ガラスの破片を踏みたくなって02
尾形の上官にあたる鶴見中尉という人は、たいへん親切な男だった。軍のいざこざで家を失ったという話に心を痛め、寝食を保証すると言ってくれたのだ。ちょっとした雑務はしなければならないそうだが、次に住むところの目途が立つまで面倒を見ると。私は尾形の隣で鶴見中尉の話を聞いていたわけだが、昨日とは違う意味で泣きそうになっていた。尾形も少しは鶴見中尉を見習ってほしいものだ。
そうした会話の中で、私はようやく尾形の名を知った。尾形百之助上等兵。鶴見中尉よりは下だけど、上等なんてつくくらいだから少しは身分があるのだろうか。私は軍の位のことにはさっぱりだった。
尾形は報告が終わると一礼して部屋を出て行った。私は軍に従事しているという看護婦に連れられ、仕事についての説明を受けた。
私の主な仕事場は炊事場であるそうなのだが、手の空いたときは兵站病院での雑務をということらしい。今はまだ調理の時間には早いため、兵站病院での仕事の説明が先というわけだ。
ここでは備品の在庫管理と入院者への食事の提供をしてほしいとのことだった。治療行為を任されなかったことに内心ほっとする。食事の提供というのは炊事場で出来上がったものを運べばいいそうなので、特段注意することはなさそうだった。
調理についてはさほど苦労しなかった。日常的にやっていたためである。ただ一人で暮らしていたころよりも簡素な食事が多く、張り合いはなかった。
軍の世話になること三日。炊事場から食事を病院に運んでいたところ、寝台に寝かせられた患者が目に留まる。見たところかなり重症のようだ。食事ができるかどうかも怪しい。そっと近づいて様子をうかがって、息が止まるかと思った。怪我人は尾形だったのだ。
「あの……この人は大丈夫なんですか?」
たまたま近くにいた看護婦に容態を尋ねてゾッとする。もう少し遅ければ命を落としていたということだった。私は咄嗟に尾形の手を握っていた。「尾形」と、私は初めて彼の名前を口にした。
当然ながら返事はない。痛々しく巻かれた包帯にそっと指さきを当てる。どうしてこんなことをしているのか、自分でもよくわからなかった。
尾形が意識を取り戻したと聞いて、私は真っ先に病室へ向かった。だけど尾形は眠っていて、聞けば意識があったのもほんの一瞬のことだったらしい。
炊事場に戻ろうとしたら、一人の男と目が合う。男は私のことを睨むような目つきで、つかつかと近づいてきた。
「百之助が連れてきた女ってお前のこと?」
「えっと……はい」
少し言い方が気になるが、人違いではないですよという意味で肯定しておいた。男はフンと鼻で笑う。
「助けてもらったのに被害者ヅラしてるって? 鶴見中尉殿に気にかけてもらってるからって調子に乗るなよ!」
男はまくし立てるように言った。あまりの勢いに、何を言われているのか理解するのが遅れた。敵視されているというのに気付いたのは、男が去ったあとだった。
「宇佐美の言うことは真に受けないほうがいいよ」近くにいた患者さんがそう言ってくれなければ、私はしばらく放心していたことだろう。
その日は宇佐美という男に言われたことがずっと頭から離れなかった。助けてもらった……被害者ヅラ……。確かに縛られているところを助けてくれたのは尾形で、燃える家の中で手を引いてくれたのも尾形で、ここまで連れてきてくれたのも尾形だ。助けられたというのは間違いない。……そういえば、文句ばかり言って感謝の言葉一つ口にしなかった。私が間違っていたのだろうか。家を失ったのは、手榴弾を投げた裏切り者とやらのせいで尾形が悪いわけではない。でも軍の責任だとは思いたい。
とりあえずの結論として、尾形にはお礼を言うことにした。新居の目途を立てながら尾形の回復を待つしかない。
宇佐美は私に会うたびに突っかかってきた。最初は尾形のことで怒っているのかと思っていたが、鶴見中尉の厚意が私に向けられているのが気に食わないのだと三度目で気付いた。「鶴見中尉とは一度しか話してませんよ」と言っても聞く耳持たずだ。私の職場が炊事場でさえなければこうも宇佐美と顔を合わせることもないのだろうが、それこそ置いてもらっている身なので我儘は言えなかった。
それからは病室を訪れるたびに尾形の様子を確認している。今日は液状にした食事を作ってみた。だけど意識のない人間にそんなものを食べさせたら大変なことになると教えてもらって、いま自分で食べている最中だ。まずいわけではないけど、特別おいしくもない。
「尾形~。お腹空いてないの~。私が全部食べちゃうよ~」
汁をまた一口飲んで
「おいしいのにな~」
と続ける。そうしてふと顔を上げると、真っ黒な瞳と目が合って私は悲鳴を上げそうになった。
「尾形! 大丈夫? 何か飲む? あ、誰か呼んできたほうがいいのかな!」
どこから聞かれていたのだろう。まくし立てるように喋ってはいるけど、恥ずかしくてどんどん顔が熱くなってきた。
尾形の視線は私の持っていたお椀に向けられた。……食べさせてもいいのだろうか、わからない。尾形は顎が割れたせいで喋ることができないのだ。
……まあ、何かしら食べたほうがいいだろう。ということで私は汁をすくって尾形の口元に運んだ。尾形がわずかに唇を開いてくれたので、そっと流し込む。あ、食べかけだったな。途中で思い出したけど、無理やり忘れた。
さっきの私の声が存外大きかったらしく、呼ぶまでもなく医者と看護婦が飛んできた。あとは彼らに任せたほうがいいだろう。私は静かに病室から退出した。
その次の日、病室を訪れると尾形は起きていた。相変わらず包帯は痛々しいけれど、昨日よりは元気そうに見える。
たぶん話せないからだろうが、じっと見られているのが若干気まずい。私は尾形に近づいて「どうしたの」と聞いてみた。
尾形は、ふいと窓の外に視線を向けた。べつにどうもしなかったらしい。完全に行き場を失ったような気持ちだ。
「……尾形、じ、じつは言っておきたいことがあって」
そう、私は尾形にお礼を言いたかったのだ。再び尾形と目が合って、私はごくりと唾を飲み込んだ。
「ありがとう……助けてもらったの、お礼を言ってなかったから」
ほんのわずかだが、尾形の首が動いた。頷いたように見えたのは見間違いじゃないと思いたい。
私は嬉しくなって「明日も来るね」と言って病室を出た。だが炊事場に戻る途中でまたも宇佐美に出くわしてしまって、一気に地獄に突き落とされたような気分だ。
私は無駄だと思いながらも宇佐美から目を逸らした。ああ、近づいてきているのがわかる。
「百之助に付きっ切りらしいけど、まさか惚れた?」
「付きっ切りと言うわけでは……。あと惚れたというのも違います。ただ気になって」
「ふうん?」
「宇佐美さんに言われて助けてもらったことを改めて実感したというのもあります」
「どうせ寄生する相手探してるんだろッ! 鶴見中尉殿に引っ付かれるよりマシだけどなッ!」
「はあ……」
どうしてここまで敵視されなければならないのだろう。これが尾形だったら少しは言い返しているかもしれないけど、相手は宇佐美だ。一刻も早く解放されたくて、私はいつも適当に返事をしている。この男がいるから「早く新しい家なり働き口なり見つけなければならないなあ」と、戒めになっているところもあるのだが。
そういうわけで、私はたまに街に出ている。空き家を譲ってくれるような人がいたら一番いいのだが、もちろんそんなに都合よくはいかない。
求人を探しながら歩いていたら、街に見覚えのある姿を見つける。たしか月島軍曹と呼ばれていた人だ。直接話したことはないけれど、目が合ったので向こうも私のことを認識しているのかもしれない。
「どうも、お疲れさまです」
「……買い物か?」
「いえ、いつまでも軍のお世話になるわけにはいかないので……」
空き家か働き口を探していたと言えば、月島軍曹はわずかに首を傾げた。
「結婚という手もあるな。結婚媒介所を使う若者がこのごろ増えているらしい」
「えっ!」
「そんなに驚くことか?」
「さっき宇佐美……さんに寄生とか言われたばかりで、だからか特定の男の人を頼るというのは思いつきませんでした」
「炊事場ではよく働いていると聞いている。それを寄生だとは思わん。このままいてくれたほうが助かると鶴見中尉殿もおっしゃっていた」
「……嬉しいです。でもそれ宇佐美さんの前では絶対に言わないでください」
「そうだな」
必要としてくれているならこのまま軍にいるのもいいかもしれない。一瞬そう思ったけど、宇佐美に一生いびられる未来が見えてしまったのでこの件は一旦保留となった。
尾形は医者も驚くほどの回復力を見せていた。今ではすっかり話せるようになって、食事も固形物がほしいと言ってくるくらいだ。弱っている尾形は可愛げがあったのになあという気持ちはあるものの、元気になっていく姿を見ているのは気分がよかった。
「尾形は何が好物なの? 私に作れそうなものだったら今度持ってくるよ」
「……」
「思いつかない?」
「尾形上等兵は茨城の出身で、確かあんこう鍋がおふくろの味だと言っていなかったかな?」
話に入ってきたのは鶴見中尉だった。彼も尾形のお見舞いに来たそうだ。
「あんこうってこの辺りでも売っているんでしょうか? 私は食べたことがなくて」
「食材として一般的ではないが、魚自体は北海道でも捕れるそうだよ」
「そうなんですね」
尾形が何も言わないのが少し気がかりだったが、鶴見中尉が尾形と二人きりで話がしたいというので私は出ていくしかなかった。
「尾形、今度街に出たときにあんこうが売ってないか探してみるね。では鶴見中尉、失礼いたします」
「ああ、すまないね」
にこりと笑った鶴見中尉を見て、やっぱり優しい人だなあと実感する。それから私は仕事へ戻り、あんこう探しは明日にすることにした。