特別な土曜日

 授業が行われている教室に入るのは、なかなかに抵抗がある。前のドアを開けてしまえば全生徒から注目される。かといって後ろのドアを開けたって、今の私の席が前の方にあるのだから不自然だ。私はなるべく音を立てないように前のドアを開け、突き刺さるような視線を感じながら自分の席へ向かった。寝坊なんてしなければ。……でも、寝坊しなかったらジェイドはあの部屋でひとり途方にくれていたかもしれない。今の瞬間にもまたジェイドが部屋に来ていたら。嫌なことばかり考えてしまって、授業のほとんどが頭に入ってこなかった。
 放課後になって私は急いで家に帰った。勢いよく部屋のドアを開けたが、何の変わりもない。目に入ってきたのはあの鏡で、やっぱり処分したほうがいいのだろうと思った。
 確か、工具箱があったはずだ。階段を下りて物置へ行く。思った通り、工具箱には小さなハンマーが入っていた。持ち手を握ると、ジェイドの顔が頭に浮かぶ。きっともう、会うことはないだろう。
 鏡にはハンマーを握った私が映っている。ごくりと唾を飲み込んだ。鏡を割るなんて、なんだか天罰が下りそうな行いだ。でも、さすがにこれ以上この鏡に振り回されるわけにもいかない。
 目を瞑って、私はハンマーを振り下ろした。けど、手ごたえがない。恐る恐る目を開けて、自室ではない、けれど見覚えのある床のタイルが目に入って全身から汗が吹き出た。
 早く戻らないと。そう思って後ろを見て絶句した。鏡が粉々に砕けていたのだ。「うそ」と呟く私の背後で、誰かが叫んだ。
「おい、鏡が割れてる!」
知らないひとだけど、ジェイドと同じ制服だった。そのひとは私と、私が持っているハンマーを見て顔色を変えた。
 私は咄嗟にハンマーを背中に隠した。けれど、それは間違いだったかもしれない。だって、誰がどう見ても私が怪しいし、私だって私が鏡を割ったと思っているのだ。
「う……」
帰れないかもしれないこと、鏡を割ってしまったことを受け入れられなかった。涙がポロポロと零れてくる。
 割れた鏡の前でハンマーを持って泣く女。そんな怪しい人間に近づこうとするものはいなかった。遠巻きに、ぐるりと周囲を囲まれる。
「寮長を呼ぼう」「いや先に先生だろ」「でも鏡が」周囲が口々に言う。やっぱり大変なことをしてしまったんだ。そんなつもりはなかったと弁明する勇気もない。なるべく顔を見られないようにうつむきながら涙を流していると、視界に革靴が入ってきた。ざり、とガラスを踏む音が鳴る。
「あ……」
ジェイドだった。珍しくうろたえたような顔をしている。手を差し伸べられて、考えるより先にその手を取っていた。
「歩けますか? 歩けないなら抱えます」
「……あ、歩きます」
ジェイドが進むと、私を囲んでいた輪が二つに割れる。ひしひしと視線を感じるけれど、ジェイドはものともしない。こんなことをしたらみんなに誤解されるんじゃないの。共犯だって思われちゃうかもしれないよ。全部、声にならなかった。

 ジェイドが入った部屋は他に誰もいなかった。自然な動作で椅子を引かれて、戸惑いながらも腰を下ろす。
「……ここは?」
「僕の部屋です。今度は貴方が来てしまいましたね」
「……」
「大丈夫ですよ。泣かないで。何があったか話してくれますか?」
「……あの、私、部屋の鏡を割ろうと思って」
「危ないことをしますね」
ジェイドは私の手からハンマーを取り上げた。
「どこも怪我はしてませんね?」
「はい、大丈夫です」
「鏡ですが、特殊な魔法が掛かっていますので多少の衝撃では割れないようになっています」
「……でも、誰がどう見たって私が」
「それは否定しませんが、先生方はわかってくれると思いますよ。とにかく僕は事情を説明しなければいけませんので」
ジェイドがドアノブに手を掛ける。「あ」と駄々をこねる子供みたいな声を出してしまった。慌てて口元を押さえたけれど、ジェイドは聞こえないふりをしてくれなかった。
「すぐに戻ります。辛かったら横になってもらって構いません」
「……はい、ありがとう」

 ただ、うつむいていることしかできなかった。ジェイドはきっとベッドを使っていいという意味で言ったのだと思うけれど、さすがにそんなことできない。ジェイドがそうしたように、私も一歩も動くつもりはない。せめてスマホがあればよかった。思った通り充電がもたなかったスマートフォンは、きっと今も部屋で充電器につながれている。
 親のことや学校のことを考えていると、わっと涙が溢れてきた。明日が休日だったのは幸いだけど、お母さんはもうすぐ家に帰ってくる。鏡なんて割ろうとしなければよかった。そのままどこかへ捨ててしまえばよかった。でも、それでジェイドがゴミ捨て場に転移してしまったらと思ったのも本当だ。ジェイドのせいにするつもりはない。思い出すのは私の部屋で冷静に立ち振る舞っていた彼の姿で、今の自分と正反対の彼に、さらに泣きたくなってしまう。
 コンコン、と扉がノックされた。「はい」と返事した声はしゃがれていて、外まで聞こえていたかどうかわからない。けれど返事のあと、すぐに扉は開いた。
「ジェイドさん」
「貴方が鏡を割っていないというのはわかっていただけました。ですが……」
元の場所に戻るには、少し時間が必要。ジェイドの眉が、ハの字に下がる。
「鏡はもともと新調する予定だったそうです。僕が貴方の部屋に行ってしまったのも、結局理由がわからなかったそうで」
だが、新しい鏡はまだ届いていないらしい。さほど時間はかからないそうだが、早くても二日後だそうだ。
「あの、それなら私……普通に帰ります」
「……それは無理なんです」
ジェイドは私の前で膝をついた。
「ここは、海の中ですから」

「……え、海?」
たぶんこのときの私は相当マヌケな顔をしていたと思う。だって海の中なんて言われても、息もできるし地面に足もついている。特殊な魔法で人間が生活できるようになっているのだと言われたが、すぐには信じられない。
「なんで……わざわざ、海?」
「僕たちは人魚ですから」
「え……?」
「信じられませんか?」
「……まだちょっと、信じられない」
ジェイドは私の知っているような人魚の姿をしていない。足も生えているし、服を着ている。絵本の中で見た人魚は足が魚のようだった。それと、なぜか物語に出てくるのは女の人魚ばかりだったのだ。
 ジェイドは魔法薬を使って人間の姿をしているそうだ。ここの寮のひとはほとんどがそうで、人間の学校に通うためにそうしているらしい。
「薬の効果が切れれば人魚に戻ります。よければお見せしましょうか?」
ジェイドの笑った口からギザギザの歯が見えてしまう。びっくりして、私は身を少しだけ引いた。あの歯に食べられてしまうんじゃないかと思ったのだ。
「怖いですか?」
怖くないとは言えなかった。さっき、私に手を差し伸べてくれたときは本当に安心したのに。手が震えてしまいそうだったから、両手をぎゅっと握りしめた。
「一つ、確認したいことがあって……」
「何ですか?」
「人魚は、人間を……たべる?」
「……僕は食べたことはありませんよ」
ジェイドがそう言ったとき、またあのギザギザの歯がはっきりと見えた。「僕は」って。じゃあほかの人魚は、と聞くこともできなくて、お腹がキュッと悲鳴をあげた。
「食事にしましょうか」
「……」
このタイミング、絶対わざとだ。でも、それにしては普通に「苦手なものはありますか?」なんて聞いてくるから意味がわからなくなる。

 しばらくして戻ってきたジェイドが持ってきたのはパスタだった。クリームソースと、刻んだきのこ、ベーコンと野菜の色どりは私がよく知るクリームパスタそのものだった。二皿あったのには少し安心した。ジェイドもきっとここで食べるつもりなのだろう。
 ジェイドは机にパスタを置いたが、いざそこに座ろうとすると、狭い。もともとジェイドの一人部屋なのだ。文句を言うつもりはない。だが、小さなテーブルを挟んで背の高いジェイドに見下ろされるのは居心地が悪かった。
「どうぞ」
「いただきます。美味しそうですね」
「お口に合えばいいのですが」
じっと見られているのがわかる。ジェイドがフォークに手を付ける気配はない。
 なるべくジェイドを視界に入れないようにしながらパスタを口にいれた。
「あの、とても美味しいです」
「それはよかったです」
ジェイドはにこりと笑ってフォークを手にした。
 それからずっと、私たちは無言だった。もくもくとパスタをフォークに巻き付けて、口に運ぶ。味は本当に美味しかった。たぶんレトルトじゃなくて、手作りだ。寮の食堂だろうか。そんなことを考えているうちに、私はパスタを食べ終わってしまった。
「おかわりしますか?」
「え……いや、もうお腹いっぱいです」
「そうですか。では、片付けてきますね」
重ねられた食器はトレーに乗せられて、運ばれていく。何もできないのがもどかしいけれど、私が安易にこの部屋を出ないほうがいいというのはわかる。あと二日、もしかしたら三日になるかもしれない。運が悪ければそれ以上。私はずっとこの部屋で、ジェイドに世話されるのだろうか。親切にしてくれるのは助かるけど、不安だ。コンコン、とノックの音がして私は背筋を伸ばした。ジェイドが戻ってきたのだ。

「え……?」
耳を疑った。だって「歩きませんか」って。
「でも、出歩かないほうがいいでしょう」
「まあ、少し注目されるかもしれませんが、外に出てはいけないということはないですよ」
ジェイドはやや強引だった。決めかねている私を置いてドアを開けてしまう。ついに彼は「行きますよ」と、外に出てしまった。
 後を追ってドアを開けると、いきなり他のひとに見つかってしまった。見つかるというのはおかしいかもしれないけれど、私の心情としてはそんなところだ。私を見た男のひとは「あ」と口を開いて、けれどそれ以上は何もなかった。早足で去っていく男のひとをジェイドは静かに見つめている。
「こちらへ」
ジェイドに案内されたのはレストランのような場所だった。私とジェイド以外のひとは見当たらない。寮の食堂でもないようだ。明るすぎない照明に照らされた大きな水槽がとても綺麗だった。
「あの、ここは?」
「カフェ、モストロ・ラウンジです。今日はこんな状況なので営業していませんが」
「勝手に入ってもいいんですか?」
私が尋ねると、ジェイドはくすりと笑った。
「いいんですよ。ここを経営しているのは僕たちなので」
「え、ジェイドさんが?」
「まあ、正確に言うとアズールですね。眼鏡の……覚えていますか?」
「はい。そういえばそのとき、ジェイドさんにそっくりの方が」
「ああ、フロイドですね」
ジェイドによると、この三人でカフェを経営しているそうだ。寮でカフェをするって普通じゃない気もするけど、正直それどころではなかったので聞かなかった。
 ジェイドは店内を奥へ進み、水槽の前で足を止めた。
「ここ、水槽の中につながっているんです」
ジェイドが差した場所は水に触れられるようになっていた。まさか、と思ったけれど、本当にそのまさかだった。
 水の中に入ったジェイドは、足がなくて、皮膚も緑っぽい色をしていて、鱗があって、人魚だと言っていたのが本当なのだとわかった。
 目の前に手が差し出される。小さな瓶が彼の手のひらに乗せられていた。キラキラと不思議な色をした液体は、綺麗だったけれど少し不気味でもあった。
「この薬を飲めば水の中でも息ができるようになります」
「え、いや……でも」
「それとも、このまま行きますか?」
「は? ちょっと、何言って」
もう片方のジェイドの手が私の手首を握る。本当に引き込まれてしまいそうだと思った。私は咄嗟に薬瓶を手に取って、中身を飲み干していた。……少し甘い。そんなことを考えていると、急に息が苦しくなってきた。ぐい、と腕を引かれる。
 どぼん。
 息ができると言われたって、吸ったらいいのか吐いたらいいのか。目と口をきゅっと結んだままでいると、私の腕を掴んでいた手が肩に移動する。
「大丈夫です。まずは目を開けて」
思いのほか優しい声で、つい従ってしまう。そっと目を開けてみて、不思議と沁みない。にこやかなジェイドと目が合った。
「ゆっくり、息を吐いて」
ゴボ、と口から大きな泡が出る。しかし、泡は最初だけで後は違和感なく息を吐き出すことができた。
「上手です。次は吸ってみてください」
いくらか不安がなくなったとはいえ、いきなり鼻で吸うのは抵抗がある。こわごわと口で酸素を求めると、いつもと同じように呼吸ができた。水も口の中には入ってこない。
「ふふ、では行きましょうか」
ぎゅ、と手を握られた。さっきみたいに腕を掴まれているのではない。むしろ手を繋いでいると言っていい。ジェイドが尾びれを動かすと、急に景色が動く。いつの間にか、水槽越しに見えていた店のテーブルが遠くなっていた。
「実は外と繋がっているんです」
ジェイドはそう言って更に奥へと進んだ。視界の端を小さな魚が泳いでいく。上を見上げると、魚の群れが遠くに見えた。足元には珊瑚が生えていて、その周りをゆらゆらと海藻が揺れている。夢を見ているみたいだった。
「どうですか?」
ジェイドの問いに、私は頷いた。彼は一瞬きょとんとして、次にくすりと笑った。
「声を出しても大丈夫ですよ」
「……早く言ってください」
「すみません」
ジェイドは私の両手を取って、向かい合ったまま泳ぎ出した。水を切る感触が心地いい。ぐるりと一周回って、気付いたら水槽の近くに戻ってきていた。
 ジェイドが先に店の中に戻る。どういう仕組みなのかわからないけれど、ジェイドは人間の姿に戻っていた。戻ったというのはおかしいかもしれない。彼にとってはこっちの姿が普通ではないのだろうから。
 ジェイドに手を引かれて私も水の中を出た。一瞬だけ息苦しかったが、ジェイドがペンを振るとすぐに苦しさは消えた。それどころか濡れていた服も乾いていて、さっきまで水の中にいたのが嘘みたいだった。
「戻りましょうか」
「はい。ありがとうございました……」
「いいえ」
「でも、急なのはちょっと」
「すみません。次は、気を付けます」
「……ジェイドさん、あの、もう一つ」
店を出ようとしたジェイドが振り返る。
「電話、貸してもらえませんか?」
ああ、とジェイドは頷いてスマートフォンを取り出した。しかし、手元をじっと見つめたまま動こうとしない。
「どう説明するつもりですか?」
そう言ったジェイドの声がいつもより少しだけ低くて、背筋が冷える。確かに鏡の中に入ってしまったなんて言えないし、海の中にいるなんてもっと信じてもらえない。ジェイドのスマートフォンを使うことは、彼に迷惑を掛けることになるかもしれないのだ。
「……友達の家に泊まることになったというのは、どうですか?」
「それがいいと思います」
ジェイドの声色が戻ったことに安心した。ジェイドからスマホを受け取って、自宅の番号を入力する。海の中から地上に繋がるのか疑問だったが、コール音が鳴ったので安心した。何コールか待って、お母さんの声が聞こえる。

「……緊張しました」
通話が切れたことを確認してジェイドにスマホを返す。「自然でしたよ」とジェイドは笑っているが、緊張の半分は彼に見られていたことにも起因する。お母さんは急な外泊に呆れていたけど、疑われた様子はなかった。これで、一安心。あとは予定通り鏡が届いてくれるのを待つしかない。

 ジェイドの部屋に戻るなり、彼はクローゼットを開けてポイポイとベッドの上に何着か服を放り投げた。運動着のようなものと、部屋着のようなものがある。ジェイドはそれらと私を見比べて、首を傾げた。
「大きいですね」
「え……と、着替えということですか?」
「はい。それ、制服でしょう? 寝づらいでしょうし、シワになります。大きいでしょうが、僕が出て行ったら着替えてください。着替えたら、外には出ないように。何か用があるときは、そこの壁を叩いてください」
「え……あの、ジェイドさんは?」
「隣の部屋にいます」
「隣?」
「アズールの部屋です。気にしなくていいですよ、今日は帰ってこないので」
何てことのないようにジェイドは言った。でも、寮生が寮に帰ってこないってまずいんじゃないだろうか。そう考えたところで、気付いてしまった。
「もしかして、帰ってこれないのって私のせい……?」
「いえ、鏡が割れたせいです」
ジェイドはそう言うけれど、胸の奥がざわざわする。寮に帰ってないのはきっとアズールだけじゃない。他の寮生だって、学校に取り残されているはずだ。どうしよう。どうすることもできない。
「本当は言わないほうがよかったんでしょうけど……貴方は気付いてしまうと思いました」
「……はい」
「大丈夫ですよ。友人の部屋に泊まることも認められていますし、アズールが学園長に話を通して教室で寝泊りする許可も出ました。それに僕たちは水の中で眠ることもできます」
「……はい、」
ぽろ、と涙が零れ落ちると同時に頬に手が添えられた。ジェイドの手袋に涙が吸い込まれる。至近距離で目が合って、ジェイドはすぐに離れていった。
「……すみません」
「……いえ」
「おやすみなさい。明日、食べたいものを考えておいてくださいね」
何事もなかったかのようにジェイドは微笑む。彼が出て行った扉を私はしばらく見つめていた。