Whim of God

 他人の家で長湯をするのも、と思ってのことだった。しかし、洗濯機はまだ音を立てたまま。家主の服を借りて脱衣所の扉を開ける。
「沖矢さん……いらっしゃいますか?」
返事はない。彼はまだ戻っていないようだ。静かにドアを閉めて、壁に寄り添うようにして座り込む。
 沖矢昴という人物が、本当にただの親切で手を差し伸べてくれたのなら。上手く話を付けて彼に助けを求める――容量の良い人ならそうしたかもしれない。だが栞には、嘘を吐き続ける自信も、彼を納得させる言い訳も浮かばなかった。正直にすべて話すという選択肢は、今のところ無い。もしも逆の立場だったら、関わりたくない変人、もしくは頭のおかしい人、という烙印を押して終わるからだ。
 この世界についての知識を披露して、異世界から来たなどという突拍子もない話を信じてもらうという方法もある。しかし、彼女の持つ情報は不十分。子供の頃に少し触れたぐらいで、あまり詳しいことは知らないのだ。下手に過去の出来事を話してしまったら、妙な疑いを持たれる恐れもある。それならば、何も知らない振りをしたほうがいい。ただ、もしも彼女がこの世界での出来事に詳しかったとしても、結局は口を結んでしまっただろう。目の前で生きている人間に、何をどう説明しろというのか。信じてもらうことが出来なかったら、どうすればいいのか。そう考え不安に駆られるのは、彼女が臆病だからなのか。
 考えれば考えるほど、頭の中は混乱してゆく。そもそも本当にここが、あのフィクションの世界なのかということも疑わしくなってきた。駅名を見ただけで、そう思い込んでしまっただけなのかもしれない。江戸川コナンという子供に会うことができたら、そのすべてが確信に変わるのだが――そう上手くもいかないだろう。
 洗濯機の音が大きくなる。ぼんやりその様子を眺めていると、ノックの音が聞こえた。沖矢が戻ってきたのだろう。栞は立ち上がり、扉を開いた。
「シャワー、ありがとうございました。あと、これもお借りしてます」
沖矢の服は当然サイズが大きく、裾を引きずらないように折り曲げている。
「いえ……それよりすみません。こんなところで待たせてしまったせいで、体が冷えてしまいましたね」
こちらへどうぞ、と歩き出した沖矢の後を追う。案内された大きな部屋の中心にはテーブル、ソファ、そしてテレビも置いてある。
「温かい飲み物を用意しますので、少しお待ちを」
「あ……えっと、でも……」
戸惑う栞を一人残して、沖矢は部屋を出た。沖矢昴は随分と人の話を聞かない――いや、マイペースな人物だ。そして、ここにもう一つ特徴を付け足すとしたら、悪い人ではないというところだろうか。
 沖矢を待つ間に、今後どうするかを考えておいたほうが良かったのだろうが、彼女は混乱していた。沖矢は資産家なのだろうか。この家には一人で住んでいるのだろうか。いずれも、彼女にとって必要ない情報。それなのに、沖矢のことばかりに思考が巡っていた。
 小さな音を立てて、ドアノブが回る。現れた沖矢の手にはトレーが。ソファーに促され、マグカップを受け取る。じわりと熱が伝わった。
「ありがとうございます。いただきます」
感じるのは、温かさと微かな甘み。砂糖かはちみつ入りのホットミルクのようだ。テーブルを挟んで座る沖矢の手には、コーヒーカップが握られている。彼はまだ寝ないつもりなのだろうか。そう考えるより先に、もしかしたら突然の訪問で彼の作業を中断させてしまったのではないかと気付く。カップの中のミルクを一気に飲み干して、慌てて立ち上がった。
「あ、あの、本当にありがとうございました。そろそろ失礼しますね」
「栞さんは明日、何か予定でも?」
「え……? いえ、特には……」
「それなら今日はここに泊まっていかれてはどうでしょう? もう遅いですし……それに、栞さんのご自宅までお送りしたいところなんですが、今からはちょっと無理なので……」
「え、いや……でも……」
お願いしますと即答できないあたりに、この先の不安を得る。この家を出たところで、どこへ行くかも決めていない。それなら沖矢の厚意に甘える方が、きっと賢い。栞が沖矢の言葉に頷かなかったのは、彼を不審に思っているからではなく、ただの遠慮から来たものだ。
「ですがこのままあなたを一人で帰して、あなたにもしものことがあったら?」
「それは……」
「先ほどの男性は警察に捕まったようですが、それでも夜道が安全とは言えませんから」
「え……もう捕まったんですか? よかった……」
一つの不安がなくなった。栞は相手の顔を見ていたし、相手も栞の顔を見ていた。はっきりと顔を覚えているわけではなかったのだが、もう一度会うことがあれば、すぐにわかる。きっと相手もそうだろう。目撃者として命を狙われてしまうかもしれないと心配だったのだ。
「ええ。返り血を浴びた服に、しかも刃物を持ってうろついていたということで、別のところでも通報があったようです」
カップを受け皿に置く音が響いた。沖矢は腕を組んで、栞をじっと見つめる。居心地が悪くてこの部屋から立ち去りたかったが、足が動かない。栞は再びソファに腰を下ろして沖矢の話を聞くことにした。
「……どうしてそんなこと、沖矢さんが?」
「実は先ほど、米花公園に行っていたんです」
栞は目を見開いた。栞の話を聞いた上で何故、そんなところに。しかし尋ねる間もなく、沖矢は続ける。
「残念ながら、トイレに居た方は既に亡くなられていたようです」
「そう、ですか……」
視線を下げる。助けを呼ぶのが遅れたからだろうか。連絡手段もなく、身の危険が迫っていたのだから仕方ないと考えようとしても、後味が悪い。
「あなたのせいではありません」
「なんで、そんなこと……」
「被害者の出血量から考えて、あなたがトイレに入ったときには、既に手遅れだったでしょうから」
沖矢は静かに、淡々と説明した。こんな非日常的なことを、まるで日常的なことのように話す彼は一体何者なのか。眼鏡の奥で細められた目からは、何も読み取ることができない。
 目の奥が熱くなってくる。瞬きを止めたところで、じわじわと込み上がるものは引き下がってくれない。できれば、沖矢の前で泣くことは避けたかった。もし優しくされたなら、彼に甘えたくなってしまう。だが、平然としていられるほどの強さも持ち合わせていないのだ。両手を顔に押し付けて、栞は俯いた。
 いくら涙が見えないからといって、栞が何をしているのかは明白だっただろう。沖矢の気配がゆっくりと近づいてくる。そしてすぐ隣で、ソファが沈む感触が伝わった。彼は何も言わなかった。
「お……きや、さん……」
「はい」
「今日、ここに……あの、泊めてもらっても……いい、ですか?」
「ええ、もちろんです」
早く顔を上げないと。きっと沖矢は困っている。栞は乱暴に目元を擦って恐る恐る隣に目を向けた。彼のゆるやかな弧を描く口元が言葉を紡ぐ。
「今日はもう遅い。部屋に案内しましょう」
ギシ、と音を立てて彼はソファから立ち上がった。飲みかけのコーヒーもそのままに、彼は部屋のドアを開ける。
 案内された部屋には、ベッドにクローゼット、机があるぐらいで、生活感がなかった。
「こちらの部屋を使って下さい」
「……沖矢さんは?」
「僕は自分の部屋で。一人では寂しいですか?」
目の前の男は、平然とした顔でそう言ってのけた。栞が目を丸くして固まっていると、笑い声が聞こえてくる。沖矢にからかわれたのだ。
「ち、違います! ここが、沖矢さんの部屋なんじゃないかって思って……」
「ああ。そういえば言っていませんでしたね。僕はここに居候している身で、本当の家主は工藤さんという方です。なので、今は使われていない部屋がいくつかあるんですよ」
「え……工藤……?」
聞き覚えのある名前。それは、この物語の主人公の本当の名ではなかったか。工藤という単語に、やけに広い屋敷。どうして気が付かなかったのか。慌てていて、表札は見なかった。しかし、今になって屋敷の外観を思い返してみると、おぼろげな記憶の中にある工藤新一の家というものが、はっきりと姿を現すのだ。
「もしかして、工藤さんとお知り合いなんですか?」
「あ! いえ……。あの、どうして沖矢さんはここに?」
沖矢昴という男は、もしかしたら一般人ではないのかもしれない。工藤新一か、もしくは江戸川コナンと何か繋がりがあるのか。そう考えたほうが、違和感はない。沖矢は血を見ても驚く素振りを見せなかった。そして、わざわざ米花公園へ出向いた。ナイフを持った男がまだ近くにいるかもしれないのにも、構うことなく。結果的に男は捕まっていたのだとしても、全く身の危険を感じないわけではなかったはずだ。
「今日はもう寝てください。明日、ゆっくりお話しますよ」
おやすみなさいと告げられて、静かにドアが閉まる。栞は混乱したままの頭で、ベッドに倒れ込んだ。
 まだ何も解決していない。問題が先延ばしになっただけだ。これからどうやって生きて行けばいいのだろうか。
「どうしよう……」
呟いた彼女の言葉に応えるものはいない。

神の気まぐれ