警察からの事情聴取を終えた翌日、椿は毛利探偵事務所の入り口に立っていた。その手には、菓子折りを入れた紙袋が二つ。片方には新品のハンカチも入っている。インターホンを押し、出てきたのはコナンだった。
「あれ、コナン君ひとり?」
コナンは頷いた。小五郎は依頼人のもとへ、蘭は友人と出掛けているそうだ。もともとコナンも約束があったが、相手が急に体調を悪くして、仕方なく事務所で留守番をしていたところらしい。特にすることもなく、本を読んで時間を潰していたという彼が持っていたのは、椿も良く知る小説だった。
「あ、ナイトバロンだ!」
「椿さんも読んだことあるの?」
「うん。作者さんのファンなんだ」
「へー……」
作者である工藤優作の小説のほとんどが、椿の自宅には揃えられている。コナンも優作の小説が好きだというので、二人は話に花を咲かせた。
椿は当初の目的を忘れ熱く語っていたが、ふと思う。コナンのような小さい子供が読める小説だっただろうか。疑問をそのまま口にすると、少しの間が空いた後、辞書を使って読んでいるのだと彼は答えた。
「すごいね。私が子供のときなんて、漫画ぐらいしか読んだことなかったなー」
「そうなんだー。……あ、それよりも! 椿さんって、結構マイナーなやつも知ってるんだね!」
「そう言うコナン君だって! あ、コナン君……“クラリッサの秘密”の下巻を持ってたりしない?」
クラリッサの秘密は優作の初期の作品で、今は絶版となってしまっている。上官は運よく古本屋で手に入れたのだが、下巻は何処を探し回っても見つからない。ネットオークションで高値で取引されているという話も聞いたことがある。諦めて再販されるのを待っていたが、もしかしてという期待を込めてコナンに尋ねたのだ。するとコナンはにこりと笑って頷く。
「新一兄ちゃんの家にあるよ! 僕もそこから色々借りて読んでるんだ」
「新一兄ちゃん?」
「うん、僕の遠い親戚」
新一は長いこと家を空けていて、コナンは鍵を預かり自由に出入りすることを許されているらしい。小説が読みたいなら、とコナンは椿を新一の家に誘ったが、それはどうなのか。新一にメールで事情を伝えるとコナンは言うが、さすがに知らない人の家に上がり込んで小説を読むのは常識に欠ける。新一だっていい気分ではないはずだ。確かに小説の続きは読みたい。続きが気になって仕方がない。そんな誘惑を掻き消すように椿は頭を振る。
「コナン君がそう言ってくれるのは嬉しいんだけど、新一さんにも悪いし――」
「あ、新一兄ちゃんから返事! いいよ、だって。よかったね!」
どうやらこれは決定事項らしい。コナンに強引に話を決められたようなものだが、小説を読みたいことも事実であり、椿は従うことにした。
「あ、でも椿さん。今日は何か用があったんじゃないの?」
コナンの言葉でようやく椿はここに来た目的を思い出した。慌ててコナンに紙袋を差し出す。これは? と首を傾げるコナンに、椿は事件を解決してくれた礼の品だと説明した。青い袋を小五郎に、白い袋を安室に渡してほしいと伝えたが、コナンは何故か小五郎の分しか受け取らなかった。
「安室の兄ちゃんなら下にいると思うから、せっかくだし渡しに行ったら?」
「下?」
「うん! 下のポアロって喫茶店でバイトをしてるって話はしたよね? お昼はそこで食べようと思ってたから、一緒に行こうよ」
椿さんはお昼まだ? という問いに頷く。
「じゃあ一緒に喫茶店で何か食べて、それから新一兄ちゃんの家に行こう」
準備をするからと、コナンは事務所の中に入って行った。
急に鼓動が速くなるのを感じる。それがどうしてなのか、分かりきっているはずなのに認めたくない。
「つりばし効果……」
椿は自分に言い聞かせるように呟いた。安室の名を聞いて胸が躍るのも、頬が熱くなるのも、彼との出会い方がいけなかったのだ。困っているところを助けてもらったから、彼を特別に感じてしまうだけだ。早く心を落ち着かせなくては。そうでないと、本当に彼を好きになってしまう。椿は胸に手を当てて、自分がどれだけ舞い上がっているのかを思い知る。
「お待たせ!」
コナンが事務所に鍵を掛け、二人で階段を下りる。一段、一段と足を進める間にも、椿の熱は上がり続けていた。