左様なら、また来世で01
※明治で結ばれないまま夢主が死に、現代へ転生という話です。
「杉元佐一さんですか? 好きです、付き合ってください」
会社からの帰り道、突然現れた女を前に杉元は困惑した。女が誰だかわからない。しかし名前を、しかもフルネームで知られている。
女はとても落ち着いていて、大人びて見えた。だからこそ杉元は余計に頭が混乱した。
「すみません、どこかでお会いしましたっけ」
「……いいえ、初めてお会いしました」
***
「鶴見中尉、なぜ私が」
「不満かね?」
「いえ、とんでもありません」
女はぴしゃりと背を正して言った。軍服を身に纏う彼女は正確には軍人でない。しかし、鶴見中尉の命令には従う立場であった。理由を問えば、女は「鶴見中尉に恩があるから」と、鶴見中尉は「彼女が有能だから」と答える。
彼女は他の軍人からは遠巻きにされていた。なぜかって、女がいるのが珍しいからだ。しかしそのほとんどが近づく勇気を持たない。噂があるのだ。彼女に手を出そうとして完膚なきまでに打ちのめされた男の噂が。ただし噂が本当かどうかは女にしかわからない。我こそが噂の、と名乗る男がどこにも存在しないのである。
アシリパを取り戻すための先遣隊。杉元と谷垣に同行することになったのが月島軍曹と鯉登少尉とその女であった。女はなぜ自分が指名されたのかと疑問に思っていた。だが鯉登少尉のようにあからさまな態度はしない。それとなく鶴見中尉に聞いたつもりがはぐらかされてしまった。……となれば行くしかない。
「尾形もキロランケもぶっ殺してやる」
まるで呪詛を唱えるかのような杉元を横目に、女は病室を後にした。やれやれ先が思いやられる、と思っても口にはしない。
樺太行きの船の上で杉元が鯉登少将と話しているのを、女はただ眺めていた。監視をするなら杉元か谷垣のどちらかだと思ったからだ。谷垣に関しては先ほど、月島軍曹たちと話しているのを見かけた。それなら杉元をと探してすぐに、甲板に行きついたのだ。
話が終わったらしく、二人が歩いてくる。少将に向けて敬礼をした。すると杉元が立ち止まって口を開いた。
「あんたは軍人じゃないって聞いたけど、それじゃあなんでこんなことしてんだ?」
「鶴見中尉に恩を返すためです」
「恩ねえ……」
杉元はその場に腰を下ろした。まさかここで話をするつもりなのか、と女は度肝を抜かれた。鯉登少将はすでに行ってしまったあとだ。
「恩って何?」
「私に興味がおありですか?」
「ないけど、暇だし」
「暇つぶしですか。まあいいでしょう。すぐに終わる、それもつまらない話ですから」
女は杉元の隣に座った。片膝を立てて肘をつく。冷たい潮風が重い髪の束を持ち上げた。
「鶴見中尉に初めて会ったのは東京です。十年も前のことです。私は強く頭を打っていたらしく、入院していたのです」
「らしくって覚えてねえのかよ」
「ええ、私にはそれ以前の記憶がありません」
ええ、と声が上がる。が、女は無視して話を進めた。単に反応するのが面倒だったのと、早く話を終えたかったからだ。
「私が気を失っていた近くには男女の遺体があり、二人とも私に覆いかぶさるように倒れていたそうです。おそらく両親だろうということでした。物盗り……というか強盗だったようで、犯人はすでに捕まっています」
「酷い話だな」
「そして私は鶴見中尉について行くことにしたのです」
「……いま絶対端折ったよね?」
「まあ、暇くらいは潰せたのではないですか?」
杉元は口をもごもごと動かした。気まずそうな顔をしている。それが可愛らしく見えて女はくすりと笑った。女は両親の記憶がない。だからこの話をしても傷つきようがない。記憶にない両親より鶴見中尉のことが好きなのだ。
杉元は頬を掻きながら女と海をちらちら見比べた。
「あー……そうだ、名前は? 鶴見中尉に聞いたような気もするんだけど」
「俺は杉元佐一」と今さらな情報が与えられる。女はその礼儀に返した。意外だったのは、名乗ったときの杉元の反応だ。
杉元は女にずいと顔を寄せた。いつもだったら引っぱたいている距離だ。しかし、できなかった。杉元の目が純粋だったからだ。
女は耐えられなくなって視線を逸らした。これではまるで少女の反応だ。杉元から距離を取ろうと仰け反って後ろに手をつく。「やっぱりそうだ」何がだ。とんでもなく恐ろしいものが迫ってくるような恐怖を感じた。
いつの間にか息を止めていたらしく、酸素を求めて自然と口が開く。は、と聞こえた吐息は自分のものでないような音をしていた。
「やっぱりなまえちゃんだ。俺のこと覚えてない? 昔よく四人で遊んだよね、俺と寅次と梅ちゃんで」
「ち……」
ぞわり、と体中の毛穴から汗が噴き出すような気味の悪さがあった。杉元佐一は誰の話をしている。自分でも知らない自分を知られているというのは、こうも不愉快なものなのか。
杉元が東京出身であるという情報は事前に知らされていた。だからこそ杉元の言っていることが真実なのではないかと、言いようのない不安が押し寄せてきた。
「違う!」
立ち上がったなまえはフーフーと荒い息で杉元を威嚇した。
「違うって覚えてないのに?」
杉元は胡坐をかいたままなまえを見上げた。彼女を怖いとは思わなかった。野良猫が必死に周囲を威嚇しているような姿をむしろ可愛らしいと感じた。久々に再会した幼馴染の変貌に驚きはしたものの、会えて嬉しいという気持ちのほうが勝っていたのだ。
杉元はなまえの境遇に同情したが、それを表には出さなかった。彼女がそれを望んでいないと思ったからだ。
なまえの家族が殺されたというのは知っていた。いなくなった彼女のことも死んでしまったのだろうと思っていた。だが、再会できた。思い出してほしいという気持ちがいかに自分勝手であるか、自覚はある。それでも杉元は彼女の中に昔の面影を探した。
なまえはなまえで次第に落ち着きを取り戻しつつあった。何たる失態。ン、と咳払いをして何事もなかったかのように杉元を見下ろす。
「過去を捨てたいわけではありません。ですが今の私が私なのです」
「今のなまえちゃんも昔のなまえちゃんも、なまえちゃんそのものだと思うけどなあ」
「まあ、事実そうなのでしょう。しかし思い出せないものは思い出せません」
「俺と話してたらそのうち思い出すかもよ?」
「では成り行きに任せるということで」
「全然思い出す気ないんだもんなあ」
「気持ちでどうこうできるものではないでしょう」
へらりとした顔で笑う杉元を前に、なまえは困惑していた。当初の予定として、慣れ合うつもりなど一切なかった。それなのに蓋を開けてみれば……というところだ。
杉元に名前を呼ばれるたびに胸の奥で何かが引っかかる。それが不快で仕方ないのに、見ない振りもできない。なまえは奥歯を固く噛みしめた。油断するとまた取り乱してしまいそうで、しかし杉元にすがることもできなかった。