17話

 その日は朝から、というより前日からずっと緊張しっぱなしだった。これはデートという認識でいいんだろうか。どこに行くとか何をするとかそんなことより、ネロが誘ってくれたこと自体が嬉しい。鏡の前でおかしなところがないか何度も確認する。本当なら新しい服とか買いに行きたいところではあるけど、それはもうちょっと先の話になりそうだ。今はまだ、お金を貯めたり国に返したりと、あまり余裕がない。
 コンコン、とドアがノックされて鏡の前から飛び退く。またも勢いよくドアを開けてしまったけれど、ネロは笑ってくれた。

 魔法舎を出て、街を歩いて、いつのまにか街の外の小さな丘にたどり着いていた。ここが目的地だろうか。ネロが木陰に腰を下ろしたので、私も木の根を踏まないようにして隣に座った。
 ここからだと、街がよく見える。私がいつも働いている店も、大きな屋根の雑貨屋さんも、活気にぎわう市場のテントもどこにあるのかわからない。私が一年以上過ごしていた場所がとても小さなものに思えた。
 ネロもまた、静かに街を見下ろしていた。横顔をじっと見ていたら、ネロが気付いてこちらを見る。手を重ねられて、ネロ以外のものが見えなくなってしまった。
「いつかさ、あんたを好きになったことを後悔する日がくるんだろうなって考えてた」
ネロは私から視線を外した。……私は逸らせない。どきどきと胸が鳴って、重なった手がじんと熱を帯びる。
 ネロが別れのことを想像しているのがなんとなくわかった。きっとネロは今までにいくつもの別れがあったのだろう。私は想像しかできないけど、ネロにとっては経験だ。ネロは私に「魔法使いだけどいいの?」と聞いた。むしろ私が「人間でもよければ」と言うべきなのかもしれない。ネロは賢者の魔法使いとして命を落とす危険もあるが、もともとの命の短さで言えば私が魔法使いを置いて行く立場だ。魔法使いは……ネロは人と関わるたびに傷を負うのだろうか。だとしたら私の気持ちは軽率だったかもしれない。でも、好きになってしまった。たとえネロの長い人生の一部でも、そばにいたいと思ってしまった。
 はあ、とネロがため息をつく。
「けどさ、そんなに落ち込むぐらい好きになったってんなら、会わなきゃよかったなんて思わねえよな」
重なった手が一度離れて、指を絡められる。熱くなった指を見て、もう一度ネロに視線を戻せば、ほんのひとまたぎの距離でネロに見つめられていた。ネロはもう片方の手で私の髪をすくって耳に掛けた。ネロの鼻先が、私に触れそうなくらい近づく。
「……いいなら目、閉じて」
ぎゅ、と固く瞼を合わせるとするりと頬を撫でられた。そして唇に一瞬だけ、やわらかいものが触れた。
「好きだよ」
「……わ、たしも」
「ん、知ってる」
ぽろぽろと涙がこぼれてきた。ぬぐう間もなくネロにもう一度キスされる。息がうまくできなくて変な声を出してしまった。恥ずかしいのに「かわい」とネロが息継ぎみたいな感じで言うから、どうでもよくなった。

「あー……、言っちまった」
ネロは大きなため息をついて草の上に寝転がった。片手で頭を抱えているけど、もう片方の手は私と繋がったままだ。私もネロに習ってごろりと横になる。半分だけ寝返りをうって、ネロのほうに体を向けた。
「ネロ、一つ言っておきたいことがあるんですけど」
ネロは顔だけこちらに向けて「なに?」と言う。
「正直に言うと、私……まだ元の世界でやり残したことがあります」
「……帰りたい?」
「帰りたくないと言えば嘘になります。……それで、もし私が急に元の世界に帰っちゃったらなんですけど」
私は繋いだ手に力を入れた。同じぐらいの力がネロからも返ってくる。ネロは帰るなとは言わないけど、握られた手に「帰したくない」と言われているみたいだった。私が都合よく受け取っただけかもしれないけど、嬉しかった。
「そのとき、ネロがまだ私のことを好きでいてくれたら、またこっちに召喚してください。それまでにやり残したことを全部終わらせておくので」
ネロは優しいから、どうしても言っておきたかった。元の世界にいるほうが幸せなんじゃないかってネロならきっと考えるだろうから。
「……そりゃまたとんでもないこと言うな、あんたは」
「だ、だってアーサー様が言ってたそうですよ。昔は異界を自由に行き来することができたって」
「だとしても、俺にそこまでの力があるかって言われるとな。まあ、魔法舎にはいろんな奴らがいるし、どうにか頑張ってみるよ」
「……ネロ!」
私はネロの胸元に飛び込むように、ころんと寝返りをした。そのままキスしようとしたけど、微妙に届かなくてネロの顎に当たってしまう。照れ隠しで笑っていると、ネロから抱きしめられておでこにキスされた。
「……なあ、腹減ってない?」
ネロは私を抱きしめたまま言った。
「減ってますね」
「今日はアボカドとサーモンのバケットサンド作って来たんだけどさ」
「おいしそう」
「うん。美味くできてるとは思う」
ネロの肩越しにバスケットが見える。なんだか居心地が悪そうに見えるのは気のせいだろうか。いや、バスケットだからそんなことはありえないのだが。ぽつんと草の上に置かれたバスケットから哀愁が漂っている。
「もうちょっとだけ我慢してくんない?」
そう言ってネロは私の首筋に顔をうずめてしまった。……恥ずかしい。恥ずかしくてどうかなってしまいそうだ。
「……あの」
「うん?」
「すごく今さらなんですけど、誰か来たら……」
「……まあ、それもそうだな」
ネロは私から離れてむくりと起き上がった。自分から言っておいて少し寂しくなってしまう。ネロはそんな私を見て笑った。ああ、これはバレている。うつむく私の横でネロはバスケットを開いた。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
がぶりと一口かじりついて、やっぱりネロのご飯はおいしいなと実感する。もうアボカドとサーモンって組み合わせがずるい。チーズも入ってるし、ソースなんて何味かもわからないけど、とにかくおいしいのだ。
「おいしい……」
「そりゃどうも。帰ってからになるけど、今日は晩メシも一緒に食うだろ?」
「えっ、あ……はい」
それは食堂で? それともこの前みたいに部屋で? あれこれ想像する私をネロは笑うだけで、明確な答えはくれなかった。聞いたら教えてくれるかもしれないけど、聞いてしまったらもうそのことしか考えられなくなりそうだ。
「……私も一緒に作っていいですか?」
「じゃ、お願いするかな。何にしますか? シェフ」
「ネロが一番好きな料理を教えてください」
「え……」
……ん?
 あのネロが、顔を真っ赤にしている。照れてるのかなと思うことは今までに何度かあったけど、それとは比べ物にならないくらい頬が赤い。そんなに恥ずかしいことを聞いたつもりはなかったんだけど、ネロにとってはそうじゃなかったみたいだ。
「あー……一番って言われると何だったかな。どっちかっつーとリクエスト受ける側だしさ」
「リクエストがないときは自分の好きなもの作ったりしません?」
「まあ。でもさ……わりと人の好みは覚えちまってるもんだよ。それに俺に料理を振る舞おうなんて奴、あんまいないし」
確かに料理人のネロに手料理なんて恐れ多い。もう私は下手なことが知れているから開き直っているけれど。
「……身の程知らず?」
「いやいやそんなこと言ってねえだろ。じゃあ、あれだ。あんたが前に言ってたカボチャのコロッケ作ってくれよ」
「ええ……。それはネロが好きなものではないんじゃ……」
「いや。あんたの作った料理、好きだよ。言っただろ、新しいの作ったら俺にも食べさせてくれって」
「まあ、そうですけど……」
あれは料理への好奇心とか探求心みたいなものだろう。なんだか上手くごまかされた気がする。
「じゃあシェフ、ご指導よろしくお願いしますよ」
「……今日はいいですけど、今度はネロの好きなものを教えてくださいね」
「思い出せたら思い出しとくよ」
ネロはバケットサンドの最後のひと口を食べきり、にやりと笑った。なんとなく悔しかったので、後でこっそり賢者様やブラッドリーさんにネロの好みを聞いてみようと思う。コロッケと一緒にできそうだったら作って驚かせてやろう。ふふ、とネロの反応を想像して笑っていると、ネロは眉を寄せて私の顔を覗き込んできた。私は知らん顔でネロが用意してくれたお茶を飲む。夕方が楽しみだ。……しかし。

 魔法舎に戻って一度ネロと別れた私はさっそく賢者様のところに行った。「一番かどうかはわからないですけど、アヒージョは好きみたいですよ」と賢者様は言った。ブラッドリーさんは「知らねえ俺に聞くな」だった。……アヒージョ、作ったことない。それに油ものだからコロッケとの相性もよくなさそうだ。レシピは賢者様に教えてもらうとして、ネロを驚かせるのはもっと先の話になりそうだ。