1話
ベイカー街221B。つい先ほど成歩堂と寿沙都の下宿先に決まった場所である。ホームズの言葉に甘えて二人はここへ来たのだが、成歩堂はホームズの真意を測りかねていた。見ず知らず……とまでは行かないが、素性の知れぬ、しかも海外から来たという人間を自分の家に下宿させるなんて、親切を通り越えてお人好しのすることではないか。更に、成歩堂の中でホームズという人物像は“お人好し”には該当しない。しかし、成歩堂たちはホームズの言葉に甘えるしかなかった。主に、金銭的な理由で。
「なるほどくん、さっそくお買い物に行くの!」
成歩堂が与えられた屋根裏部屋に荷物を置くと、アイリスが胸を張って主張した。彼女はここの住人で、ホームズの同居人らしい。
「ええと……アイリスちゃん、買い物って?」
「いろいろ必要なものとかあるでしょ? それにこの辺の案内もしたいし」
「ああ、それなら寿沙都さんにも声を掛けてくるよ」
寿沙都の部屋へ向かおうとする成歩堂に、アイリスが首を振る。
「すさとちゃんは大丈夫だって」
寿沙都はトランクに詰めていた荷物を片付けている最中らしい。それに比べて、と成歩堂は自分の周りを見渡して溜息をついた。屋根裏ということもあり物が散乱しているが、そのほとんどがホームズのものである。
「なるほどくん、なーんにも荷物がないよね」
「まあ……ぼく自身が“荷物”みたいなものだったから」
「トランクの中に入ってたんでしょ? ほんと、信じられない」
「ぼくだっていまだに信じられないよ……」
成歩堂はアイリスの後を追って階段を下りた。一階のソファでホームズが新聞を睨んでいるのが目に入る。
「ホームズくん、なるほどくんとエマちゃんのお店に行ってくるね」
「それだったらボクも一緒に行こう」
ホームズは新聞を畳んでテーブルの上に置いた。そうして上着に手を伸ばそうとしたところで、アイリスが止めに入る。
「ホームズくんはこれから行くところがあるんでしょ?」
「ま、まあ……そうだったかもしれない」
あからさまに落ち込んだ素振りを見せるホームズを無視してアイリスは入口のドアを開けた。どうやら日常的な光景らしい。
成歩堂もアイリスに続き、外へ向かう。すれ違いざまにホームズはピンと人差し指を立てて、口の端をつり上げた。
「ミスター・ナルホドー、くれぐれも気を付けることだ」
「気を付けるって何をですか?」
「彼女は商売人だ。気付いたら有り金すべて巻き上げられていた、なんてことにならないように」
そんなことを言われて想像出来るのは、口の上手い店主、もしくはケチな人だ。そんな恐ろしい人の店に行くのかと身構えながら成歩堂は道中を進む。しかし途中でアイリスに「そんなことないからね」と釘を刺された。成歩堂の不安はしっかりと彼女に伝わっていたようである。
「ホームズくんのあれ、拗ねてるだけだから。ほんとは一緒に行きたくてしょうがないだけなの」
「そうなの?」
「うん。なるほどくんもそのうち分かると思うの」
ベイカー街を進むアイリスの足取りは軽い。これまでの会話から察するに、エマという店主と仲が良いのだろう。機嫌よく鼻歌を歌うアイリス。それは成歩堂の知らないメロディだったが、不思議と肩の力が抜けていくのを感じた。
ここだよ、とアイリスが指差したレンガの建物。いちばん気になったのは、入口に置かれている立て看板だ。木曜が定休日だと大きく書いてある。その文字は店名よりもはるかに目立っていて、この店で最も大事なことは「木曜が休みであること」だと主張されているように感じた。
「その看板、ホームズくんが作ったんだよ」
「え」
とても気になる言葉が聞こえたが、アイリスはそのまま店の中に入ってしまう。成歩堂も慌てて後を追った。
店に入ってすぐ、カウンターに座る女性と目が合った。にこりと笑みを向けられて、成歩堂は反射的にお辞儀をした。
「エマちゃん、紹介するね! 今度から一緒に住むことになった、なるほどくんなの」
「私はエマです。ここの店主をやっております。よろしくお願いしますね」
「成歩堂です。ええと……こちらこそ、よろしくお願いします」
アイリスとエマが話し込んでいる間に、成歩堂は店内をぐるりと一周した。品揃えとしては、食べ物が多い。果物や菓子類、他にはペンやノートなどの雑貨類も揃えられている。体ひとつで新たな生活を始める人間を連れてくる店としては、いささかズレが感じられた。
「ミスター・ナルホドー、甘いものはお好き?」
成歩堂の体が反射的にぴくりと跳ねた。まさか声を掛けられるとは思っていなかったのだ。アイリスはいつの間にか買い物を終えたようで、エマの視線は成歩堂に向けられている。大げさに反応しまったことが恥ずかしい。
「え、ええ……そんなに口にする機会はないですが」
「これ、よければどうぞ」
エマは簡素な紙箱を差し出した。蓋を開けてみると、たくさんのビスケットが。
「慣れない土地で緊張していることでしょう。そんなときには甘いものが一番です」
「あ、ありがとうございます!」
結局、成歩堂は何も買うことなく店を後にした。申し訳ないのでビスケットの代金だけでも払おうとしたが、エマはそれを良しとしなかったのだ。「そのかわりまた来てくださいね」と見送られて、成歩堂はアイリスの荷物持ちとして帰路に就いた。
家に着き、寿沙都も誘って三人でテーブルを囲む。ビスケットを茶請けにしてアイリス特製のハーブティーを啜っていると、確かに身体がリラックスしたような気になった。ハーブティーもそうなのだが、久しぶりの甘味は口じゅうが痺れるほどに染みわたり、至福だった。
そのまま三人で雑談をしていると、思いのほか時間が経っていたらしい。帰って来たホームズに「おかえりなさい」と声を掛ける。ホームズはつかつかとテーブルへ近づき、皿に盛られていたビスケットに手を伸ばした。
「やはり、ボクの思った通りだったようだ」
「……何のことですか?」
「そりゃあ、ミス・エマのことさ」
成歩堂は首を傾けた。出掛ける前にホームズに言われた印象とは正反対だった彼女。何か問題があったのだろうか。
「えっと……何も買わずに帰ってきて、むしろ申し訳ないぐらいなんですが。それなのにこのビスケット――
「そう、まさにそれなのだよ!」
ホームズは更にもう一枚、ビスケットを口に運んだ。
「ミスター・ナルホドー。キミはこう思ったはずだ、次はこのビスケットを買いに行こうと」
「ま、まあ……そうかもしれません」
「それが彼女の作戦さ。キミは餌付けされたんだ!」
「……いやいや、とてもそんな風には見えませんでしたし、もしそうだったとしても別にいいじゃないですか」
ホームズは顎に手を当て、ふむと頷く。そして「それもそうだ」と言い残し、自室へ行ってしまった。なんとなく腑に落ちないが、ホームズがエマを嫌って言っているのではないことだけは分かる。二人の関係を詳しく知りたくもあったが、ホームズの性格を考え少しばかり面倒に思う成歩堂だった。