4話
起きて、朝食をとって、畑の様子をみにいく。ここ数日で私の生活には一定の習慣ができた。近所の方も何かと気遣ってくれて、特に不自由なく暮らせている。私の事情はフィガロ先生が説明してくれていたようだ。ただ、やっぱり記憶については諦めがつかない。
私がもともと住んでいた場所について知っている人はいなかった。さすがに人の寿命より長い間ここにいるのだから、仕方のないことかもしれない。東の国から移住してきた魔法使いはほかにもいたけど、東の国では他人とのかかわりは最小限にとどめていたらしく、手掛かりは得られなかった。
それならもう、行ってみるしかないと思ったのだ。時間はかかるけど行けないこともないし、何も得るものがなくても、次は北の国へ行ってみればいい。
東の国は遠いから、まず中央の国を目指すことにした。もしフィガロ先生に会えたら、私が東の国にいたときのことを聞けるかもしれない。箒に乗ってぐんとスピードを出してみたけど、やっぱりあのときのフィガロ先生には敵わなかった。一人だと退屈だなと贅沢なことを考えてしまう。
しかし、魔法舎ってどうやって入ればいいのだろう。結界の中に入口が見えるけど、勝手に入っていいわけでもなさそうだ。せめて見えるところに誰かいればよかったものの、辺りは閑散としている。
……諦めよう。箒にまたがったところで「オディリアさん?」と後ろから声がした。振り返ると、長身の黒髪の男性が私を見ていた。
「えっと……」
「南の魔法使い、レノックスです」
「あ、ああ……あなたが」
「フィガロ先生から話は聞きました。なにか俺に力になれることがあれば」
「ありがとうございます」
頭を下げると、レノックスさんのカバンからひょっこりと顔を覗かせている羊のぬいぐるみが目に入った。そういえば、レノックスさんは羊飼いをしているとフィガロ先生が言っていた気がする。ぬいぐるみを持ち歩くぐらい羊が好きなんだなあと思っていると、その子が動いた……ように見えた。
「……ああ、オディリアさんに撫でてほしいみたいです」
「えっ」
レノックスさんは近づいてきてカバンごと私に差し出した。おそるおそる頭らしきところを撫でてみると、目を細められた。温かいし……生きてる。
「オディリアさんはどうしてここに」
「今から東の国に行こうと思ってたんです。でも、どの辺りに住んでいたかも全然わからなくて、フィガロ先生なら知っているかなあと」
「……雨の街に住んでいたと、聞いたことがあります」
「雨の街、ですか」
「はい。すみません、俺にはそれぐらいしか」
「いえいえ、すごく参考になります」
「フィガロ先生を呼んできます」
レノックスさんは魔法舎に入っていき、その後すぐにフィガロ先生をつれてきた。フィガロ先生は相変わらずにこにこしている。でも、一瞬だけ表情がこわばったのを見てしまった。すぐにもとの顔に戻ったけど……気になる。
「先生、どうかしましたか?」
「あ、顔に出てた?」
「……はい」
言うかどうか迷ったんだけど、とフィガロ先生はため息をついた。迷ったというより、言うのをやめようとしていたんじゃないかと思う。
「きみに魔力の痕跡が残ってる。知らないやつのね」
「どういうことですか?」
「きみは記憶をなくす前、魔法使いに襲われたんじゃないかな」
「でも、それならこの前も……」
「そうだよ。不快な気配がずっとしてた」
ルチルとミチルは気づいてなかったと思うよ、と言われて少し安心する。その場で言わなかったのは、私を不安にさせないようにとフィガロ先生が気遣ってくれたのだろうか。
「一日もあれば消えると思ってた。でも、おかしい。薄れていく兆しもない」
フィガロ先生の話を聞いて、怖くなった。私は誰かに恨まれていたのかもしれない。恨まれるような人だったのかもしれない。もしそうだったとして、記憶が戻ったら今の私はどうなってしまうんだろう。
「ちょっとごめんね」
フィガロ先生の手が頭に触れる。同時に、頭の奥にぴりぴりと電気が走ったような感触がした。少し痛いけど、耐えられる痛みだ。
「うーん、これは様子見かな」
「何をしたんですか?」
「記憶が封印されてるのかなと思って刺激を与えてみたんだけど……まだ何とも言えないな」
「そうですか……」
「またしばらくしたら確認させてくれる? 俺も南の国に行くときはきみに声をかけるから」
「はい。ありがとうございます」
それじゃあまた、と言いかけたところでレノックスさんが声を上げる。
「オディリアさん、雨の街の話を」
「……そうでした」
「雨の街がどうかしたのかい?」
「実は、今から東の国に行こうとしていたんです」
レノックスさんに話したことをそのまま伝えると、フィガロ先生は渋い顔をした。「雨の街ねえ」たっぷりと間を開けて、フィガロ先生はやめたほうがいいと言う。
「レノ、雨の街について話してあげた?」
「いえ、まだ何も」
「だよね……雨の街は東の国の首都なんだけど、それもあってなかなか複雑なんだ」
「複雑?」
「公共の場で初対面の人に話しかけてはいけない」
「えっ!」
「公共の場で大声を出してはいけない。噂話は禁止。まあ他にもあるんだけど、俺も詳しくは知らない」
フィガロ先生が言ったのは、東の国の法典というものらしい。地方ではそこまで厳しくないようだが、雨の街は首都ということもあり、特にルールが厳しいみたいだ。法典が100巻以上あるというのは、もう意味がわからない。とにかく外部からの人間が訪れるには向かないそうだ。
「魔法使いってバレたら通報されるしね。行くだけ無駄だと思うよ」
「……それなら先に北の国に行ったほうがいいでしょうか」
「え、なんで北?」
「気付いたら、雪に埋もれていたので」
「……いや、それ聞いてないよ? もう少し状況整理しない?」
確かにフィガロ先生の言うことはもっともだ。けど、もう話せることはあまりないような気がする。私が目覚めたとき、周りには何もなかったから。中央の国に行く途中になら何かあったかもしれないけど、それどころじゃなくてあまり覚えていない。怪我ならお腹まわりが酷かった。でも、それならフィガロ先生も見たはずだ。
「……すみません。手掛かりになりそうなことは他に何も」
「じゃあ俺から質問してもいい?」
「はい」
「南の国での生活はどう?」
「え……」
てっきり当時のことを聞かれるのかと思いきや、フィガロ先生の質問は全く違うものだった。困ってることはないかとか、診療所近くに住んでいるおじいさんは元気かとか、そんな話ばかりだ。嫌ではないけど、今日は記憶の手がかりが欲しくて来たのだから、もどかしく感じてしまう。
「焦ってるよね」
いつの間にかうつむいていた私を覗き込むようにして、フィガロ先生が視界に入ってくる。心の中を見透かされたような気がして、私は目を逸らした。
「焦る気持ちはわかる……と言いたいところだけど俺は記憶がなくなったことがないから」
「フィガロ先生」レノックスさんの呆れたような声が聞こえた。
「でも、これだけは覚えていてほしくて。きみは人生のほとんどを南の国で過ごしてる。日常の中で案外、ころっと思い出しちゃうかもよ」
「……そう、ですよね」
「ああ、でも術がかけられてるならちょっと難しいかもなあ」
レノックスさんはついにため息をついてしまった。
「まあ、それでも行くって言うならとめないよ。他に聞きたいことはある?」
「……いえ、ありがとうございました」
またね、とフィガロ先生はひらひら手を振った。魔法舎の中に戻っていく二人を見送りながら、胸がズキズキ痛む私自身にうんざりする。
なんとなく線を引かれたような気がした。でも、フィガロ先生が酷いことを言ったわけじゃない。「とめないよ」と言われて私が勝手に落ち込んでいるだけだ。優しくしてもらって、これからもずっとそうだと期待してしまったのかもしれない。何だか嫌だな、と思う。今だって、先生の忠告を無視したら嫌われてしまうんじゃないかと一瞬考えてしまった。そんなのおかしい。おかしいと思うのに、箒に乗って飛び立つことができないでいる。
「あの、何かご用ですか?」
突然声を掛けられてハッとする。声を掛けてくれた女性は魔法舎の人だろうか。入口に立ったままでいたから怪しく思ったのかもしれない。
「すみません。用はさっき終わったんですが、ぼーっとしていました……」
「そうでしたか。……あ、もしかしてフィガロの知り合いの方ですか?」
「え、はい。そうです」
びっくりした。私のことを知っているのともう一つ、先生の名前を親し気に呼んでいる。……ダメだ、こんなことばかり考えていたら。心の中に沸くモヤモヤとしたものに私は無理やり蓋をした。
「怪我が治ったみたいでよかったです。気絶しているオディリアさんを見たときは本当に痛ましい状態だったので」
「それは、お騒がせしました」
「いえ。フィガロもすごく焦ってましたよ。オディリアさんを抱えて走ってきたときはびっくりしました」
「……抱えて」
「はい。こんな感じで」
女性はぱっと腕を広げた。たぶん、横抱きだろう。ただの救命行為なのに、動揺してしまいそうになった。
「怪しまれるようなことをしてしまってすみませんでした。私はこれで」
「あ、あの!」
飛び立とうとする私に、彼女のきらきらとした屈託のないまなざしが向けられた。