとキュルルに目線を戻したが、そこにキューブはなかった。
「ニャアン」
可愛らしい鳴き声と、しっぽの大きな赤いリボン。どうしてこの子がここに居るのかはわからない。だが間違いなくメレアーデの飼い猫、チャコルだった。
「チャコル! それ、返して!」
チャコルは大きな目を伏せて、そっぽを向いた。不思議なことに「だめ」と言われたような気がする。これまでにも何度か経験した感覚だ。チャコルに言葉が通じているような気がするのだ。
「大事な人のところに行かなきゃいけないの! それがないと私、何もできないから……お願い、返して」
チャコルはしばらく動かなかった。やがて長い時間をかけてエリンのほうを振り向き、キューブをそっと前足で押した。「返す」ということだろう。そのときのチャコルが今にも泣きそうな顔をしていたように見えたが、すぐに彼女が走り去ってしまったため、エリンにはどうすることもできなかった。
「ありがとう……」
チャコルの姿はもう見えないが、せめて声だけでも届いていてほしい。エリンはキューブを拾い上げ、キュルルに渡した。祈りを込めて目を閉じ、座標入力を待つ。ぽたりと頬から汗が流れ落ちた。
肌に触れる空気が変わる。恐る恐る目を開けてみると、見慣れた景色が飛び込んできた。間違いなくウルベア王国付近だ。場所は問題ない、あとは……時代だ。
エリンは周囲を確認しながら歩いた。ふと人影を見つけて足を止める。……信じられない、あの日の姿のままのクオードが、倒れていたのだ。
「クオー……っ!?」
彼に駆け寄ろうとしたところ、服の裾を引っ張られる。キュルルの仕業なので大した力ではないが、あやうく転ぶところだった。
「ちょっと待つキュ! どうするつもりキュ?」
「どうって……クオードをエテーネに連れ帰る」
「それじゃキミの持ってるキューブも消えてしまうキュ!」
「え……」
「だからどうすることもできないんだキュ。誰かがこの時代でエテーネルキューブを作らないと、エリンもキミの弟も時渡りできなくなるんだキュ!」
「そんな……」
手の届く先にクオードがいるのに。視界がぐらりと揺れる。
「諦めて元の時代に帰った方がいいキュ」
「……私が作る」
「キュル?」
「私がエテーネルキューブを作る。材料の名前は覚えてるし、私の弟もいるからできるよ!」
「まあ、できないことはないと……思う、キュ……」
「じゃあ、まずはボロヌジウムだね」
これさえ手に入れば、ガテリアが滅びることもない。ガテリアが簡単に譲ってくれることはないだろうが、クオードが軍事開発を進める前に何としてでも手に入れなければならないのだ。
「ごめんね、クオード。また後で会おうね」
エリンは出発の前にもう一度だけと、振り返る。そしてクオードをその目に焼き付け、走り出した。行き先は、ガテリア皇国だ。
「キュー! あいつ、人使いが荒すぎるキュ!」
「まあ……でもボロヌジウムは手に入りそうだし、ね? あとでチョコレート買ってあげるから」
「カミハルムイ限定、さくらチョコがいいキュ!」
「そんなのあったんだ……。うん、帰ったら買いに行こうね」
「やったキュ!」
エリンとキュルルはボロヌス溶岩流に向かっていた。なぜかというと、ガテリア皇帝との取引の結果である。
ガテリアに着いてまず二人は商店を回ったが、当然ボロヌジウムは売っていなかった。聞けばボロヌジウムはとても希少な金属で、一般に流通はしていないそうなのだ。そして次に足を運んだのが皇宮だった。皇帝に直に頼みに行ったのだが、これもまた当然のように門前払いだった。
エリンは諦めず何度も皇宮を訪れたが、ボロヌジウムを手に入れることはできなかった。しかし、ある情報を入手する。
――ボロヌス溶岩流に魔物が住み着き、ボロヌジウムの採掘ができない。
皇宮の兵士からの情報だ。皇都にて採掘師にも確認を取ったので間違いない。しかもその魔物、やっかいなことにボロヌジウムを食べるそうだ。金属を食べる魔物なんて聞いたこともないが、それが事実であればガテリアは間違いなく困っているだろう。そこでもう一度、エリンは皇帝に会いに行ったのだ。――そして、今に至る。ボロヌジウムを分けてもらう条件、それは溶岩流に住み着いた魔物の討伐だった。
ボロヌス溶岩流に到着し、すぐに立ち入り禁止の札が目に入った。エリンは一瞬足を止めたが、構うことなく先に進んだ。早くしなければ。このときエリンの大半を焦りが占めていた。
魔物の巣はガテリアの採掘師によりほぼ特定されていた。地図通りに足を進めていくと、ある地点で頬を掠める熱風がいっそう強くなる。
「うわ……」
想像以上の巨体にエリンは思わず零す。分類するならドラゴンだろう。しかしその体は生物というよりは人工的で、体を覆う銀のうろこがぎらぎらと不気味に光っていた。
容赦なく吐かれる炎の間をかいくぐって、エリンは剣を振るう。だが、魔物の体に傷が入ることはなかった。反対にエリンの剣はボロボロになってしまっていた。
「え、硬……」
反動が手を痺れさせる。バランスを崩したエリンの体を炎のブレスが襲った。
「エリン! ここは一度戻った方がいいキュ!」
「でも、早くしないとクオードが!」
「落ち着くキュ! そいつは剣じゃ無理だキュ! それにウルベアとガテリアが戦争するまであと五年はあるキュ!」
「……そうだよね」
エリンは刃こぼれした剣をドラゴンに投げつけ、その隙に走った。
「……ごめん。ここで私が死んだら意味なかったね」
「そうキュ! どうせクオードはその辺の木の実でも食べてる頃キュ!」
「……それはそれで可哀そう」
「そのぐらいは我慢してもらうしかないキュ~」
ドラゴンから逃げるのはそう難しくなかった。大きすぎる体のせいか、動きは鈍いのだ。空を飛ばれたらどうしようかと思ったが、それも杞憂だった。
「多分あれ、ボロヌジウムだキュ」
「え?」
「ボロヌジウムは銀色の金属キュ。あのドラゴンのうろこ、エリンも見たキュ?」
「食べるってそういうこと!?」
剣では歯が立たないのも納得だった。となれば呪文でどうにかするしかない。
エリンは皇都に戻り、準備を整えた。杖に限らず炎に強い防具を揃え、万全ともいえる態勢で再び溶岩流へ向かう。少しも恐怖がなかったわけではないが、大切な人を失う怖さの比ではない。
再び立ち入り禁止区間を跨ぐ。高かった杖をぎゅうと握りしめ、首から下げた勾玉を信じて、ドラゴンの気配を探った。
「エリン、いたキュ!」
「キュルルは隠れてて!」
エリンは呪文を唱えた。炎が吐き出されるが、防具のおかげか耐えられない熱さではない。炎が効かないことを理解したのかドラゴンが向かってくる。大した速さではないので詠唱はギリギリ間に合いそうだ。そして氷を呼び出すための最後の言葉が紡がれたとき、ドラゴンの爪がエリンの肩を引き裂いた。
「~ッ!」
「エリン!」
「……だいじょうぶ。……ドラゴンは?」
「心配しなくていいキュ。キミがやっつけたキュ」
「そう……よかった、」
痛みが酷く、膝をついてしまう。手元にはごつごつとした感触。まさかと思い拾い上げてみると、それは銀色に輝いていた。
「キュルル、これ……」
「やったキュ!」
その後エリンは皇宮を訪れ、ドラゴン退治の報告を済ませた。持ち帰ったボロヌジウムを証拠とし、約束通り少量分けてもらう。
エリンはその足でガテリアを後にしようとしたが、キュルルに止められた。傷を癒してから出発した方がいいと、もっともな主張だ。
「でもクオードに……」
「だからクオードはまだ大丈夫キュ」
「違うの……。私が早く会いたいから」
「……エリンはクオードのこと、」
「うん。そうだよ」
「ボクには理解できないキュ……」
エリンはキュルルに向けて笑顔を作ったつもりだった。しかしキュルルがいっそう顔をしかめたので、上手く笑えていなかったのかもしれない。