1話

「違う、この者は賢者ではない」
知らない場所に召喚されて、賢者ともてはやされ、しかしいざ魔法使いのところに連れていかれたら、お前は違うと言われてしまった。なんとも微妙な空気の中、賢者にしかできない儀式とやらをさせられ、やはり私に賢者の力がないことが証明された。
 その後すぐ、スーツを着た黒髪の男性が召喚された。私と同じ日本から来たようだ。彼は賢者だった。……いや、そもそも賢者とか魔法使いって言われてもよくわからない。とりあえず賢者が来たことに喜んでいた彼らだが、私のことはどうしたものかと困っていた。
 どうやったら元の世界に戻れるか、知っている人はいなかった。賢者の男性も途方にくれていた。とりあえず私は中央の国の保護下に入り、魔法舎というところに住むことになった。「賢者様」もそこに住むらしい。年に一度の戦いの際は魔法使いたちが泊まり込みするそうだが、それ以外は静かみたいだ。
 同郷ということもあり、私は賢者様と最初はよく喋っていた。食べ物のこととか、仕事のこと。賢者様と二人で話しているときはこの世界のことをを忘れられる。けど、次第に話さなくなった。賢者様には成すべきことがあって、私にはなにもない。私は徐々に部屋に引きこもるようになった。

 魔法舎には食堂があって、そこの食べ物は好きにしていいと言われている。部屋の中に食べるものがなくなったら、補充に行かなければならない。誰とも会いたくないから、そのほとんどが夜中である。その日もいつもと同じく、私は夜を待っていた。
 昼間はいつもより騒がしかった気がする。私はベッドの中で外が静かになるのをじっと待っていた。でも、いつまでたっても雑音が消えない。そろりとベッドから抜け出して窓の外を見てみる。……目を疑った。中庭が、燃えていたのだ。武器を持った兵士もいる。いったいどうして。
 ここは四階だ。逃げ遅れたらと思うと足がすくんでしまう。泣きたくなりながら私は部屋のドアを開けた。
 上か下か。火が回っていないなら下だろう。けど、どこまで燃えているかわからない。三階に続く階段は無事のようだ。
 階段を下りる前に魔法使いの部屋をノックしてみたが、どこからも返事はなかった。
 三階、二階……一階。幸いなことに建物はまだ燃えていなかった。……ただ、荒らされている。食堂の椅子やテーブルがバリケードのように積み上げられ、その一部が崩れていた。
「塔に逃げたぞ!」
 どこからか声が聞こえた。私はとっさにキッチンの物陰に身を隠した。ここならいざというときに外へ飛び出せる。けれど、外は外で問題がありそうだ。あの兵士たちはいったい何と戦っているんだろう。順当に考えたら、魔法使いだ。私が敵とみなされるかは、微妙である。きっと中央の国からしたら私は厄介者で、騒ぎに乗じて消されたり……なんて、ありそうだよなあ。そう思ったら迂闊に出て行けなかった。

 しばらく身を潜めて、何が起こったのかはわからないが、争いが止んだようだ。ただ食堂にずっと人の気配があって、私は動けずにいた。こんなことなら部屋に残っていたほうがよかったかもしれない。たぶん、燃えていないはずだ。
 次第に物音が聞こえなくなってきた。今は何時だろう。そろそろパンでも貰って部屋に戻ろうかなと思っていたところ、静寂の中に足音が聞こえた。こつ、こつ……と近づいてきている気がする。私はぎゅ、とできるだけ小さくなった。
「誰かいるのか?」
男の人の声だった。誰かはわからない。初めて聞いた声のような気もするが、かと言って魔法使いたちの声をはっきりと覚えているというわけでもない。男の人は私の気配に気付いているみたいだし、返事をしたほうがいいのだろうけど、金縛りにあったみたいに体が動かない。遅れてやってきた恐怖が、私を床に縛りつけていた。
 ついに足音はすぐそこまできてしまった。どうしようどうしようと思っていると、ひょいと男の人の顔が私を覗き込むようにして現れた。ひゅ、と息を飲み込んで声にならない悲鳴を上げる。
「……誰?」
それが私とネロの出会いだった。

 ネロと名乗った男の人は、しゃがみこんで私に目線を合わせてくれた。面倒なことになったな、と彼の顔が言っている。私はいたたまれなくなった。
 ネロさんは明日の朝食の当番をまかされて、キッチンを確認しに来たそうだ。私は状況がよくわからないまま「はあ」と気のない返事をする。
「……で、あんたは何してんの?」
「……隠れてました」
「そりゃまあ、見たらわかるけど……」
「部屋から庭が燃えているのが見えて、でも外に武器を持った人がたくさんいて、出るに出られなくて……」
「ああ、なるほどね。よく気付かれなかったもんだ」
確かにネロさんの言う通りだ。運がいいのか悪いのか、自分でもよくわからない。
「けど、騒ぎって言ったって結構前に収まってたと思うけど」
「……はい」
「……まあなんでもいいけど、もういいんじゃねぇの? 部屋に戻りなよ」
「それが……」
立とうとして足に力を入れてみたが、やっぱり立ち上がれない。腰が抜けてしまったみたいだ。今までそんな経験ないから、本当にそうなのかもわからないけど。
「立てない?」
「みたいです」
ネロさんはため息をついた。
「あー……、さすがに、部屋まで背負ったりとかはちょっと」
「おかまいなく」
「いや、かまうって……」
「明日の食材の確認は?」
「するけど……」
ネロさんは気まずそうに棚のチェックを始めた。わりと品は揃っているほうだと思う。……いや、私はいったいどこ目線なんだろう。
 ネロさんは手際よく作業を進めていた。さりげなく調味料を並べ替えたりもしている。じっとその様子を見上げていると、ネロさんと目が合った。
「……あのさ」
「はい」
「やりにくいよ」
「……すみません」
ぐう。謝ると同時にお腹が鳴った。

「腹へってんの?」
笑われるかと思いきや、ネロさんは普通に聞いてきた。「何か作ろうか」幻聴かと思った。
「いえ、そんな……お手数おかけしますが、パンを取っていただけると嬉しいです」
「パンってこれ?」
バスケットに入れられたパンをネロさんが指差す。私が頷くと、ネロさんはフランスパンっぽいのを一つ手に取って首をかしげた。
「どうすんの?」
「食べます」
「このまま!?」
信じられない。ネロさんの表情がそう言っている。でも、そんなこと言われたってパンは手を加えなくても食べられるものだ。ここでの私の食生活はパンが中心だった。
「いや、もういい……ちょっと待ってな。すぐ出せそうなもの作るから」
「でも……」
「嫌いなものは?」
やや強引なネロさんに押されて「ないです」と私は答えた。

 じゅうじゅう、と聞いているだけでも美味しそうな音だ。ちゃんと料理されたものを食べるのはいつぶりだろう。ここに来たばかりのころは賢者様と日本食の再現に燃えていたりもしたのだが、それもかなり昔の話だ。おいしそうな音と、香り。私のお腹がもう一度鳴るにはじゅうぶんすぎる材料だった。
「はい、お待ちどうさん」
ネロさんはテーブルに皿を置いた。ここからでは何を作ったのかも見えない。ネロさんは私を見下ろして、やれやれと顎をかいた。
「あー……ちょっとだけ、触ってもいい?」
ネロさんは私の近くまで来て膝をついた。椅子まで運んでくれるのだろうか。さすがにそんなことまでしてもらうのは、申し訳ないというか何というか。……そういえば、もうすっかり恐怖はどこかへ行ってしまった。おいしそうな香りにつられて、私は足に力を入れる。
「あ」
今度は私がネロさんを見下ろしていた。
「立てました」
ネロさんはしゃがみこんだまま天を仰いだ。
「……はあ、そりゃよかったな」