ガラスの破片を踏みたくなって01

 私と尾形の出会いは決して良いものではなかった。

 街のはずれでの一人暮らしは不便だったが平和だった。母は私を産んだときに亡くなり、父は日露戦争で戦死した。残された家で自給自足の生活を続けること三年。人との関わりは次第に薄れ、寂しく思うときもあった。けれど今さらこの暮らしを抜け出したいとも思わない。しかしその日、平穏は崩された。
 家に突然押し入ってきた男は軍服を着ていた。銃を着物の合わせ目に押し当てられ、ワケもわからないまま体を縄で縛られた。声を出したら殺すと脅され、口には布を詰められた。
 男は銃を片手に時折り外の様子を窺っている。何度もそれが続くうち、日が落ちかけてしまった。
 こんなときでも足は痺れてしまうらしい。もぞもぞと足を動かしていたら、男と目が合う。男の視線が胸元に移動したのがわかった。
 近づいてきた男に着物の合わせ目をグイと広げられる。抗議の声を上げようとしたが、くぐもった音しか出てこない。私が声を上げたのが不満だったのか、男は頬を殴ってきた。最悪の想像をしてしまったけれど、男は着物の中に封書のようなものを押し込んだだけで、そのあとは私から離れて行った。
 それからすぐに男は窓の外に向けて発砲した。その数秒後、男は頭を撃ちぬかれてしまった。
 ……死んでしまったのだろうか。這いつくばりながら男に近づいていると、玄関の戸が乱暴に開かれる。立っていたのは撃たれた男と同じ軍服を着ていて……この男が尾形だった。

 尾形はまず私の口の中の布を取り除いた。は、と息が漏れる。
 尾形は真っ黒な目で私のことを見下ろしていた。何か言われるのを待つべきだったのかもしれないが「あの」と、次に続く言葉もないのに口から出てしまう。
「何だ」
「な……何なんですか、あなたたち」
「こいつは脱走兵だ」
「……あなたが撃ったんですか?」
「そうだ」
 尾形はそう言って、死んだ男の服に手を掛けた。ごそごそと何かを探しているようだ。しばらくその様子をぼうっと見ていたが、ふと胸元に入れられたものの存在を思い出す。
「縄を解いてくれませんか」
 尾形は顔だけこちらに向けた。その迫力に一瞬怯みそうになるが、堪えて言葉を続ける。
「その男、私に何か持たせたんです」
 尾形は男の死体から手を放した。どさりと床に落ち、血が広がっていくのを見ていられず目を逸らす。
 縄を解かれる際に、尾形の左腕の軍服が破れ、血がにじんでいることに気付く。先に撃ったのは死んだ男のほうだったから、そういうことなのだろう。
「腕、大丈夫ですか」
「ああ、それよりも心当たりというのは」
 尾形の口調は決して乱暴ではない。だけど優しい人には見えなかった。本来なら彼を背に封書を取り出したいところだが、怪しまれてはかなわない。そう思って向き合ったまま着物の合わせ目に手を突っ込んだのはどうやら正解だったようだ。「中は」と聞かれて私はブンブンと首を振る。尾形は封書を懐にしまうと、床に放置された死体に目を向けた。
「伏せろ」
「えっ」
尾形は舌打ちして私の上にのしかかって来た。文句を言えなかったのは、そのすぐあとに銃弾らしきものが飛んできたからだ。パリンと鏡が割れて粉々になる。
「ははあ、なるほど」
「な、なに笑ってるんですか!」
「狙撃兵の俺に様子を見てこいと言うんだ。まあ上官だから従ったんだがな、アレも裏切り者だったというわけか」
尾形は楽しんでいるように見えた。その様子にぞわりと悪寒が走る。しかし次の瞬間には家の壁が吹き飛んでしまい、そうも言ってられなくなってしまった。
 強い爆風に目を閉じる。その中でも上にのしかかっていた重さが退いたことはわかった。
「チ、手榴弾まで持ち出していたのか」
 そのあとも何度か発砲音が聞こえた。恐ろしくてとても目を開けられる状態ではなかった。
「おい、死にたくなかったら立て」
突然グイと腕を引かれ立たされる。目を開いて一番に見えたのは、相変わらず真っ黒な目をした尾形の顔だった。次に部屋の隅が燃えているのが目に入った。置いてあった着物に火が移ってしまったのだ。
「そんな……」
「いいから出るぞ!」
私は尾形に手を引かれるまま走った。家から離れた場所で火が強くなっていくのを呆然と眺める。これからどうすればいいのだろう。脱走兵だとか裏切り者だとか言っていたけど、軍が責任を取ってくれるとは思えなかった。

 尾形の手がするりと離れ、私はみっともなく「あ」とすがるような声を上げてしまった。尾形は無表情だった。
「俺は街に戻るが」
 いちおう選択肢は与えられるらしい。望めば街までは連れて行ってくれるというのだろう。でも、
「それだけ?」
納得できるわけがなかった。一度は引っ込んでいた涙がまたポロポロと溢れ出てくる。尾形の腕を掴もうとして一歩踏み出すと、ズキンと足に痛みが走った。
「いっ……」
「ああ、割れた鏡を踏んだのか」
見せてみろ、と言われるので私は木の幹に腰を下ろした。足の裏を男の人に見せるなんて。平時ならそう思っていたかもしれないけど、今はそれどころではなかった。尾形はガラス片や土の汚れを払ったあと、ぐるりと布を巻き付けてくれた。
「歩けるか?」
私はグスンと鼻をすすりながら頷いた。
「……街に着いたらどうするの?」
「お前のことを含め上に報告する。そのあとどうなるかまでは知らん」
事実のみを言えばたしかにそうなるのだろう。しかし全く慰めや謝罪の言葉がないのもどうかと思うのだ。例え尾形が任務を遂行しただけなのだとしても、巻き込まれた側としては文句の一つも言いたくなる。
「同情の言葉とか、言ってくれてもいいじゃない」
「それで満足するのか?」
「……あなたの態度が気に食わない」
「お互い様だな」
尾形は背を向けて歩き出してしまった。仕方がないので後ろからついていく。尾形の背中に向かって何度も文句を投げつけた。基本的に反応はなかったけれど、
「兵隊さんってのは罪悪感も持てないのかしら」
このときだけ、尾形は立ち止まって振り返った。言い過ぎたかなと思っていたら、次の瞬間には尾形が背を向けていたので弁解する間もなく後を追う。
 目的地に着くころには悪口の引き出しもすっかり空っぽになっていた。日はすっかり落ちてしまい「上への報告」とやらは明日に持ち越しとなった。
 とりあえず休める場所をと病院のような建物に通される。寝台のいくつかは怪我人で埋まっていた。目を合わせないように下を向きながら歩いていたけれど、背中に突き刺さるような視線を感じる。中にはうなされている人もいて、ここで眠れる気がしなかった。
 息苦しい思いをしながら歩いていたら、ふとすべての寝台を通り過ぎたことに気付く。尾形は部屋の奥の扉を開いた。その先は狭い個室になっていた。
 小さな椅子と机、それから戸棚があるだけの部屋だった。人が寝るための部屋ではないのだろうが、さっきの部屋よりはいくらか落ち着く。
「好きなほうでいいぞ」
「……ここで」
「だろうな。明日、報告の場にはお前も立ち会ってもらう。それまで寝ておけ」
 尾形は私の返事も待たず戸を閉めてしまった。なんだか急に心細くなってくる。尾形にここにいてもらいたいかというと、そういうわけでもなかったが。
 私は椅子と迷って床を選んだ。横になりたかったのだ。部屋の隅で丸くなっていたら、案外すぐに眠気は襲ってきた。