ガラスの破片を踏みたくなって 延長戦05

 朝からバタバタと慌ただしい。尾形はとっくに起きているというのに狸寝入りだった。これには理由がある。つい二日前のことだ。

「尾形の誕生日はいつなの?」

これがたまたま誕生日の二日前だった。聞かれたから答えたのだ「明後日」と。女は目を見開いて、嬉しさと焦りが混じったような顔をしていた。
 それからというもの、家の隅でコソコソやっているかと思えば買い物にすらついて来るなと言われる始末だ。あまりに必死なものだから気付いてない振りをしてやった。今だって起きようと思えばいつでも起きられる。だが付き合ってやっているのだ。
 誕生日を祝われるのが初めてというわけじゃない。頭がおかしくなる前の母は、一つ大人になったねと喜んでくれた記憶がある。誕生日の思い出というのはそれくらいのものだ。軍に入ってからはそんな話題にすらならなかった。
 なに、ただその日に生まれたというだけだ。特別なことじゃない。それなのに背中がムズムズするのはなぜだ。

 女は料理を作っているようだった。どうせ、あんこう鍋だ。それもしいたけ抜きの。
 ひたすら寝た振りの尾形を背に女は鼻歌を歌い始めた。おいおい俺が起きたらどうするつもりだよ。これで気付かれないと本気で思ってやがるのか。棚の中に何か隠してるのだって本当は知ってんだぞ。
 寝返りを打ってこっそり目を開くと、やけに楽しそうな女の姿があった。笑いそうになるのをこらえながら、再び目を閉じる。鍋はもうすぐ出来上がりそうだ。
 さていつ起きようか。準備が終わり次第起こしてくれればいいのだが、せっかくだからといつまでも寝かせられる気もする。遠慮があるのかないのかわからんやつなのだ。

 初めて会ったとき、ずいぶん気の強い女だと思った。軍服の男につっかかる女なんて街中探してもなかなか見つからない。まあ家が燃えてヤケを起こしていたのかもしれないが、面倒だと思った記憶がある。
 鶴見中尉に会って迷いなく「いい人でよかった」と言ったことには腹が立った。しかし同時に笑えもした。何もわかっちゃいないな、と。
 杉元のせいで入院する羽目になり、意識が戻ると女はしおらしくなっていた。助けたことについての礼は確かここで初めて言われた。それから女はたびたび病室を訪れた。鶴見中尉や宇佐美のせいで余計なことまで知られて、しかしそれすらもどうでもよかった。
 気付けば尾形と呼ばれるようになっていた。他のやつには階級や敬称をつけて呼ぶくせに、なぜか自分だけ尾形だった。軍に所属するやつだったら訂正させたが、これもやはり面倒で放置した。今ではそれでよかったと思っている。彼女に尾形と呼ばれるのが一番しっくりくるのだ。これは口が裂けても言えないが。

 軍を出るとき女を連れて行ったのは本当に気まぐれだった。銃を扱えるという情報がなければ縛ってその辺に捨てていたことだろう。どうせ脱走したことはすぐに広まる。目撃されたからといって連れて行く理由にはならない。だが、銃を撃たせれば弾避けになるかもしれないと思ったのだ。
 雪の残る山で一夜を明かすとき、どうして弟を殺したのかと聞かれた。よくもまあズケズケ聞けるなと思ったものだ。よく言えば純粋、悪く言えば怖いもの知らず……誰かさんによく似ている。
 その日は女と身を寄せ合いながら眠った。拒まなかったのは寒かったからだ。

 そして次の日、女は本当に弾避けとして機能した。女が生きているのはわかっていたが、ここまでだ。視界の隅に悪霊がちらちらと見え隠れするのを無視して三島を撃った。二階堂の脱落は思ったよりも早かったが、一人になったところで計画は変わらない。このときはまさか女と再会するなんて思ってもみなかった。
 炭鉱で再会したとき、やはり気が強い女だと改めて実感したものだ。しかし、わからなくなってしまった。炭鉱の中でダイナマイトが爆発したとき、女は「先に行って」と言ったのだ。
 その顔は置いて行かないでほしいと訴えてくるかのようだった。それなのに真逆のことを口にするから苛立った。善良であることに酔っているんじゃないか。気付けば女の腕を掴んで歩いていた。
 答え合わせは炭鉱を出てすぐだった。死ぬかと思ったと泣き出した女に、苛立ちを通り過ぎて呆れを覚えた。「尾形に死んでほしくなかっただけなのに」あのときの泣き顔はまだ鮮明に思い出せる。

 女は弾避けにされたのかとわざわざ確認するために夕張まで来たと言った。その通りだと答えても女は怒らなかった。もはや理解しようとするほうが無理なのかもしれないと思ったのはこのときだ。
 網走までは集団行動だったが、不思議と女と話す機会が多かった。……いや、一人になろうとしても女がそうさせてくれなかったのだと言ったほうが正しいかもしれない。
 女は事あるごとに話しかけてきて、そのたび少しずつ自分の内側に入ってきているのがわかった。悪い心地はしなかった。だが何度も見ない振りをした。そして網走ではとうとう手放すのが惜しくなって、失敗してしまったのだ。
 やはりダメかと、後悔よりも諦めに近い感情だった。すべて忘れようと思った。それなのに――。

「ねえ尾形、起きて」
身体をゆすられて目を開けば、女がにこりと笑っていた。ああ、ようやく準備が整ったのか。
「お誕生日おめでとう。尾形に会えてよかった。生まれてきてくれてありがとう」
……まあ、年に一度ならこんな日も悪くない。