幼馴染未満05
「セバちゃん、あの子放っておいていいの?」
「あー、片づけ終わったら行くんで大丈夫っす」
「……彼女?」
「や、違いますけど」
メニュー表や立て看板を片付けながら、勢羽はふうと息を吐いた。田中からの視線が鬱陶しい。いつもは絶対に言わないくせに「今日は先上がっていいよ?」って、間違いなく次会ったときが面倒なやつだ。
あらかた撤収作業を終え、はやく行けと田中がしつこくなってきたのでお言葉に甘えることにした。
ベンチでお行儀よく座っているなまえは、かわいそうなくらいに顔が真っ青だった。勢羽が近づくと、なまえが勢いよく立ち上がる。
「あの、手を……繋ぎませんか」
「……手?」
なまえがブンと首を縦に振る。手を繋ぐって何だ。これ、聞いてもいいやつなのか。
「……もうちょっと段階を踏みたいと、思いまして」
そしてなぜ敬語。……なるほどわかりたくないがわかってしまった。これはどうしたものかと勢羽は思案する。
男の家にホイホイ上がるなという忠告を、なまえは違う意味で捉えてしまったようだ。こんな調子で本当に大丈夫なのか。男に騙されて泣いているなまえの未来が容易に想像できた。
「ん」
勢羽が手を差し出すと、なまえの青かった顔が徐々に赤くなっていく。控えめな力で握られた手からひんやりとした感触が伝わってきた。
なまえは勢羽からの忠告を好意的な意味で受け取った。それが勢羽の想定とは異なっていたとして、決して間違いではないのだ。まあいいか、と勢羽は訂正するのを諦めた。つまるところ勢羽は、この世間知らずと段階を踏んでもいいと思っている。そういうことなのだ。
「段階っていくつあんの?」
「え……」
「そういうのわかんねーんだよな~。希望あるなら聞くぜ~」
「え、えっと」
わかりやすくうろたえるなまえを前に、勢羽は密かに口元をゆるめた。今まで散々面倒をかけられたのだから、このくらいは許されるはず。勢羽はさらに追い打ちをかけた。
「今日このあとどうすんの」
家に来るのか、という意味で勢羽は聞いた。別に来たところでこんな状態のなまえを襲いはしないが、彼女からしてみれば、勢羽の考えなんてわかりっこない。目を白黒させたなまえはなぜか両手で勢羽の手を握ってきた。
「あ、の……襲うのは、一カ月待ってください」
「は……」
危うく吹き出しそうになったのを、寸前のところでこらえる。一体どこでそういう知識を入れてくるのか。どうせスマホで検索したに違いない。
「じゃあ一カ月で全部段階踏まないといけないってことか」
「あ……、そうかも?」
そうかもって何だよ。やっぱり二カ月とか三カ月とか言い出すのかと思いきや、なまえは黙ってしまった。まあ実際一カ月後に怖じ気づいていたって構いやしない。それはそれで彼女をつつくネタにすればいいのだ。どっちにせよ勢羽にとって損にはならなかった。
しかし言ったところで残りの段階なんて「キスくらいじゃね」としか勢羽は思っていなかった。希望があるなら聞くと言ったのは揶揄い半分で、もう半分は「お前の理想に付き合ってもやってもいいぜ」という優しさからだ。
しばらく手を繋いで歩いていたら、意を決したような顔をしてなまえが足を止める。
「今日はぎゅ、をお願いします」
またも勢羽は吹き出しそうになった。ぎゅ、って……。その言葉の意味がわからないわけではなかったが、勢羽はとぼけて繋いでいた手に「ぎゅ」と力を込めた。
なまえがハッとしたような顔をする。そうじゃないとでも言いたいのだろう。しかし間違いを正すのが恥ずかしかったのか、再び彼女は歩き始めた。勢羽は勢羽でキスの前に抱きしめなきゃいけないのか、と考えていた。
シュンとした横顔を見ていたら、かわいそうだなという同情心が沸いてきた。勢羽は一度手を解き、今度は指を絡めながら彼女の手を握った。なまえがキラキラとした目をこちらに向けてくる。振り回してやっているつもりが、これじゃこっちが振り回されているみたいだ。
家の前に着くとあからさまになまえはソワソワと落ち着きを失った。まあ、してやってもいい……のだが、場所が場所だ。なまえの家族が見ているかもしれないこの状況で、彼女は何ともないのだろうか。
「……家、来ねーの?」
「え……あ、」
「段階踏み終わるまで……つーか一カ月? は襲わなきゃいいんだろ」
「うん……。じゃあ、行く」
男の「何もしない」は信用するなよ。本当ならそう言ってやりたいところだったが、実際警戒されると面倒なので黙っておいた。
なんか適当なところで抱きしめとくか。勢羽としてはそういう心構えだった。しかし部屋のドアを瞬間、なまえのほうからピタッと身を寄せられた。柔らかな感触が、じわじわと勢羽の脳を侵食する。
(これでヤらねーとか嘘だろ)
この生殺しが一カ月も続くと考えたら地獄だ。まあ段階を踏むと決めたのだから、最後まで付き合う気ではいるが。勢羽の苦労なんて知らないなまえは幸せそうな顔をしている。全く何がそんなに楽しいんだか。
お望み通り、勢羽はなまえの背中に手を回してやった。そうして彼女のつむじに顔を擦り付ける。キスされたとも気づかない彼女は呑気にへらへらと笑っていた。
「なあ、次はどうすんの」
「……頭を、撫でてください」
「……」
思ったより数あるな。勢羽はとりあえず言われた通りにして、次を急かした。
「次は顔……ほっぺをお願いします」
これでもかというくらい優しく撫でてやった。くすぐったそうに首をかしげるなまえを前に、勢羽の中にはある決意が芽生えていた。
今日中にキスを強請らせてみせる。
それでなまえもじれったい思いをすればいい。双方の同意があれば一カ月経っていなくたってセーフだ。
「次は?」
「今日はもう大丈夫……。夏生くんは私にしてほしいこととかある?」
「…………いや、今日は特に」
いたって平静に、いたって冷静に。項垂れたくなる気持ちを抑えて、
「なんか動画でも見るか~」
と言った。第一ラウンドは勢羽の負けである。
果たしてこの先、勢羽が勝つことができるのか?
少なくともここから一カ月、勢羽に勝機は訪れない。そのことを知らない勢羽は、今日もあの手この手でなまえを甘やかすのだった。先に惚れたほうが負けというのは、正にこのことである。