すべての道は今のため

 塩鉄大戦で両親を亡くしたナマエは、ひとり野盗に追われているところをシモンに保護された。魔術の才があったこともあり、そのままウォルフォート家に仕えることとなったのだ。そうしてベネディクトやエラドールとも出会った。
 ベネディクトは今よりも血気盛んで、けれど知略に優れたところはそのころから顕在だった。戦場で二度助けられたときにはすでに恋に落ちていた。だがベネディクトのことを目で追っていたら、彼が別の女性を見ていることに気付いてしまった。
 相手はシモンの妻であるデストラだ。しかも彼女は子どもを身ごもっている。ベネディクトには悪いが、そのことにナマエは安堵していた。
 デストラは身体が弱いこともあり、セレノアを産んですぐに亡くなってしまった。ベネディクトはたびたびデストラの墓を訪れていた。彼の懺悔のような言葉を聞いてしまったのは偶然だったが、一生勝てそうにないと悟ったのはそのときだった。
 あるとき、ナマエは野盗に追われている家族を目撃した。助けも呼ばず一人で野盗の前に立ちはだかってしまったのは、かつてのシモンの姿に憧れを抱いていたからなのか、自暴自棄になっていたからなのか、今でもよくわからない。
 結果、ナマエはそこで生涯にわたる大怪我を負うことになった。命を落としてもおかしくない傷だった。その場に駆けつけてくれたのはよりにもよってベネディクトで、ナマエは血まみれのまま彼に抱き上げられた。
 意識はもうろうとしていて、それから先のことはあまり覚えていない。
 次に気付いたのはベッドの上だった。足の傷がひどく戦場に立つことは今後難しいと医者から聞いて、ナマエは絶望した。家族を失い、それでも生きていけたのはウォルフォートの家臣たちを家族のように思っていたからだ。しかし戦いに出られないのなら、ここにはいられない。そう考えたら食欲も失せ、手足はやせ細っていくばかりだった。
 ナマエの見舞いには多くの人が訪れた。シモンも例外でなく、みな暖かい言葉をかけてくれた。一人だけ違ったのが、ベネディクトだ。
「みなに心配をかけて、どういうつもりだ!」
 まさかそんなことを言われるとは思わず、ナマエはその場で泣いてしまった。それでもベネディクトは引かなかった。
「足のことは残念だが、それ以外の怪我は治っているだろう。なぜ食事を拒む」
「……だってもう、生きてる意味ない。お父さんもお母さんも死んで、私は一人で……戦うこともできなくなって」
わんわんと子供のように泣いていたらベネディクトがハンカチを差し出してきた。「言い過ぎた」思ってないくせに、とナマエは余計に泣いた。
 しばらく泣き続けていると、ベネディクトは無言で出て行ってしまった。もうおしまいだ。絶対に嫌われた。だけどこれ以上涙は出てきそうにない。ナマエがシーツに顔を押し付けて声を殺そうとしていたら、再び扉が開いた。ベネディクトは水をとりに行ってくれていたのだ。
「飲みなさい」
 ベネディクトが戻ってきてくれたことに安心して、ナマエはこくりと頷いた。そうして
「わたしと、家族になって。ひとりじゃ生きていたくない」
 半ば自分の命を盾にベネディクトに結婚を迫ってしまったのだ。
 今考えたら、断られていてもいずれ立ち直っていたのだと思う。だけどそのときは本当に死んでもいいと思っていた。こんな迫り方をするなんて最低だ。ベネディクトの優しさをこんな形で踏みにじってしまって、それこそ死んだほうがマシだったのかもしれない。

 結婚祝いにとシモンからは土地と家が送られた。しかしベネディクトが帰ってくることはほとんどなかった。いつしか態度もよそよそしくなって、互いに敬語で話すようになってしまった。夫婦の時間というのもなく、アンナがいたことでかろうじて会話する機会があったという程度だ。ベネディクトがアンナに密偵としての心得を厳しく叩きこむ傍ら、ナマエはアンナを実の娘のようにかわいがっていた。アンナはおとなしく手のかからない子どもで、だからこそうんと甘やかしたくなってしまったのだ。
 アンナが一人前になり、ウォルフォートの密偵として働くようになってからは、ほとんどベネディクトと接する時間も失われていた。それでも最後に帰ってくる場所はここなのだとナマエは自分に言い聞かせていた。
 だけどもう疲れてしまった。あまりにも身勝手な話である。ベネディクトの立場であったら憤りを覚えたっておかしくない。……それとも、ようやくお守りから解放されると喜ぶのだろうか。

 城に避難して一週間後のことだった。セレノアたちが火計を使うことなくエスフロスト兵を退けたと知らせが入る。周りからは安堵の声が上がっていた。
 多くの人は家の様子を確認したいと城を出て行ってしまった。ある程度人の動きが落ち着いたところでナマエも杖を取る。

 家の窓は割れ、ドアのカギは壊されていた。部屋の中は踏み荒らされていて、すぐに人が住める状態にはなかった。
 ナマエが家の中で立ち尽くしていたら、背後から声が掛かった。
「ナマエ」
「……あ、ベネディクト」
「領民にはしばらく城で寝泊まりしてもらうことになりました」
「はい……。その、お忙しいとは思いますけど……少し話せませんか?」
「ここで良いのですか?」
「すぐ済みますので。……今まで縛り付けてしまってすみませんでした」
ナマエが言うと、ベネディクトはぴくりと眉をつり上げた。
「どういう意味ですか?」
「これからは一人で生きて行こうと思います」
「……どこに住むつもりですか?」
「この家をいただきたいとは思っていません。少し離れたところに空き家があったでしょう? 昔の貯えが少しあるので、譲っていただいて、修繕して……」
「なぜここではいけないのです?」
気付けばベネディクトがすぐそばまで来ていた。どくんと心臓が鳴る。あなたが苦しそうだから……いや、人のせいにするのは止そう。だけど自分が苦しくなったからだとはできれば伝えたくない。
 迷っているあいだ、頭に突き刺さるような視線を感じた。ナマエはベネディクトの胸元を見ながら呼吸を整えた。
 沈黙を破ったのはベネディクトだった。
「あなたは最後まで勝手な人だ」
「……はい」
「一度くらいなら私が身勝手を言っても許されるとは思いませんか」
「……もちろんです」
「もう二度と一人で生きていくなどと口にしないでいただきたい」
「え……?」
ナマエはポカンとした顔でベネディクトを見上げた。どういう意味か聞いてもいいのだろうか。聞くなら今しかないような気がする。
「……今まで仕方なく一緒にいてくれたのではないですか?」
「私が仕方なくで何十年も連れ添うような男だと?」
「見え、ました……」
ベネディクトがこれでもかというくらい眉を寄せたので、慌てて付け加える。
「違うということですよね!?」
「……ええ、ですが今までの私の態度を考えればあなたが誤解するのも致し方ない」
「そんなことは、ないですけど」
「あなたからは聞けないでしょうからここで言います。私が今デストラ様に抱いている思いとあなたに対して持つ情は全くの別物です」
「情、ですか……」
情なら捨ててもらっても構わないな、と思ってしまった。直接デストラのことを聞いたことはなかったけれど、いざ目の前に突きつけられると胸が痛む。
「……」
「あなたのことは愛している」
「えっ……でも」
「……情にも、種類があるでしょう」
言いながら目を逸らしたベネディクトは、欲目からか照れているように見えた。
「あ、愛情……ですか?」
「今さら信じられないかもしれないが」
「ですけど、そんな素振り、全然……」
「確かに私は以前、デストラ様のことを愛していた。だからあなたに触れることはできなかった。あなたから向けられる眼差しが眩しすぎて目を逸らしてしまった。……今もデストラ様のことは心の大きな部分を占めている。だが、今の私が愛しているのはあなただ、ナマエ」
「……そんなの、もう少し早く聞きたかったです」
「すまない」
「いいです。私も意地になって、何も言わなかったから」
「やはりその様子だと私に好きだと言ったことは覚えてないようだ」
「え」
ナマエは一瞬、息をするのも忘れて硬直した。好きだなんて一度も言った記憶はない。ベネディクトがデストラのことを変わらず愛していると今の今まで思っていたのだ。言えるはずもない。
「あなたが一人で野盗に立ち向かった日だ。私の胸にしがみついて、うわ言のようにずっと繰り返していた」
「……だから一緒になってくれたのですか?」
「私はあのとき、こんな自分でも救える人間がいるのだと浮かれてしまった。だが結果的に、あなたには酷いことをした」
「いま、救われました……だからもう」
ナマエはベネディクトの胸に身を寄せた。あのときとは違って静かな抱擁だ。ここまでたどり着くのに二十年以上かかってしまったけれど、ナマエの胸は満たされていた。