ガラスの破片を踏みたくなって 延長戦01
隣で無防備に眠る女を横に、尾形はハアとため息をついた。
ここはかつて尾形と女が出会った近く、北海道の小樽の街の外れにある木屋だ。茨城、東京と観光して最終的に北海道に戻ってきた二人は、運よく空き家を譲ってもらったのである。
小樽に戻ってきてすぐのことだ。金塊を追っていたときのように野宿をしていたら、身なりの良い男に声を掛けられた。彼の両親が亡くなり、この近くに空き家があると。そんな上手い話があるかと尾形は疑ったが、最終的には頷いた。万一何かあったとしても対処する自信があったのである。だが、今のところ何も問題は起こっていない。
小樽へ戻ってきたのはこの呑気な女を思ってのことだった。東京で美味いものを食べ歩いていたら、金がいくらあっても足りなくなる。それなら茨城か北海道でのんびりと暮らすほうが性に合っているという話になったのだ。そこで北海道に決まったのは、女の顔色がわかりやすかったからだ。生まれ育った故郷を離れるのは寂しかったのだろう。北海道へ帰るかと提案したときの女の顔は、それはそれは見物だった。
すべてが順調……と思いきや、そういうわけでもない。尾形には一つ悩みがある。まあ悩みと言えるほど大したものではないのかもしれないが、
――こいつは俺の妻でいいのか?
ずっと一緒にいると口約束を交わしたものの、妻と呼ぶには確信がなく、恋人であるかどうかすらも怪しい。何せ口づけをしたのも網走での一度限り、しかも尾形が無理やり奪ったものだ。好きと言われることは多々あるが、好きって何だ。犬や猫に対して抱く感情と同じじゃないだろうな、と尾形は一人で悶々としているのだ。
「あ、おはよう尾形」
「……おはよう」
むくりと起き上がった女は、ぼんやりとした目のまま外へ出て行った。顔でも洗うのだろう。もぬけの殻となった布団を眺めながら、尾形は髪を撫でつける。
そう、この女「尾形」と未だ呼ぶのだ。尾形を悩ませる原因の一つがこれだ。夫婦ならば普通、そんな呼び方はしないだろう。だが尾形はその呼び名にはある種、女からの情を感じ取っていた。そのため呼び方を変えてほしいと言い出すこともできず、また一つため息が増える。
外から戻ってきた女は尾形に身をぴたりと寄せて座った。おい、どうしてそういうことをする。無遠慮に寄りかかってくる肩を抱くと、女はへらりと笑った。実際、これはよくあるやり取りだ。しかしそのたび尾形は考える。「これは正解だったのか?」と。
つまるところ、尾形はもっと女に触れたいと思っていた。しかし方法がわからない。何せ今まで女を好きになったことがないのだ。
「もう一回寝ちゃう?」
「何のために顔洗ってきたんだよ」
「だって~……尾形は? お腹空いてる?」
「いや、別に」
「じゃあもう少し」
勢いよく布団に寝転がった女に引っ張られて尾形もその隣に並ぶ。布団の中で抱きしめられてしまえば眠気が襲ってくるものだ。
――まあ、これはこれでいいか。
いつまでたっても先に進めない理由がこれだった。もっと触れ合いたいという気持ちが半分。もう半分は、今のままでも十分だと思っている。失敗するかもしれないならこのままでいい。何なら彼女のほうからきっかけを与えてくれないものかと思っているくらいなのだ。
結局のところ、起きたのは昼前だった。今日は街に毛皮を売りに出ることになっている。それから弾の補充もしなければならない。
女に目のことを言ったことも聞かれたこともないが、いつの間にか右側を陣取るようになっていた。だが「尾形はすぐいなくなるから」と手を引くのは勘弁してほしい。おかげで街で冷やかしの声を何度掛けられたことか。
「売れてよかった~。ねえ、お団子買って帰らない?」
「毎回言ってねえか?」
「だって甘いものは作るの難しいし……」
いいでしょ? と見上げる女に、尾形は毎回頷いて返している。どうしてこんなことになってしまったか。惚れた女に頭が上がらないとは、よくもまあ言ったものである。
みたらし団子二つが入った包みを大事そうに抱えて上機嫌で歩く女を眺めるのは、もはや恒例行事になってしまった。茶屋でそのまま食べることも何度かあったが、あそこは第七師団の連中になぜかよく鉢合わせをする。実際、街中ですれ違うことも少なくなかった。しかし今のところ害はない。聞くところによると鯉登の坊ちゃんがなかなか頑張っているようだが、今となってはもはやどうでもいいことだ。まあ、応援する気はさらさらないが。
団子を頬張る女の姿を一人占めするのは悪くない。そんなに好きならと一つ自分の串の団子を差し出したこともあったが、それはダメだと言われてしまった。どうしたら喜ばせられるのかわからない。ただ、おいしいかと聞かれて「美味い」と答えたときの顔が、一番それに近かった。
「……美味いな」
「うん、おいしいね~」