16話

――やっちまった。
 ドアの向こうに残る気配から目を逸らしつつ、シンクに置いた皿を洗う。
 キスするところだった。いや、してもよかったのか? そもそも俺たちって付き合ってるのか? 俺があいまいな返事をしたせいでこんなことになったってのはわかる。でも、この先どうすれいい? 若い魔法使いでもあるまいしと、余計に羞恥心が体中を張り巡る。
 思い出すのは顔を赤くして皿を持ったまま固まる彼女の姿だ。かわいかったよな、と思った時点でもう好きになっている気がする。俺が言わなきゃ未央もわからないだろう。けど……タイミングとかか、どうやって切り出すかとか、歳を取るといらないことばかり考えてしまうのだ。その中でも大半を占めるのが、俺が魔法使いだということ。それから、未央がいつか元の世界に帰っちまうんじゃないかってことだ。
 未央は俺が魔法使いでもいいと言ってくれた。というより、彼女を見ていたらそこはあまり気にしていないように見える。賢者さんも同じで、二人が元いた世界には魔法使いが存在しないらしいから、この世界の人間とはちょっと考えが違うのかもしれない。そもそも彼女の好意を突っぱねなかった時点で、今さらこんなことをグダグダ考えるのもおかしな話だ。しかし、どうしても頭からそのことが離れない。

 翌朝の食堂で、シノに会うのが若干憂鬱だった。
 シノは鍛錬組の二人に少し遅れて入ってきた。シノはそのまま厨房に来て、何かと思えば昨日のプリンの器を差し出してきた。ああ、これを部屋に取りに行ってて遅くなったのか。そう考えると、このぶっきらぼうに見える表情も少々かわいく見えてしまうものだ。
 シノはたびたび食べ物を求めて部屋にくるが、そのたびに「うまい」と言ってくれるから苦にも感じない。今日も例に漏れず、シノはプリンを褒めたたえる。
 というのがいつもの日常で、しかし今日のシノは食堂に戻って行かなかった。
「表情が暗い」
「え、俺?」
「ああ。昨日、上手くいかなかったのか?」
「あー……いや? 何もないけど?」
「何もなかったのか」
確かにそうだけど。じゃあどうすりゃよかったんだよと、歳の離れたシノに言えるわけもなく。……いや先生にも言えないな。なんてくだらないことを考えながら、シノの目線を無視して朝食を作り上げた。出来上がったものをシノに押し付けるようにして厨房から追い出す。やれやれと一息ついていると、次は未央が現れた。なんつータイミングだよ。けど、あの子がみんなと同じ時間帯に食堂に来るようになったのは純粋に嬉しかった。未央がこれからもそうできるように、彼女がおいしいと思うものを作って背中を押してやりたい。
 未央は食堂の三人に挨拶してから俺のところまで来た。シノが何か言うんじゃないかとひやひやしたけど、ひと言しか喋ってなかったからたぶん大丈夫だ。
 未央は俺と目が合うとすぐに目を伏せた。まあ、無理もない。
「おはよ」
「おはようございます。……昨日はありがとうございました」
「いいって。それよりあんた、最近ずっと食堂で食ってるって?」
「はい。わりとみなさんにもご挨拶できました。まだの人もいますけど」
「そっか。……はい、お待ちどうさん」
 ベーコンエッグと焼き目を入れたチーズベーグルを皿にのせて渡す。食堂に戻って行ってしまいそうな未央の背中に思わず声を掛けてしまった。
「未央、えっと……」
振り向いた未央と、今度はしっかり目が合った。
「未央って休みとかあんの?」
「えっ……あ、仕事なら明日は休みですよ」
「……じゃあ明日、どっか行かない?」
未央は昨日と同じ表情になった。皿を両手に持ったまま動かない。こんなにわかりやすく喜んでくれることってあるだろうか。このまま頷いてくれるものだと思っていたけど、未央の口から出てきた言葉に俺は頭をガンと殴られたような衝撃を得た。
「……ネロ、一つだけ」
「うん?」
「私に気を遣って言ってくれてるんだったら、いいですよ。特別扱いしてくれなくてもいいんです」
……なんていうか、俺のせいだ。俺がはっきりしないからこういうことを言わせてしまう。昨日も「無理しなくていい」と言われたばかりだった。
「いや、俺があんたと出掛けたくて言ってる。……話したいこともあるし」
「……じゃあ、行きたいです」
未央は消え入りそうな声で言った。
――明日で待たせるのは終わりにしよう。
 そう決意したそばから胃が悲鳴を上げたけど、未央の悲しそうな顔を見るよりは何倍もマシだ。明日はとびきり美味いランチバケットを作ろう。