特別な土曜日

 土砂降りの日だった。
 夕ご飯とお風呂を済ませた私はベッドに座ってSNSのチェックをしていた。内容はほとんど頭に入ってこない。友達のアップした写真に「いいね」をつけて回る。おしゃれなカフェ、手作りのクッキー、新発売のアイシャドウ。よくもまあ、ネタが尽きないものだと思う。
 ピカッと雷が光って、雷にしては眩しすぎる光に思わず目を閉じる。鏡に光が反射したのだろうか。おばあちゃんから譲ってもらった鏡は正直この部屋には大きすぎる。
 目を開いて数秒後、私はもう一度目を閉じた。なぜかって、その鏡の前に人がいたのだ。見間違いだろうと思った。恐る恐る目を開けて、次は叫びたくなった。男のひとだ。誰、何、どうやって。声を上げたかったのに私の喉はヒューヒューと空気を吸ったり吐いたりすることしかできなかった。せめてもの抵抗に距離をとろうとしたけれど、狭いベッドの上で頭を壁にぶつけただけだった。
 どうしよう。怖いのに、なぜか彼から目が離せない。彼は状況を理解していないようだった。きょろきょろと部屋の中を見渡して、自分の手を眺めてみたり。そんなことされても、困るんだけど。
「あ……の」
喉から絞り出した声はかろうじて聞こえたようだ。「はい」と返事が返ってきて、言葉が通じるとかそんなことより目が合う恐怖を感じた。
「だれ」
不審者に話しかけるなんて正気じゃない。私がすべきだったのは大声を上げて下の階にいる親を呼ぶなり、そうじゃなくてもスマホで助けを求めるなりすることだ。
 男のひとは返答に迷っているようだった。沈黙の中でも彼が私のほうに近づいてこなかったのは幸いだ。そして、彼はじっくり時間をかけて名を名乗った。「ジェイド・リーチ」もちろん全く心当たりはない。
 ジェイド・リーチは自分がどうやってここに来たのかわかっていないのだと言った。彼は学校内で転移の鏡を使って移動していた途中だと。彼の言うことを信じるなら、その後ろの鏡から出てきたって……まさか、でも部屋のドアは閉まっているし。と、うっかり本当に信じてしまいそうになる。
 ジェイドと名乗った男は鏡に手を当てた。それで本当にいなくなってくれたらよかったのだが、ジェイドが鏡を押しても叩いても彼が消えることはなかった。「困りましたね」って、困ってるのは私だ。
「あの、もしジェイドさんの言ってることが本当だとして……」
「はい」
「その鏡から帰れないなら、普通に電車なり何なり使って帰っていただくというのは」
「そうですね」
そのとき、ゴロゴロと雷が鳴る。そういえば外は土砂降りで、しかも夜だ。今から外に追い出すのはかわいそう……な気もするけど、こんな知らない人を一晩泊めるなんてごめんだ。親に見つかったら私にまで妙な誤解が飛んでくる。傘の一本ぐらいならあげちゃってもいいし、電車賃がないって言うならお金を渡してもいい。とにかく早く出て行ってほしいのだ。
「……スマホとか、持ってます?」
私が聞くと、ジェイドはズボンのポケットを探った。スマホは持っているようだ。彼は安堵の表情を見せ、私も同じ気持ちだった。スマホがあるならどうにかして帰れるだろう。さっきからチクチクどこかが痛むような気もするが、下手な優しさを見せようものならきっと後で後悔する。ただ、今から玄関まで行くのもけっこう危険だなと少し冷静になった私は思うのだ。確実に親に見つからないようにジェイドを家の外に出すには明日、私が仮病で学校を休み、親が仕事に出た後に出て行ってもらうというのが一番いい。やりたいかと言われたら、やりたくないけど。
 ジェイドは窓に目をやった。さすがにそれは、と思ったけど、彼はたぶんここが二階だと知らない。外の景色を確認した彼はもう一度鏡を見た。
 窓も鏡も諦めたらしいジェイドはここに来て初めて足を動かした。「ひ」と声を上げてしまって、ジェイドが目を見開く。ややあって、彼は謝罪した。
「すみません。心配していただかなくともちゃんと出て行きますよ」
ジェイドはドアのほうへ向かって行った。一歩、また一歩。ノブに手が掛かったところで「待って」と声を上げる。
「どうしました?」
「し、下に親がいる。見つかったら通報されるかも……」
「ああ、そうでしたか」
ジェイドは目を細めて口をきゅっと結んだ。こんな状況だというのに、あまり焦っているようにも見えない。
「……あの、外はあんなだし……明日にしたら」
ばか、と頭の中で自分に言う。こんな人に親切にしたってきっといいことない。そう思うのに、考えているのと反対のことを言ってしまっていた。
「……ありがとうございます」
ジェイドは目を丸くしている。私と目が合ったときよりも、鏡に触れて帰れなかったときよりも驚いているみたいだった。
 雨の音に紛れてバイブ音が鳴る。びくりと肩が動いてしまった。ジェイドのスマートフォンの音のようだ。
「もしかしたらすぐに帰れるかもしれません」
「……そう?」
「この鏡とあちらを繋ぐよう、なんとかしているみたいなのですが、少し場が不安定のようで」
「……そうなんだ」
鏡の前に移動して、その表面をツンとつつく。いたって普通だ。本当にこの鏡からこの男が出てきたのかと疑いたくなるほど何もない。写っている自分の姿を見て、パジャマだったことを思い出す。恥ずかしいけど、さすがに着替える気にはならない。
 鏡の前から離れようとしたとき、遠くで声が聞こえたような気がした。ジェイドの声じゃない。鏡を見てみると、不思議な模様が浮かび上がっていた。
「……え」
「繋がりました!」
声は鏡の中から聞こえる。さっきよりも近い。そして、ぬるりと鏡面から手が伸びてきた。あまりのことに呆然としていると、その手が私の腕を掴む。「アズール、違います!」ジェイドの声が遠くで聞こえた。

 目を開けると、私の部屋ではなかった。目の前にいる男のひとは私の腕を掴んだまま、固まっている。
「誰これ」
もう一人いたようだ。眼鏡の男のひとの後ろからひょいと顔を覗かせたのは……
「ジェイドさん……じゃ、ない?」
「ジェイドのこと知ってんの?」
ジェイド・リーチに似た男は言った。姿はそっくりだが、話し方は全然違う。しかもジェイドより怖い。蛇に睨まれたカエルみたいに私の体は動かなくなってしまった。
「ねえ、ジェイドのこと知ってんのかって聞いてんだけど」
「あ……の、さっき会いました」
「どこで?」
「……私の部屋で」
「あー……ってことはアズールが間違えたんじゃん」
ジェイド似の男は私に近づいて、頭のてっぺんからつま先までまじまじと見つめた。普通の、初対面の人に対する距離じゃない。しかも私はパジャマだ。二人はジェイドと同じ制服のようなものを着ている。ジェイドの言っていた学校の制服なのだろう。
「……すみません、腕」
私が言うと、アズールと呼ばれたひとはパッと手を放した。彼から距離を取ろうと後ろに下がると、頭が何かにぶつかる。振り向いて確認すると、大きな鏡がそびえ立っていた。
 つまり、ジェイドの言ったことは本当だったのだ。この鏡と私の部屋の鏡が繋がって、たぶん私は間違いでここに来てしまった。ただ不安なのが、鏡に触れても転移とやらができないことだ。
「……もう一度、私の部屋と繋いでもらえるんでしょうか」
「ええ……もちろんです」
「あーちょっと待った」
「何です、フロイド。邪魔しないでください」
「アズールそれ、真っ黒になってんじゃん」
「……ああ、」
アズールは手元のペンを煩わしそうに睨んだ。ペンについている宝石のようなものは確かに黒く濁っていて、良くない状態なのだろうと察する。
 アズールはジェイド似の、フロイドという人に教師を呼んでくるよう言った。「なんで俺?」と言いつつも、フロイドが部屋を出て行く。
 アズールはペンを胸ポケットに入れ、ため息をついた。
「少し、状況を整理させてもらってもいいですか」
「え、はい」
「あなたの部屋に突然ジェイドが現れたということでいいでしょうか」
「……はい、あの、どうしてそんなことに?」
「この鏡です」
確かジェイドは転移の鏡と言っていた。本来なら決まった場所に出るらしいのだが、なぜか私の部屋と繋がってしまったのだと。
 異変に気付いたアズールはジェイドの魔力の痕跡を辿って私の部屋を特定したらしい。しかし、私がここに来てしまったことで、ジェイドの痕跡が薄くなってしまったそうだ。
「あなたをここに連れてきてしまったことは僕に責任があります。ただ、ジェイドがそちらに行ってしまったのは事故ですね」
「……はい」
「心配しなくとも、ここの教師は優秀な魔法士です。すぐに帰れると思いますよ」
アズールはにこりと笑った。
 それから間もなくバタバタと人が増えて行った。呼びに行ったフロイドと、大人が数人。当然と言えば当然だが、みんなが私のことをジロジロ見てくる。せめてパジャマじゃなければなと思った。
「困りましたねえ」
仮面のようなもので顔を隠しているのが学園長らしい。彼は鏡をまじまじと見つめて首を傾げた。
「トレイン先生、わかりますか?」
「……見たところ、魔力が不安定になっているようだ」
「なるほど。では、ここは私たちに任せて、アーシェングロットくんたちは部屋に戻るように」
「ですが」
「聞けばオーバーブロット寸前だそうじゃないですか」
学園長がそう言うと、アズールは口を結んだ。少しの沈黙の後「よろしくお願いします」と言って私たちに背を向ける。
 作業はほぼトレイン先生一人で行われていた。コツコツと音を立てて学園長が近づいてくる。話しかけられると思うと、緊張で喉の奥が苦しくなった。
「生徒の不手際で申し訳ありません」
「あ……いえ、事故だったと」
「そう言っていただけると助かります」
仮面の奥でにっこり笑う学園長に大人の事情を感じてしまった。今のところ学校を訴えたりとか、そんな考えはないけれど、家に帰るまでの責任はとってほしいと思っている。現にトレイン先生がそうしてくれているから不満はないが、どちらかというとジェイドのためにやっているのかもしれない。ジェイドには酷いことを言ってしまったと思う。この状況で家まで電車で帰れと言われたら、たぶん文句を言ってしまう。涼しい顔で「そうですね」と言った彼は、あのとき何を思ったのだろう。
 両親が部屋に入ってくることはないと思うが、それでもジェイドが部屋に一人でいるというのは心配だった。部屋の中を物色されるとか、そういう心配はしていないけれど、よく知りもしない男のひとだ。きっとジェイドのほうが一人で不安なはずなのに、自分のことばかり考えてしまうのが嫌だった。
 しばらく待っていると、トレイン先生に呼ばれた。鏡の前に立つよう言われて、ごくりと喉を動かす。もし、全然違うところに転移してしまったらどうしよう。考えている間に鏡がピカッと光って、ぬるりとジェイドが飛び出してくる。目が合った。でも、言葉を交わす暇もなく私は足を踏み出していて、気付いたら自室の床に座り込んでいた。帰って来たんだと、まるで今まで夢でも見ていたんじゃないかというほど代わり映えのない景色で、外はまだ雨がザーザーと降っていた。