ガラスの破片を踏みたくなって 延長戦04
――雨だ。
家に一つしかない傘が玄関に立て掛けられているのを尾形は頬杖をつきながら眺めていた。ザアザアと音が激しくなってくる。家の中には他に誰もいない。ハアとため息をついて尾形は立ち上がった。
確か今日は魚の干物を買いに行くと言っていた。それならあの辺りか、と尾形は頭の中で見当をつける。またいつかのように長話に花を咲かせているなんてことはないといいが。
傘を片手に戸を開ける。ちょうど目当てと鉢合わせになり、尾形は意味もなく傘を背中に隠した。彼女は濡れた髪で呑気に「出掛けるの?」などと聞いてきた。そんなわけないだろうが。
「……いや、別に」
そっと傘をもとの位置に戻す。しかし目ざとくそれを発見した女は、キラキラと目を輝かせながら尾形を見上げた。
「散歩にでも行く?」
こうなってしまえばもう自分の負けであると尾形は頭の隅で理解していた。しかし、すんなりと頷けないのが尾形である。一度は否定しておかないと、どうしても気が済まないのだ。
「なんでわざわざこんな日に」
「行こうよ~」
女は尾形の腕をぐいぐいと引く。これは自分の意見が通ると確信しているときの顔だ。まったく、なんでこうなってしまったんだか。
「は~……先に髪拭いとけよ」
「うん!」
満面の笑みで頷く女の背後に尻尾が見えた気がした。犬だったらブンブン振り回していることだろう。
干物を棚に置いた女はあろうことか手拭いを差し出してきた。……何だよ拭けってか? 髪を乱さないようふわりと包んで軽く叩けば女は満足そうに、しかし頬を赤らめる。「ありがとう」ってお前がやらせたんだろうが。
尾形が傘を差し、その隣に女が入る。濡れないようにするためか、それ意外の意図があるのか不明だが、女はぴたりと身を寄せてきた。非常に歩きづらい。目的地もないただの散歩だ。雨の日にそんなことをするなんて本当にどうかしている。
行く先々で女は尾形の腕を引いた。「綺麗な花が咲いてる」「鳥が雨宿りしてる」「カエルがいた」尾形にとっては一つ残らずどうでもいいことだった。だが女が楽しそうにしている姿を見るのは不思議と飽きない。
「尾形ってさ」
女はぴたりと足を止めた。急に止まるな濡れるだろうが。
「本当はすごーく優しいよね」
「……お前にはな」
にやりと笑ってやると、女は目を真ん丸にした。反撃が来るとは思っていなかったらしい。気分をよくした尾形は女の頬に張り付いた髪をすくいとった。女は途端に勢いをなくして、しゅんと小さくなってしまった。こういうのは照れを感じたほうが負けであるというのが最近の尾形の気付きだった。
「どうした? もう帰るか?」
「……もう少し歩いてもいい?」
「お前がそうしたいなら俺は構わんよ」
「尾形はすぐ調子に乗るんだから」
「それはお前もだろ」
再び歩き始めると、傘を持つ手に女が腕を絡ませてきた。こんな雨の日に浮かれているのはいったいどこの馬鹿だ。
家に帰るころには互いの肩はぐっしょりと濡れていた。尾形は何度か女のほうに傘を寄せたが、そのたびに女がムッとした顔で跳ね返すのだ。
「けっこう濡れちゃったね」
「そりゃそうだろ」
女はパタパタと家に上がり、火鉢に火をつけた。手招きされるより先に尾形も火鉢に近づく。雨で冷えた身体にじんと染みわたるような熱だった。
「あったかい」
「そうだな」
「夕ご飯は何が食べたい?」
「昨日採った山菜の味噌汁とそこにある干物」
「今それしかないもんね~」
女がけらけらと笑う。何がそんなに面白いんだか。
「今度、晴れたら罠を仕掛けてみない? アシリパさんがよくやってたやつ」
「何が食いたいんだよ」
「リス」
「そりゃ銃じゃ無理だよな」
「すぐそういうこと言うんだから~」
わざとらしく落ち込んだ振りをすると女が頭をぐしゃぐしゃと撫でてくる。……そんなにリスがいいのかよ。ま、お前が言うなら罠を張るくらい朝飯前だがな。