She is not heroine
携帯のアラームが鳴る。ハッと顔を上げて時計を確認すると、ちょうど日付が変わろうとしていたところだった。急いでパソコンの電源を落とし、机の引き出しに鍵を掛ける。
その日、彼女は疲れていた。仕事に追われ、昼食も取らずひたすら書類と向き合い、気付けば終電間近。帰宅したところで、ゆっくりする時間もない。だが、それでも帰らないよりはマシだと彼女は駅に急いだ。――発車まで、あと十分弱。八割ほど充電の残ったスマートフォンを片手に、彼女は低いヒールを鳴らして走って行く。
なんとか乗り込んだガラガラの電車の中で、彼女は肩の力を抜いて目を閉じた。ゆるやかな揺れに、意識がまどろんでゆく。
体の揺れを感じ、目を開く。ぼんやりとした視界に移る、困り顔の男性。彼女は意識を覚醒させると同時に、ため息を付いた。止まった電車。そして、目の前の男性――彼は車掌なのだろう。終点まで眠りこけてしまったことを、彼女は即座に理解した。
男性に頭を下げ、速足で改札に向かう。ぽつりと浮かぶ違和感の正体に、彼女はまだ気付かない。
駅のすぐそばに停まっていたタクシーに乗り込み、住所を告げる。しかし、一向に車が動き出す気配はない。運転手の男はナビを操作していたが、手を止めて首を傾げている。そして、彼の口から出た言葉に、彼女は眉をひそめた。
「もしかして、県外ですかね?」
「いえ……都内ですけど」
そんな場所は聞いたことがないと運転手は言う。彼女はますます眉間の皴を深くした。
おかしなタクシーに乗ってしまっただけ。彼女はそう思い、別のタクシーを探すことにした。しかし、どの運転手も彼女の告げる住所を聞いたことがないと答える。何度かそのやりとりを繰り返しているうちに、頭がクラクラしてきた。おかしいのは運転手らではなく、自分自身なのではないかとさえ感じる。
そして彼女は駅に戻り、言葉を失った。米花駅――外壁に、そう書いてあったのである。
そんな駅が都内に存在しないということは知っていた。しかし、彼女は動揺していた。路線図を確認しようと、鞄からスマートフォンを取り出し、側面のボタンを押す。しかし、何度押しても画面は真っ黒のまま。きっと、まだ夢を見ているのだろう。そう考え手の甲をつねってみたが、無情にも目は覚めなかった。
夢ならばどんなに良かったことか。しかし、そんなことばかり考えていても仕方がない。深呼吸をして、鞄の中を確認する。
バッグに入っていたものは、携帯電話のほかに、化粧ポーチ、ハンドタオル、そして財布だ。財布の中には約二万円。他にも健康保険証や運転免許証、キャッシュカードはあるが、ここで機能するかどうかは怪しい。
まず何をすべきなのか。そう考える彼女の頭の中に浮かんだのは、元の世界に帰る方法を探すということ。電車に乗ってこの街に来たのだから、もう一度電車に乗ってみるという手はある。今日はもう電車がないようなので、試すとしたら明日だ。それですんなり帰ることができたらいいのだが、楽観的に考えすぎるのも良くないだろう。
もしもこの世界で生きて行かなければならないのだとしたら。どうにかして衣食住を整えなければならない。一番優先すべきなのは、食。次に住居だろうか。食べ物はお金さえあれば手に入れることはできる。しかし、お金も無限にあるわけではない上に、稼ぐ手段がない。どこかで働くにしても、住所不定のものを雇ってくれる場所はあるのか。家を借りるのにだって、身分証が必要になるはずだ。免許証や保険証は持っているが、安易に提示するのは危険だろう。特に保険証には、存在しないであろう彼女の勤め先が記載されているのだ。片手でぐしゃぐしゃと頭を掻きむしる。どう考えても、上手くいく道筋は浮かばなかった。
ぽつりぽつりと行く当てもなく歩く。どうしてこの街だったのだろう。彼女はこの世界の物語について、ほとんど知識がないのだ。
駅の近くは明るかったが、しだいに辺りは薄暗くなってゆく。住宅街のようだが、時間も遅いため、明かりの点いている家はほとんどない。彼女は誰ともすれ違わなかった。世界に一人取り残されたような気がして、心が冷える。
少し住宅街を進むと、公園に辿り着いた。米花公園と掘られたプレートが入口に備え付けられている。もちろん中には誰もいない。彼女は公園の、ある一点を目指し足を動かした。
きゅ、と蛇口をひねると当然ながら水が出てくる。迷わずそれを口に含むと、案外それは冷えていて、少しだけ鉄のような味がした。
彼女は空腹を誤魔化すために、ひたすら水を飲んだ。息をすることも忘れて、必死に喉を動かす。公園の水を飲むなんて、子供のとき以来だった。
「げほっ……うぅ……」
今になって涙が溢れてくる。彼女はその場に膝をついて、地面に拳を叩きつけた。――痛い。こんなに喉が渇いたり、痛みを感じる夢を今まで見たことがあっただろうか。じんじんと熱を持った拳をさすって、体を丸める。薄々気付いてはいた。これは夢などではなく、現実なのだと。
公園の隅にあるトイレに、おぼつかない足取りで近づいて行く。彼女はそこで一夜を明かそうと考えたのだ。例えば――ベンチや滑り台で寝ることも思い浮かんだが、不審者に襲われても文句は言えない上に、自身が不審者と通報されることだってあるかもしれない。しかし、トイレなら内側から鍵を掛けることができる。好んで寝るような場所ではないが、贅沢を言っていられる状況でもなかった。
トイレの中は真っ暗で、中があまり良く見えない。どこかに電気のスイッチがあるだろうが、彼女はそれを探さなかった。あまり外から目立つようなことはしたくないと考えてのことである。しかし、彼女はすぐに後悔した。どうやら床のタイルが濡れていたらしく、足を滑らせて尻もちをついてしまう。床に思い切り腰を打ち付けて、くぐもった声が漏れた。その上、手や腰のあたりが濡れてしまって気持ち悪い。彼女はため息を付いて、立ち上がろうとした。
「誰か居るのか!?」
「え……?」
トイレの奥のほうから光を当てられて、思わず腕で遮る。そして、彼女は見てしまった。自身の手が、赤黒い液体で濡れているのを。
はっきりと確信があったわけではない。しかし、この赤っぽい液体と、男の焦ったような声。あまりいい状況ではないということだけはわかる。彼女は足が震えるのを無視して、トイレから飛び出した。
「待て!」
怖くて後ろを振り返ることも出来なかった。けれど、少し距離を置いたところから聞こえてくる足音はどう考えてもあの男のもの。スマートフォンは使い物にならないし、交番の位置もわからない。
「誰か、助けて! 誰か!」
息が上がって、あまり大きな声は出なかった。それでも彼女は何度も助けを求め叫び続ける。
「はぁっ、誰か……助けて!」
彼女の声は誰にも届いていないのか、届いているのに無視されているのか。暗い住宅街に変化は訪れない。薄情者、と心の中で毒を吐き、必死に足を動かす。
随分走ったような気がするが、後ろの男は諦めていないようだった。このまま追いつかれて殺されてしまうのだろうか。そしたら、あの電車の中で目が覚めるかもしれない。そんな甘い考えが脳裏をよぎったが、足を止めるには至らなかった。
暗い迷路のような街に、一つの光を見つける。大きな屋敷のようだ。あまりここから離れてはいない。彼女はその屋敷を目指すことにした。部屋の明かりが、希望の光のように見えたのである。
「助けてください! お願いです! 助けてください!」
インターホンを何度も叩く。まだ相手が応答してもいないというのに、涙交じりの声で叫んだ。
「おい! 静かにしろ!」
いつの間にか追いつかれていたようで、すぐ後ろにいた男の振りかぶった手の中にはキラリと光るものが見えた。とっさにバッグを振り回して、男から距離をとろうとした。衝撃で、鞄の中身がばさばさと音を立てて地面に落ちる。後ずさりをしていると、道路の排水溝の蓋の仕業だろう。ヒールが挟まって、彼女は転んでしまった。もうだめかもしれない。そう思って、体を守るように鞄を突き出して目を瞑る。しかし、彼女の予想した衝撃は訪れなかった。
「どうかしましたか?」
緊張感のない声。ハッと目を開いて声のもとに顔を向けると、そこには眼鏡を掛けた男性がいた。
「ちっ」
刃物を振り回していた男は走り去り、その場には彼女と屋敷の主の二人が残された。
「ありがとうございます……本当に、ありがとうございます……」
きっとこの男性がこんな時間に起きていたことも、彼女がこの屋敷に辿り着いたことも偶然なのだろう。それでも彼女は、目の前の男性に感謝せざるを得なかった。
「大丈夫ですか? 酷い怪我をしているように見えますが」
彼女の手や服に付着したものを見て、彼が心配するのも無理のない話。彼女は自身の手元を見て、首を振った。そして、あることを思い出す。
「これは私の血じゃなくて……。あの、救急車を! 公園のトイレで、多分、さっきの人が誰かを……」
頭の中がぐちゃぐちゃで、彼女の発言は的を得ない。それでも、目の前の男性は彼女を急かすことをしなかった。
「……落ち着いて、僕の質問にゆっくり答えてください」
「はい……。すみません」
「まず、公園というのはどこの公園ですか?」
「米花公園、です」
「そこのトイレで、何があったんですか?」
「えっと……床が濡れてて、滑って転んでしまって。そしたら奥から男の人が……それであの、自分の手が赤い液体で濡れてるのに気付いて、怖くなって……」
この説明で理解してもらえるのか不安だったが、男性は小さく頷いてスマートフォンを取り出した。話を聞いていると、救急車を米花公園まで手配してくれたようだ。
「すみません、ありがとうございます」
地べたに座ったまま頭を下げると、もう一ついいでしょうか? と男性に尋ねられる。彼女が頷くと、男性は手を顎に当て、考えるような素振りを見せた。
「あなたはそこで、あなたを追っていた男性以外の人物を見ましたか?」
「いえ……」
「わかりました。とりあえず、中へどうぞ」
「え……でも……」
「ああ、すみません。立てませんでしたか?」
男性はそう言って、膝を折った。伸びてくる手に驚いて、肩をぴくりと震わせる。
「た、立てます! そうじゃなくて、どうして中へ……」
「どうして、ですか……。では聞きますが、あなたはその格好で歩き回るつもりですか?」
男性の問いかけに、彼女は言葉を詰まらせた。もしもこんな血だらけの人間が夜中に街を歩いていたら、救急車を呼ばれるか通報されるかのどちらかだろう。
「それに、先ほどの男がまだその辺りに潜んでいるかもしれませんね」
「……すみません」
叱られているわけでもないのに、彼の気迫に押されて何故か謝ってしまう。しかし、この屋敷の中に入ったところで、状況が改善されるものなのか。そうは思ったが、口には出さなかった。
彼女が俯いていると、男性は辺りに散らばった鞄の中身を拾い集め、差し出してきた。
「ありがとうございます……。あの、お言葉に甘えて、お邪魔してもいいですか……?」
彼女がそう言うと、男性はにっこりと笑って頷いた。
「ええ、もちろん。僕は沖矢昴です」
「沖矢さん……ありがとうございます。私は――
「栞さん、ですね」
「え……」
ぞくりと悪寒が走る。まだ名乗っていないはずなのに、どうして。彼女のそんな表情を読み取ったのか、沖矢は続けた。
「保険証が落ちていました。これ、あなたのですよね?」
「は、はい……」
財布の中に入れておいたはずなのだが、どうやら先ほどの衝撃で落ちてしまったらしい。あまり見られたくないものなので、素早く鞄の中にねじ込んだ。
「では、どうぞこちらに」
「……お邪魔します」
沖矢の後を栞は歩いた。満月を背景に佇む目の前の洋館は、少し不気味に見える。こんな都合のいい話があるのだろうか。この沖矢昴という人物は、あまりに冷静に見えた。血を見ても驚かない上に、いきなり現れた人間を家に上げようとする。だが、彼の話を断ったところで彼女には当てが無い。仮に目の前の男性が悪い人物だとしても仕方がないと、心のどこかで考えていた。
「どうかしました?」
「いえ……何でも、ないです」
屋敷の中は想像以上のものだった。明らかに安物でない家具、広々とした廊下に部屋。沖矢の後を付いて歩くだけで、様々なものを目にした。そして、彼は足を止める。
「シャワーをどうぞ。中に洗濯機もありますので、使って下さい」
ガチャ、と音を立てて開いた扉の中は、脱衣所のようだった。シャワーを貸してくれるというのはありがたい。血みどろの服しか持っていないという状況で、それを洗っていいというなら甘えるべき。だが、すんなり彼に甘えられるほど、彼女はまだ割り切れていなかった。
「でも……そんな……」
「何か問題がありますか?」
「いえ、あの……本当に助かるんですけど、何ていうか……気持ち悪くないですか? こんな服、洗濯機に入れてしまって」
「ああ……そうですね。全く気にならないと言えば嘘になりますが、そんなことよりもあなたのほうが心配です」
沖矢は栞の腕に手を伸ばした。
「見たところ、あなたも怪我をしているようです。他人の血が付いているなんて、あまり衛生的ではない」
さあ早く、と急かされて栞は脱衣所に入った。彼は穏やかそうに見えたが、有無を言わせない圧力があった。
「僕のものですが、棚に着替えが入っていますので使って下さい」
「え、あ……沖矢さん」
「僕は出掛けてきますので、ごゆっくりどうぞ」
「ちょ、ちょっと……!」
彼は栞の言葉を無視して扉を閉めた。足音が遠ざかってゆく。
こんな夜中にどこに行くのだろう。見ず知らずの人間を家に置いて外出するなんて……。変な人、それが彼に抱いた印象だった。
ここまで来たら、下手に遠慮してしまうほうが迷惑だろう。血だらけで居座られるより、シャワーを借りてしまった方がマシ。そう考えたのは、彼女にとってそちらのほうが都合がいいからという理由もあった。
洋服に着いた血は、なるべくシャワーで流してから洗濯機に入れた。下着だけは素早く手洗いして乾燥機に放り込む。
服の処理を終え、ようやくシャワーにありついた。時間が経ってパリパリに固まった血が流れ落ちてゆく。一部は溶けてしまい、体をうす茶色の液体が這った。むせかえるような臭いが鼻を刺激する。
タイルを打ち付ける水温が浴室に響く中、彼女は静かに涙を流した。
主人公は私じゃない