すべての道は今のため
エスフロストからの要求を断り、ロランを守るためウォルホート領で敵を迎え撃つことが決まった。
セレノアは街に張り巡らされた罠を確認したのち、城に戻った。城内には避難してきた領民の姿が見られる。彼らの顔には不安がにじみ出ていた。覚悟していたことではあるが、いざ目の前にすると心が痛む。だが弱音を吐いている時間もない。
街ごと焼き払ってでも勝たねばならないという窮地だ。できれば火計の罠は使いたくないが、街が戦場になることには変わりない。次々と城に入ってくる領民を眺めながら、セレノアはあることを思い出した。
セレノアが向かったのはベネディクトのもとだ。ベネディクトは水路の上流で油を流すための準備をしていた。その隣でフレデリカが不安そうな眼差しを水路に向けている。
「若様、こちらの準備は間もなくです」
「ああ、ご苦労。それよりベネディクト、ナマエは足が悪かっただろう? 様子を見に行ってやらなくていいのか?」
「……若様が気にされるようなことでは」
「そういうわけにもいかないだろう。ここは私が引き継ぐから、お前は一度家に帰れ」
「……お心遣い痛み入ります」
一礼してベネディクトが去っていく。
セレノアはフレデリカからの視線を感じていた。「あの」控えめな声で彼女が言う。
「ナマエさんというのはベネディクトのご家族でしょうか」
「ええ、彼女も昔はウォルフォート家に仕えていた魔導士です。フレデリカと同じ炎の術を得意としていたそうですよ」
「そうなのですね。機会があればお話してみたいです」
「いずれ顔を合わせるときが来るでしょう。そのときはぜひ」
「はい」
話しているうちに罠の準備も整ってしまった。あとは敵が攻めてくればいつでも発動できるという状態だ。セレノアはフレデリカを連れて城に戻ることにした。
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ナマエは自宅で避難の準備をしていた。ここが戦場になると知ったのはついさっきのことだ。しかし準備といっても、持っていくものなど何も思いつかない。それならもう出発してしまおうかと思っていたところ、規則正しいノックの音が聞こえる。
親切な誰かが避難の知らせにでも来てくれたのだろうか。はあい、と間の抜けた返事をして後悔したのは、扉を開けたのが夫であるベネディクトだったからだ。
ベネディクトはナマエを見るなり眉を寄せた。自然とナマエの身体も強張る。
「……まだ残っていたんですか」
「すみません、すぐに出ます」
「責めているわけでは……。あなたは足が悪いのだから、早めの避難を」
「はい……」
ナマエはベネディクトの横をすり抜け家の外に出た。城へ向かって杖をつきながらゆっくり歩き、なぜかその後ろからベネディクトがついてきている。
「あの、大丈夫です……一人で行けます」
「私もちょうど城に戻るところでしたので」
「……はい」
それならどうして追い抜いて行かないのか。ベネディクトは妙なところで優しい。彼と結婚できたのも、その優しさに付け込んだようなものだった。彼の心の中に別の女性がいることは知っていた。それでも自分のもとに縛り付けられるのならと思ってしまったのだ。
だけど、ふとしたときに思い出してしまう。ベネディクトは今もデストラのことを思っていて、きっとこの先もずっとそうなのだろうと。
長い間縛り付けてしまった。もうここまでにしようと考えたことは何度もあった。過去の行いを後悔しているわけではないけれど……身勝手な話、苦しくなってしまったのだ。
「……いっ!」
考えごとをしながら歩いていたら、足を捻ってしまった。幸い転んではいないけれど、足首がじんじんと痛む。後ろからの視線を気にしつつ他所の家の塀に寄りかかって休もうとしたら、やはりベネディクトが口を挟んできた。
「腕を」
「……すみません」
肩を貸してくれるのだろうと思った。しかしベネディクトはひょいとナマエを抱え上げてしまう。
「ベネディクト……?」
「あなたに合わせていたら敵が攻め込んできてしまいます」
「……すみません」
「さっきからそればかりですね」
ナマエはまたも謝ろうとして、別の言葉を探し口をつぐむ。結果、城に着くまでそれ以上会話をすることはできなかった。
ベネディクトは城の一室でナマエを椅子の上に座らせた。ここに他の領民の姿はない。いいのだろうか、一人だけこんな場所にいて。
「足の具合は」
「大したことはありません。私もみなさんと同じ場所へ行ったほうがいいのではないですか?」
「どうせここも避難場所にするつもりだったので、お気になさらず」
「そうですか」
「では、私はこれで」
「あ、あの! ベネディクト!」
ベネディクトはドアの前で立ち止まって、半分だけナマエに目を向けた。その顔立ちが苛立っているようにも見えて、ナマエの決心が揺らぐ。
「……御武運を」
「ありがとうございます」
静かにドアが閉まる。結局、今日も言えずじまいだった。
しばらく待機していたら、アンナが避難民を連れて部屋に入ってきた。アンナはナマエに近づき頭を下げた。
「アンナ、そんなにかしこまらないで」
「ですが……」
困った様子のアンナを見て、ナマエは苦い笑みを浮かべた。いち領民であるナマエにセレノアの家臣であるアンナが頭を下げる必要は本来ない。しかしナマエはベネディクトの妻であり、アンナの育ての親でもあるのだ。
「ごめんなさい。困らせたかったわけじゃないの」
「いえ、ナマエ様がいつも親しく接してくださることが私の支えです。……ところで、転倒されたと聞きましたが」
「大丈夫よ。ちょっとバランスを崩しただけ」
「そうですか。無理はなさらず……」
「ありがとう。アンナも戦いに出るのでしょう? 気をつけて」
「ありがとうございます。では、私はこれで」
さっきとベネディクトと全く同じことを言っている。ナマエがくすりと笑うと、アンナは不思議そうな顔をした。何でもないと言うと、今度こそアンナは行ってしまった。
戦いで家が燃えてしまうかもしれないというのは事前に聞いていた。ナマエはその仕組みも知っている。火計の罠はウォルフォート家の当主とその側近にのみ代々伝えられているものだ。なぜその仕組みをナマエが知っているかというと、もう二十年以上も前の話になるが、罠を使おうかという話が一度出たからだ。当時その場にいたのは当主シモンとその腹心のベネディクト、着火役として指名されたナマエの三人だった。結局そのときは使わずして勝利を収め、罠については固く口止めをされて終わった。今回はどうなるのだろう。鷹の像を壊すくらいなら、手伝えるかもしれない。
ナマエは部屋を出てセレノアの姿を探した。途中でベネディクトに見つかったら厄介だが、そこはナマエの祈りが通じたのか最初に鉢合わせたのはエラドールだった。
エラドールはナマエを見るなりぎょっと目を見開いた。ナマエは気付いてないふりをしてエラドールに尋ねる。
「セレノア様がどちらにいらっしゃるか知りませんか?」
「おいおい、何してんだベネディクトが黙っちゃいねえぞ」
「私の魔法で鷹の像を壊す手伝いができないかと」
はあ、と頭上からため息が降ってくる。
「戦いは俺たちに任せときな。あんたがいたらベネディクトのやつが正気じゃいられねえだろうよ」
「そんなことはないと思いますけど……」
「まあどっちにしろ若が許可するとも思えん」
確かにな、と思った。何とも呆気ない終わりである。
「一つ確認したいのですが、セレノア様は罠を使うつもりなのでしょうか」
「聞いたわけじゃないが、若の性格上……」
エラドールは口を一直線に結んだ。ナマエの予想通り、セレノアは領地を燃やすことに抵抗があるようだ。
「それならセレノア様にお伝えください。私たちの家は燃えても構いません。もとよりそのつもりで火付け役に志願するつもりでしたと」
「ベネディクトもそう言ってんのか?」
「確認してませんが、ベネディクトは気にしないでしょう。……それに、燃えるくらいがちょうどいいかもしれません」
「どういう意味だ?」
「長い間縛り付けてしまいました。もう解放してあげたい。だけどいつまでも踏ん切りがつかなくて、あの家が燃えてしまえばと」
エラドールはおそらくベネディクトの思い人を知っている。それなのに式のときは祝福してくれた。こんな話を聞かせてしまって申し訳ないけれど、誰かに話して自分を追い詰めなければまた決心が揺らいでしまいそうだった。
「……あんたら、一回腰据えてじっくり話したほうがいいんじゃねえか?」
「そうですね。それができたら一番いいんでしょうけど、向き合うのが怖くて」
「ま、まずは目の前の敵だ。あんたはここでいい知らせを待ってな」
「はい。セレノア様によろしくお願いします」
エラドールは最後にもう一度ため息をつきながらも引き受けてくれた。
ナマエはエラドールを見送り、来た道を戻る。城の中まで敵が攻めてくるんじゃないかというより、ベネディクトとのこれからのことを考えるほうが恐ろしい。ベネディクトのことは今でも好きで、それこそ抱き上げられて少女のような反応をしてしまうくらいなのに、どうしてこうなってしまったのかと嘆きたくもなってしまう。