3話

 窓の外のオレンジ色に染まった空を見て、ずいぶん寝てしまったのだとわかった。部屋の中には誰もいない。窓を開けると冷たい風が勢いよく部屋に入ってくる。それが合図になったかのように部屋のドアがノックされた。
「フィガロ先生」
「やあ、具合はどうかな」
「よくなりました。レノックスさんにご挨拶して南の国に帰ろうと思います」
「ああ、それなんだけど、レノは外出してるみたい」
「そうでしたか。では、お世話になりました」
魔法で箒を出して、この窓から思いっきり飛び立てば気持ちいだろうなと思った。戸締りぐらいはフィガロ先生がしてくれるだろう。窓のそばまで行こうとすると「待って待って」とフィガロ先生が声を上げる。
「どうやって帰るつもり?」
「……? 箒で飛びます」
「いや、家の場所知らないでしょ」
「……あ」
そうだ。南に飛べばいいと思っていたけど、どの家かまではわからない。運よく知り合いに会えれば案内してもらえるかもしれないけど、南の国に着くころには夜になってしまうだろうから楽観的には考えられない。
「あの、地図とかないでしょうか」
「うーん、そう来るか。それよりいい方法があるんだけどな。何だと思う?」
フィガロ先生はにこにこしながら首をかしげた。もしかして先生が案内してくれる? 一瞬そう思ったが、予想が外れていたら恥ずかしすぎる。……言えない。もっと他にいい案はないだろうか。
「……あ、魔法で家まで空間を繋げてもらえるとか」
「あはは、俺にそんな高度な魔法は使えないよ。正解は俺が一緒に南の国まで行く、でした」
当たっていた。本当に案内してくれるつもりだった。でも、迷惑じゃないだろうか。人に頼ることは悪いことじゃないと思うけど、今の私に返せるものは何もない。
「いやいや、そんなに難しい顔しないでよ」
「……ありがとうございます」
あれこれ言うのも失礼な気がしてフィガロ先生に甘えることにした。でも、だからって……。

 箒の柄を掴むはずの手は、フィガロ先生の背中に。こっちのほうが早いからと先生の箒の後ろに乗せてもらったのだ。確かに私が飛ぶよりもずっと速い。それに軸が安定している。でも、送ってもらう身でわがままを言えないとわかっているけど!
「ほら、もっとしっかり掴まらないと落ちちゃうよ」
「そんなこと言ったって」
「あ、もしかして俺のこと意識してくれてる?」
「からかわないでください!」
「ごめんごめん。でも、もう少しスピード上げたいからさ」
「ええ!?」
あ、まずい。直感だった。
 フィガロ先生にぎゅっとしがみついた瞬間、風が鋭利になる。さっきまでのスピードはお遊びだと言われているみたいだ。普通じゃない。記憶がなくてもわかる。フィガロ先生は強い魔法が使えないと言ったけど、嘘だ。

 フィガロ先生は小さな家の前に降り立った。周囲はすっかり暗くなってしまっている。
「ここがきみの家」
「ありがとうございます」
「酔った?」
「……少し」
目の前にそっと手が差し出される。きらきらと星のような形をした塊が二つ、先生の手にのっていた。
「これは?」
「俺が作ったシュガーだよ。食べると少し元気になると思う。とばしすぎちゃったお詫び」
どうぞ、と言われるままシュガーを一つ口へ運ぶ。やさしい甘みがじわりと溶けて、疲れが取れていくようだった。
「おいしい。ありがとうございます」
「もう一つもどうぞ」
「はい」
 何となく、もったいないと思ってしまった。きれいで、少しもいびつなところがなくて、輝いているのは月の光を吸収しているみたいだ。
 心のまま、呪文を唱える。できあがったのはフィガロ先生のと似ても似つかない、ころころと丸っぽい形をしたシュガーだった。
「俺のと違ってかわいい形だ」
「あの、私もフィガロ先生にお礼を……したくて」
「ありがとう。じゃあ、遠慮なく」
フィガロ先生はシュガーを口に入れてにこりと笑った。「おいしいよ」その一言に安心して私も貰ったシュガーを食べた。

「じゃあ俺は戻るね」
「はい。ありがとうございました。遅くなってしまってすみません」
「大丈夫、帰りは近道があるから」
 フィガロ先生の姿が遠くなっていく。ゆらゆらと白衣の袖が風になびくのをぼんやりと眺めながら、私は意味もなくその後ろ姿に手を振った。
 家の中には野菜がたくさん置いてあって、フィガロ先生がそんなことを言っていたなと思い出す。それ以外に気になるのは机と、小さな本棚だ。日記みたいなものがあれば助かるのだが、四百年近く生きていているらしい私がそんなものを書いているとも思えない。
 本を一つ手に取ってみると、野菜の育て方が記されていた。なるほどと思い別の本にも手を伸ばす。どうやら季節ごとの作物にわけられているようだ。他にも肥料や害虫対策など、おそらく畑を始めるにあたって勉強した形跡が残されている。これなら何とかやっていけるかもしれない。居ても立ってもいられなくて、私は外へ出た。
 家の裏にある畑には三種類の作物が植えられていた。枯れていなくてほっとする。ただ、実がなっているものはいいけれど、芽吹いたばかりのものは何を育てているのかわからない。本と見比べながら何とかしていくしかないだろう。手入れが必要ならと思ったが、本のいたるところに「水のやりすぎ注意!」と書かれていたことを思い出して止めた。
 結局、私は何もできないまま家の中に戻った。服を着替えようとして、今さらながら破れていたはずの服が綺麗になっていることに気付く。血が滲んでいたはずなのに、体には傷ひとつない。フィガロ先生が魔法を使ってくれたのだろうか。今さらながら、もう少し話しておけばよかったと思う。
 フィガロ先生は強い魔法が使えることを隠しているのだろうか。さっきだって魔法舎というところに転移して帰ったんじゃないかと思っている。先生が隠したいなら私は言及するつもりはないけど、それにしては隠す気があるのかどうかも怪しい。
 着替え終わると急激に眠気が襲ってきて、私はベッドに倒れ込んだ。魔法舎のベッドよりも肌触りがゴワゴワしている。でも、嫌いじゃなかった。来る前は少し不安だったけど、この家で暮らしていくのも悪くないかもしれない。