1話

 夜の雨の音に紛れて戸を叩く音がした。アネットが動かずにいると、もう一度。
 東の国でもとりわけ辺境の地であるこの森を訪れるものは少ない。来客などあるはずがなかった。しかし外から、確かに人の声が聞こえる。恐る恐るアネットが戸を引くと、ずぶ濡れの男が五人もいた。
「……すまない、病人がいる。中に入れてもらえないか」
サングラスの男が言った。確かに一人、背負われている男がいる。意識もなさそうだった。この雨の中、野宿をさせるのは気の毒だ。しかし、アネットにも言い分はある。
「いきなりそんなことを言われても困る」
「まあ、そうだよな」
病人を背負った男が軽い口調で言う。サングラスの男と金髪の少年は諦めたようだった。しかし、黒髪の赤い目をした少年は不満そうな目をしている。「おい」と一歩家の中に踏み込んできて、金髪の少年がそれを制した。
「シノ、彼女にも事情があるよ」
シノという少年は納得していないようだったが、それ以上何か言ってくることはなかった。「他をあたろう」というサングラスの男の意見でまとまったらしく、五人は去っていった。
 アネットは戸を閉め、床に座りため息をついた。視界の隅には、雨粒が滝のように流れる窓。今日は特にひどい雨だ。そして、この近くに人の住まいがないことはアネットもよく知っている。
 戸を開けてみても、もちろん男たちの姿はない。勢いよく雨が降り込んできて、あっという間に床が濡れる。男たちが去ったであろう方向には、ぐちゃぐちゃになった足跡が残っている。
 少し、罪悪感があった。悪いことをしたと思っている。しかし男を、しかも五人も家の中に招き入れるなんてできなかった。だが本当にアネットが心配しているようなことが起きるなら、彼らはあっさり引き下がらなかっただろう。彼らに悪意がないことはアネットも感じ取っていた。
 身震いする寒さだ。一歩外に出ただけで、体の芯から冷え切ってしまう。滑らないようにゆっくりと、アネットは彼らの足跡を追った。
 靴底からぬるりと泥が入ってくる。使い古した靴も服もとっくの昔に限界をむかえている。それでもアネットにはこれしかなかった。アネットは一ヶ月以上、人里に出向いていない。
 しばらく歩くと、洞穴が見えてきた。足跡はそこに向かっている。中の様子をうかがおうとして、バチッとおでこに電流が走った。
「……いっ!」
跳ね返されて尻もちをついてしまう。最悪だ。服が泥だらけになってしまった。
 立ち上がろうとして、さっきの男に見下ろされていることに気付いた。……シノと、サングラスの男だ。
「何してる」
シノは険しい目つきで言った。よく見ると、鎌のようなものを持っている。
「……シノ、鎌を下ろしなさい」
「なんでだ」
「危険がないからだ」
しぶしぶといった様子でシノは鎌を下げた。しかし、どうしても鎌の行く先を目で追ってしまう。やっぱり来なければよかった。彼らに悪意がないなんて、なぜそんなこと考えてしまったんだろう。
 サングラスの男が手を差し出してくる。
「立てるか」
「……おいファウスト、なんでこんなやつに親切にする」
「親切じゃない。僕たちを心配して追いかけてきた彼女のほうがよっぽど親切だ」
「そうなのか?」
アネットは答えられなかった。気になって追いかけてきたというのは本当だが、追い返してしまった手前、言いづらい。
 ファウストと呼ばれた男の手を掴まなかったのは、自身の手が泥だらけだったからだ。彼の手袋は雨にこそ濡れているが、汚れはついていない。自力で立ち上がったところ、ちょうど中からもう一人出てきた。
「ネロ、賢者の様子を見ておくよう言っただろう」
「賢者さんにはヒースがついてるよ。戻りが遅いから何かあったのかと思って……」
ネロはアネットを見てぎょっと目を丸めた。
「あんた……大丈夫か?」
大丈夫とも大丈夫じゃないとも言いたくなかった。心配されるために来たわけじゃない。アネットは首を振って元来た道にかけ出した。
 ――べしゃり。
 ぬかるんだ土の上を走れるはずもなく、顔から泥水に突っ込んでしまう。前も後ろも泥だらけになってしまった。
「どうする?」と後ろは相談している。「中に入れたほうが」「送って行こう」「オレが行く」「危ない」ひどい雨の音がしているのに、会話ははっきりと耳に入ってくる。
「おい」
アネットに声を掛けたのはシノだった。
「オレがお前を家まで連れて行く」
シノはアネットが立ち上がるのを待って、それからすぐにぐちゃぐちゃになった足跡の上を歩いて行った。シノの行く先は、彼の持つ明かりのおかげでしっかりと照らされている。
 アネットは連れたっているとはいえないほどの距離を置いてシノの後ろを歩いた。シノは迷うことなくアネットの家へ向かっている。
 少し進んだところでシノは振り返って立ち止まった。アネットは一瞬足がすくんだが、歩みを止めることはしなかった。ようやく会話ができそうなところまで来て、シノは小首をかしげた。
「歩くの早かったか?」
「え……」
予想と正反対の言葉が飛んできて、間抜けな声が出てしまう。シノには敵意を向けられていると思っていた。それがどうして、気遣うような言葉を掛けてくるのだろう。
「……大丈夫」
「なら行くぞ」
シノは再び歩き出した。今度は距離を空けることはせず、アネットはその後ろについた。

 家の前まで着いたときには、雨で泥もかなり落ちていた。
 シノは顎をしゃくって中を指した。
「手当てするから泥を落として服を着替えろ。外で待ってる」
「……いい。送ってくれてありがとう」
「手当てまでするようにファウストに言われてる」
「したって言えばいい」
「なんでそんなに拗ねてるんだ」
「……拗ねてない」
「いいから着替えろ」
中に入ろうとしないアネットを追い越してシノは戸を押した。アネットはシノの腕を掴んで止めようとしたが、あっさり戸は開いてしまった。小屋の中を見たシノは言葉を失っている。
 小屋の中にあるのは、薄い布切れと少しの果物。すべて床に置いてあって、本当にそれだけ。扉には鍵もついていない。もちろん着替えなんてものはなかった。
「……なんだ、これ」
ようやく発されたシノの言葉に、アネットは胸をえぐられたような感触を得た。
「ここに住んでるんじゃないのか」
「……住んでる」
「人が住めるような場所じゃない」
シノの言葉は事実だった。アネットもとうに限界を感じていた。だが、どうしていいのかわからない。頼れる人もおらず、お金を稼いだこともない。現実を突きつけられたアネットは、ただ泣くことしかできなかった。
 アネットが泣いている前で、シノは不意に上着を脱いだ。雨をたっぷりと吸い込んだそれを絞り、アネットに差し出す。
「≪マッツァー・スディーパス≫」
上着がぶわりと風になびいた。シノに押し付けられた上着は心なしか水気が飛んでいる。
「オレは魔法使いだ。これを着ろ」
「……いみが、わからない」
彼らの中に魔法使いがいることはアネットもうっすら気付いていた。洞穴に入ろうとして弾き飛ばされたのは、魔法のせいだろう。だが、シノが魔法使いであることとアネットが着替えることに、繋がりは感じられない。
「わからなくていい。早くしろ」
シノはアネットを小屋に押し込み、戸を閉めてしまった。
 ここまでされて、着ないという選択肢は選べなかった。アネットは服をすべて脱ぎ、畳んでおいた布で体を拭いた。できればこの布は綺麗なままにしておきたかったが、泥のついた手でシノの服を着ることもできなかった。
 シノの服はアネットの体の上から太ももの半分あたりまでをすっぽりと覆った。着替えたなら、早く戸を開けるべきだ。アネットがそうっと戸を開くと、シノは残りを自分で開いて中に入ってきた。
 シノはうす緑の液体が入った瓶をアネットに渡し、床にどかりと座った。
「ファウストが作った薬だ。よく効く」
「……うん」
泥を落とした腕や足には小さなキズがいくつかついていた。薬を垂らしてみると、ピリリと沁みる。
 シノはじっとアネットを見ていた。動く気配がない。
「……ねえ」
「なんだ」
「戻らなくていいの?」
「戻らなかったら朝、迎えがくることになってる」
戻れないのは服のせいかもしれない。それなら返してしまおうか。掛け合わせたボタンに手をやったところで、シノが口を開く。
「お前は魔女じゃないのか」
「……魔法は使えない」
「こんな場所で人間の子供が暮らせるわけがない」
「……」
涙を拭おうとした手はシノに掴まれてしまった。
「おい、どうして泣く」
「わ、たしは、人間じゃない」
わあっとアネットは声を上げた。アネットは魔法が使えない。約束を破ってしまったからだ。