左様なら、また来世で02

 ふうとなまえはため息をついた。樺太に着いて早々、チカパシという子供が同行することになったかと思えば、さらにもう二人。樺太アイヌの女の子とそのおじいさんだ。まあ、犬ゾリはありがたいなと内心でなまえは思っていた。ところがその犬が盗まれたという。

 杉元たちはスチェンカという殴り合いの競技に参加することになった。犬を盗んだロシア人がそうしろと言ったからだ。聞き込みをしているときに杉元が殴った男がスチェンカの参加者であり、このままでは賭けた金がパアになると盗みを働いたのだ。
 もちろん杉元たちも最初は出る気はなかった。しかしそこに刺青男の話が加わった。興味がある相手がいなければスチェンカに参加しないというその男を引きずり出すため、杉元は参加を決めた。あとの三人はロシア人に煽られて、である。
 外は雪が積もっているというのに、会場内には熱気がこもっていた。観客のヤジもなかなか白熱している。なまえは傷跡だらけの杉元の上半身をぼうっと眺めていた。
 スチェンカは杉元たちの勝ちで終わった。というのにも気付かないくらいなまえは放心していた。
「なまえちゃん、勝ったよ」
「……ああ、おめでとうございます。刺青の男は現れませんでしたね。」
「どこかで見てるだろうって話だから、次は出てくるんじゃないかな」
「……男の人はケンカが好きですね」
「なまえちゃんはこういうの嫌いだった?」
 なまえは背中や腕に虫が走るような心地だった。昔の友人として、何のためらいもなく接されるというのが不思議で仕方がない。というかやめてほしいと伝えたにもかかわらずこうなのだ。「話してたらそのうち思い出すかもよ」という杉元の主張を跳ねのけなかったことが悔やまれる。
「嫌いだったら軍の近くにはいないでしょう」
「いや、我慢してるんじゃないかなって」
「昔の私はそういう子でした?」
 杉元は困ったように笑った。
 なまえは思い出したくて聞いたわけではなかった。興味が湧いたわけでもない。昔の自分を重ねるなと釘を刺したのだ。
 次のスチェンカの日程までなまえたちは村に滞在することになった。といってもスチェンカはほぼ毎晩のように行われているようで、酒場の二階で一晩寝ればすぐに次の試合の話が舞い込んでくる。
 そして刺青男は会場に現れた。しかしなまえは試合の結果も見届けないまま外へ出た。子供二人の姿が見当たらないのだ。
 なまえはまず酒場へ向かった。だが、入り口には鍵が掛かっている。周囲の住民もスチェンカの会場へ赴いているらしく、辺りは静かだった。
 しばらく歩き回っていたら、小さな影がそこそこの速さで動いているのを見つけた。近づいてみてなまえはおや、と感心する。どうやら子供二人で犬を取り返してきたらしい。チカパシとエノノカは犬にソリを引かせていた。殴り合いのケンカなんかしている男たちよりもよほど役に立っている。しかしなまえが二人に声を掛けようとしたところで、もう一つ大きな影が近づいてきた。
 明らかに尋常でない杉元の様子に、なまえだけでなく子供たちも危機を察したようだ。子供たちはそのまま犬にソリを引かせて逃げている。なまえは杉元の前に立ちはだかろうとしたが、そこにまた邪魔が入る。クズリが襲い掛かってきたのだ。
 なまえはクズリの腹に蹴りを入れたが相手はビクともしない。なまえはチカパシの背負っていた銃に手を伸ばした。しかしそれよりチカパシが銃を構えるほうが早い。いつの間にか現れた谷垣に支えられながら、チカパシはクズリの頭に銃を撃ち込んだ。

 そこはなまえにとって目も当てられない光景だった。谷垣を始めに次々と全裸の男が現れるのだ。そうして場外スチェンカが始まったかと思えば、彼らの足下の氷が割れて湖に落下する。男たちはそそくさと近くの小屋に走って行った。
 追いかけたのは、なまえの中に心配する気持ちがあったからだ。しかし小屋の窓から中を覗いて後悔する。小屋はロシア式の蒸し風呂だったようで、男たちはなまえの心配も知らず中でくつろいでいた。なまえは一人で先に酒場へ帰った。馬鹿馬鹿しくなったのである。幸い店には店主が先に戻っていて、中に入ることはできた。
 店主は明らかに不機嫌だった。頬杖をつきながら、なまえを見るなり舌打ちしたのだ。なまえがつたないロシア語で理由を聞いてみれば、杉元の大暴れのせいで八百長が台無しになってしまったという。場内は大混乱で賭けどころではなくなってしまったから、賭けはうやむやになってしまったらしい。まあ昨日の儲けがあるからということで、一応は許してもらえるようだ。
 しばらくして戻ってきた男たちになまえは軽蔑の目を向けた。だが彼らはきょとんとした顔をしている。
 杉元はなまえに声を掛けようとしたが、彼女が背を向けて寝ころんでしまったので諦めた。「ちんちん見たから恥ずかしくなったんだよ」チカパシの慰めにもならない慰めに、杉元は図体に似つかわしくない悲鳴を上げた。

 翌朝、杉元は遠慮の混ざる声でなまえに声を掛けた。
「……見た?」
「何をですか?」
「えっとぉ……」
 モジモジとはっきりしな杉元の態度になまえは苛立ちを覚えた。だが同時に胸の奥に何か引っかかるものがある。苛立ちとは違う感情だ。しかし、上手く言い表すことができない。
 なおも煮え切らない態度を続ける杉元の言いたいことを、なまえは何となくだが察した。
「見えましたよ。裸でしたからね」
「忘れて!」
「どうやって?」
 少し、なまえの中に加虐心が沸いた。ぽかんとする杉元を前にそれはむくむくと育っていく。笑ってしまわないように唇に力を入れて、後ろで手を組んだ。そしてぎゅっと爪を腕に食い込ませるのだ。
 なまえは杉元がムキになるかと期待していた。しかし杉元はしおらしい態度を取ってくる。
「ていうかごめん、本当はそのことじゃなくて……取り乱して迷惑掛けたから」
「いいえ。迷惑はまあ……そうですけど、次は月島軍曹が許さないでしょうから気をつけてくださいね」
「怪我はなかった?」
「ありませんよ」
「そう、よかった……」
 にこ、と杉元が笑う。なまえはバツが悪くなって杉元から目を逸らした。これじゃあ自分が悪いみたいだ、と。