短い悲鳴と、鈍い音。まさか転んだのか。安室は椿を探そうとしたが、まだ目が暗闇に慣れない。
この場で床に倒れているのは危険だ。誰かが椿に躓いて転ぶかもしれないし、彼女が踏まれて怪我を負う恐れだってある。来館客がキッドを求めて移動を始める前にどうにかしておきたい。安室はスマートフォンの光を頼りに椿を探す。
「椿さん、立てますか」
「……すみません」
椿は安室の差し伸べた手を取り立ち上がった。しかし、その動きは明らかに不自然で、片方の足を庇っているように見える。
安室は椿の手を引き、ゆっくりと壁際に移動した。キッドの狙う宝石からさほど近くないこの場所からは次第にひと気がなくなっていく。すっかり大人しくなった椿は、未だ手が繋がれた状態であるのに気付いているだろうか。
初めて椿を見たとき、俯きがちで控えめな印象を受けた。しかし後にコナンと話しているところを見て、本来は明るい女性なのだろうと認識が書き換えられる。それだけストーカーの影響が大きかったのだ。次にポアロで会ったときは、緊張していたのか口数が少なかった。そして今日、怪盗キッドに間違われた安室は彼女の強い瞳を目の当たりにする。安室が訂正すると慌てて表情を変える彼女を、見ていて飽きないと思った。椿が気まずいと言った理由は、ほどなくして点いた照明が彼女の真っ赤になった顔をあらわにしたせいで察しがついてしまう。
周囲には驚くほど人がいない。みなキッド目当てに移動したのだろう。
「歩けますか」
椿はここでようやく手を繋いだままのことに気付いたらしい。慌てて安室から離れようとしたが、やはり足を痛めてしまったようでふらつく。壁に寄り添うかたちとなった椿に、安室は手を差し出した。
「家まで送ります」
「い、いいです。安室さんはキッドを追って下さい。それに、毛利さんたちと来ているんでしたよね」
「恐らくキッドはもう逃げているでしょう。毛利先生には後で連絡しますので、ご心配なく」
人当たりの良い安室透。その仮面を少しだけ外したことに椿は気付いただろうか。反論しようにも自力で歩くことも困難な彼女は口を結んだ。そしてとうとう観念したのか、椿は安室の提案に頷く。
「……椿さんは、危なっかしい人ですね」
安室は片手をハンドルに乗せ、ぽつりと呟いた。それは椿に向けて言ったというより、独り言に近い。
「目が離せなくなる。……本来は僕の隣にいたほうが危ないというのに」
エンジンを掛けてアクセルを踏む。椿は助手席で安室の言葉を静かに聞いていた。その姿は心なしかいつもより小さく見える。
「あなたが気まずいと言った理由、なんとなく分かりました」
「……え」
「ですが前にも言ったように、僕は今そういったことは考えられません」
「……普通それ、いま言いませんよ」
信号待ちの隙に彼女を見ると、ちょうど涙を拭っているところだった。こんなときでも、泣き顔は初めて見たなと考える自分が、彼女に思われるに相応しい人間ではないと実感する。
「でも、はっきり言ってもらって良かったかもしれません」
これで前に進めると言った椿。か弱そうに見えて案外たくましいところがあるのだ。そうやって椿は、落ち込んでは勝手に立ち直っていく。そんな椿のことをもっと知りたいと思う気持ちと、危険な任務の最中である自分から遠ざけねばならないという事実があった。
椿のマンションはもうすぐそこだ。彼女はきっと、美術館でのこと以上に気まずい思いをしているだろう。あれから二人は一言も話していない。
目的地で安室が車を止めると、椿はすぐにシートベルトを外した。そのままドアを開けようとする椿を呼び止めたのは、安室が理性に負けたからだ。
「少しだけいいですか」
本来なら今すぐにでも車の中から出たいだろう。しかし椿は戸惑いがちに頷いた。その目は赤く潤んでいる。
「事情があって、僕はあなたたちに嘘をついています。あなたの気持ちに応えられないのもそのためです」
「……はい」
「その嘘がどんな内容なのかも話せません。ですが、すべてが終わったら――」
ひとたび安室は目線を落とし、息を吐いて椿を見据え直した。
「あなたをもう一度、恋に落としてみせる」
何ヶ月、もしくは何年掛かるか分からない。その前に安室の命が尽きる場合だってある。だから椿が待っている必要はない。彼女に質問する間も与えず安室は言い切った。止まっていたはずの彼女の涙が、ぼろぼろと流れ出す。
涙を拭ってやりたい。つい手を伸ばしそうになるが、ぐっと拳を作って堪える。その上に椿の手が重ねられた。
「……待っていてもいいですか」
泣きながらも椿は安室の目をしっかり見て言った。やはり彼女は安室が思っているよりずっと強い。しかし重ねられた手は僅かに震えていて、そういうところがたまらなく愛おしくなるのだ。
「だめだと言いたいところですが……仕方ありませんね」