10話

「グランデトマトが食べたいな」
突然やってきたかと思えばそんなことを言ってのける。あれ以来、フィガロ先生はふらりと私の家に現れるようになった。お土産を持ってきてくれることもあれば、今日みたいにお腹を空かせていることもある。私が嫌とも迷惑だとも言えないのをわかって先生はそうしているのだ。もし私が本気で嫌だと言ったら、フィガロ先生はここにくるのをあっさりとやめてしまうだろう。

 トマトはちょうど昨日食べきったばかりで、畑まで行かなければならなかった。ハサミを持って外に出ると「俺も行くよ」と後ろから先生がついてきた。
 グランデトマトはその名の通り、大きくて重い。カボチャみたいに土の上で栽培されている。ハサミを入れてトマトを持ち上げようとすると、後ろからひょいとトマトをとられてしまった。
「俺が持つよ」
「……じゃあもう一つ」
「こらこら」
フィガロ先生が片手でトマトを持ちなおしたところで、もう片方の手に二つめのトマトを乗せる。やたら重そうにしているけど、魔法で浮かせているのがバレバレだ。けど、さすがに三つめはやめておいた。どうせ食べきれないし。
 家に入ると、先生はトマトを洗って魔法でスライスした。
「お酒も飲みますか?」
「え、いいの? 甘やされてるなあ、俺」
「……まあ、好かれておきたいので」
「あはは、オディリアもなかなか言うようになったね」
今の、ちょっと頑張ったつもりだったけど全然効いてない。悔しくなって一度テーブルに置いたお酒の瓶を取り上げた。
「先生は怒られるほうが好きなんでしたっけ」
「ごめんごめん。怒らないで」
「……どうぞ」
すっかり専用となってしまった薄いブルーのグラス。先生が魔法で作った氷を入れて、南の国で作られたお酒を注ぐ。フィガロ先生はこのくらいで酔ったりしないけど、お酒を飲むのは好きみたいだ。いっぽう私と言えば、二日酔いの醜態をさらした記憶も新しく、お酒はここのところ控えていた。それはそれでフィガロ先生のためにお酒を準備しているみたいだから言わないけど。
「オディリアは今日も飲まないの?」
「……明日が早いので」
「寂しいなあ」
誘うようにグラスの中の氷がカランと鳴る。
「ねえ、ちょっとでいいから付き合ってよ」
フィガロ先生が指を振ると、勝手に私のグラスが棚から出てきてお酒が注がれた。一応、アルコールの薄い甘めのお酒を選んでくれているようだ。トマトに合うかと言われると、何とも言えないが。
「押しに弱いところも好きだよ」
先生の向かいに座るなりそんなことを言われてカアッと顔が熱くなる。まだお酒も飲んでいないのに。
「わ、たしも……好きです」
「え。あ……ちょっと!」
私は一気にグラスを空にした。飲みやすいお酒とはいえ、こうも一気にあおると酔いが回ってしまいそうだ。間が持たなくて次のお酒をグラスに注ごうとすると、フィガロ先生にとめられる。
「どうしてきみってこう……極端なんだろうね」
「……フィガロ先生のせいだと思います」
「ああ、やっぱり?」
先生は悪びれることもなくグラスに口をつけた。
 私の飲み物はフィガロ先生によってお茶に代えられてしまった。ちまちまとお酒を進める先生は、機嫌よさそうに魔法舎でのことを話す。子供たちの成長が早いとか、料理が美味しいとか、楽しくやっているみたいだ。でも、たまに影が差したような顔で笑う。それを見るたびに、私の胸の奥はぎゅうっと締め付けられる。
「なーに? そんな顔して」
「どんな顔でした?」
「んー……寂しそう、かな」
「フィガロ先生もさっき、似たような顔でした」
「そっか」
先生はそれきり静かになって、お酒を無言で進めた。一杯、また一杯。先生の顔色は変わらないけど、見かねて私はグラスを取り上げた。
「はは、さっきと逆だ」
お酒の代わりにお茶を先生の前に置く。グラスから手を放そうとしたところ、ごく自然な動作でフィガロ先生が手を重ねてきた。
「あの……」
指の骨をなぞるように触れられて、ぞくりと背筋が冷える。
「酔ってますか?
「ううん、まだそんなに」
「フィガロ先生……」
好き放題している先生の手に指を絡めてつかまえる。ぎゅ、と握りしめた。
「先生、あの……嫌だったらはっきり言ってもらって構わないんですけど、」
「うん?」
「だき、しめてもいいですか?」
「んん?」
フィガロ先生は目を丸めた。
「オディリア、酔ってる?」
「……まだ、そんなには」
グラス一杯分のアルコールだ。それからお茶も飲んだし、どちらかというと薄まっている。
「嫌でしたら……聞かなかったことにしてください」
「いいよ」
ぐい、と腕が引かれる。
「嫌じゃない」
「……えっと、それじゃあ失礼します」
フィガロ先生の頭に手をやって、そっと抱きしめる。思ったより硬い質感の髪を撫でているあいだ、フィガロ先生は私の腕の中でおとなしくしていた。かわいいなと思ってしまった。言ったら失礼だろうか。……言わないでおこう。この色気も何もない抱擁で何かが変わるわけではないけれど、それでも今この時間を大切にしたかった。
 どうしてと聞かれたら、困ってしまう。フィガロ先生が寂しそうな顔をしたから、と言えば同情しているみたいで。けど、同情とは違う気がする。上手く言えない。だから、何も聞かれなくてよかった。

「たまに忘れそうになるんだ」
ぽつりと先生が言う。
「二千年も生きててまだ、期待しそうになる」
 二千年という時の重さは私にはとうてい理解できない。フィガロ先生の半分も生きていない私が何か言っていいものか迷って、結局は口を閉じてしまうことが多かった。でも、そうやっていつも壁を作っているのは私たちなのかもしれない。先生がどういう気持ちで弱い魔法使いの振りをして、ミチルたちに世話を焼かれているのか。先生はただの道楽と言うけれど、私たちがそうさせているんじゃないかって思って。間違いかもしれない。想像しかできないから……けど、これも私の思い込みだったら? フィガロ先生は何も話してくれない。いつも冗談ではぐらかしてばかり。「そう」だと決めて、諦めたことが何度あっただろう。
「私……正直、フィガロ先生の考えてることよくわからないです。だから改めて、聞いてもいいですか?」
抱擁をやめて、目を合わせる。
「私のこと、好きですか?」
「……えっと、それ聞いちゃう?」
「はい」
前の私ならここで引いていた。今も怖い。目を逸らしてしまいそうになる。でも、そうしたら先生は答えてくれない。
 フィガロ先生はしばらく無言だった。しかし観念したのか――、
「……たぶんきみが思っているより、ずっと」
「私が望むような関係になれないっていうのは、どうして?」
「例えば……きみが百年後、他のやつを好きになったって仕方ないって思うんだ。触れて、愛着を持って、どんなにそれが天命だって思っても、消えるときは一瞬だ」
「……フィガロ先生、」
何度も、何度も経験したのだろうと思った。せめて私がもっと早く生まれていたら、ちょっとは気の利いたことを言えたかもしれないのに。
「って思ってたんだけどね」
あーあ、と先生はため息をついて立ち上がった。
「きみといると若さに圧倒されるよ。ほんと……どうしちゃったのかな」
手を握られて、運ばれた先はフィガロ先生の頬まで。擦り付けるように頬を当てられ、最後に指に口づけされた。
「好きだよ、オディリア。またお酒を飲みに来てもいい? ……ごめんね。今はまだ、こんなことしか言えないけど」
私は髪が乱れるぐらい思い切り首を振った。フィガロ先生はこんなことと言うけど、私にはじゅうぶんだ。
「あれ、だめだった? 寂しいなあ」
「……もう、違う! また来てください。絶対なんて言わなくていいから」
「うん。ありがとう」